山川町に伝わる民話 あれこれ
元気やまかわネットワークが指定管理者となっている吉野川市アメニティセンターの旧サイトに載せていた、民話コーナーを移設したものです。(H24年3月)
阿波将監たぬき
国道193号線を南へいくと、上り勾配のところに山川トンネル隧道がある。その手前東側の山中に赤岩将監大明神の岩窟がある。畳四枚ほどもある大岩で、下部に小さな穴があり、ここから出入りしたのであろうが奥行きは分からない。
赤岩とは土地の名前、将監は近衛府の判官である。この狸、その名に恥じず、数ある阿波狸の中で一、二位を争う勢力を持っていた。郷土研究家の番付を見ると、大関や張出し横綱になって、小松島の金長狸・津田の六右衛門狸と肩を並べている。次に阿波町伊沢の大関・鎮十郎狸と争った話をしよう。
昔々、吉野川を隔てた阿波町伊沢の鎮守の森に鎮十郎という狸がいた。多くの部下を引き連れての大勢力、南岸の赤岩将監とは両雄並び立たず、ついに衝突、大戦争となった。鎮十郎勢、時に戦利なく、鎮守の森を撤退の危機となった。そこで、讃岐屋島に使いを走らせ、有名な「屋島の禿狸」に応援を求めた。屋島の禿狸は当時讃岐狸族の総大将であった。彼はチャンスがあれば阿波へも勢力を伸ばそうと思っていたので、鎮十郎の願いを好機逸すべからずとして、自ら大軍を率いて清水越えの険を越えて押し寄せてきた。赤岩勢は大いに驚き、軍を返して川田麦原の居城に立てこもってこれを防いだ。
戦いは決着せず、持久戦となった。讃岐軍は陣中の憂さばらしに、毎夜芝居の真似をして兵士を慰労した。太鼓の音や鐘の音が夜ごと村に響いて村入の安眠を妨げた。農作物も荒らされ、たまりかねた村民は猟師を雇って狸退治をすることになった。たまたま西川田杵築神社境内で芝居を演じているのを知って、芝居中の人物(義経や那須与一)を目がけて撃ったが、何の手ごたえもなかった。
そこで今度は人物を狙わず、無数にともっている灯のうち目立って大きい灯に向かって発射した。手ごたえがあって太鼓・鐘の音はやみ、森は再び静寂の闇につつまれた。その後は農作物の被害もなくなったということである。
猟師が鉄砲を撃った夜の真夜中、岩津の渡し場から対岸へ渡った覆面の武士の一団があった。一丁の駕籠を囲んで去った。この一団こそ屋島の禿狸の部下で、駕籠の中は負傷した大将禿狸であった。
赤岩方も鎮十郎軍とは勝敗決まらず、合戦はうやむやのうちに終わったという話であった。
次は、赤岩将監の祠の近くに住む老婆の話である。「私がここへ嫁に来たときは、赤岩の狸はよく頼み事を聞いてくれるというのでお参りに来る人が多かった。祠は瓦の焼物で、鳥居もあり、幟も多く立っており、うどん屋も店を出し、時には広場で芝居もできた。
この将監さん、大阪へ乗り出して芝居をした。大阪道頓堀に赤岩将監の信者で、興業師をしている者がいた。ある時、芝居をしたところ大入りで、大分もうけて喜んだ。ところが、入場料金の計算をしてみると、必ず木の葉が入っていた。毎日入っているので、もしやと思い、観客が大方出てしまったところで犬を見物席へ入れた。すると、
一七、八歳の娘が隅の方へ寄り、ついに犬が追いつめてかみ伏せてしまった。よく見ると古狸が一匹死んでいた。これは赤岩狸がこの信者に福を持って来て、自分は死んでしまったのである。
この老婆の話のほかにまだ一説があって、将監は江戸へ出て立派な医者になり、諸人を助けたという話もある。
赤岩将監の祠は今は荒れ果てているが、その働きは今なお語り伝えられている。また、時には祠を尋ねてくる人もあり、祠を再建するのであれば協力したいとの申し出もある。赤岩将監をたずねて、迎坂・佐藤光一を先頭に木々をかき分け道なき道を行くこと一時間、幟を立てたであろう三本の竿を見つけた。その正面、草木の中に石で囲まれた祠があり、棲み家であろう岩の中は暗くてよくわからないが奥で左右に分かれているようだ。そして、ほこりの上の何かしら小さな足跡とそこへ通じる獣道(かやの下方にトンネルのような道があった)は今もなお将監狸の存在を感じさせるものがある。
高越山の天狗
昔、昔のう、ずうっとずうっと昔から、お高越あんには天狗がおってのう。天狗ちゅうんは、背の高さがニメートル、まっ赤な顔でながあい鼻が、ニュウーッとつき出とる。まっ白な髪を、「兜金」ちゅう鉢巻でとめ、一本はまの高下駄はいて、仙人杖をついとんじゃ。この天狗の中でも、特に偉い天狗を「大天狗」、まだまだ修業中の手下の天狗を「カラス天狗」というんじゃが、お高越あんの大天狗は大天狗の中でも、特にすごい力を持った大天狗だったんじゃと。思うままに空も飛べるし、姿もかくせる。夜中まっ暗な中でも、昼間と同じように物が見える。そりゃあ、すごい力を持った大狗じゃったそうな。
この大天狗はのう、山のてっぺんにお祭りしちゃある高越大権現さんのお使い役じゃった。大権現さんの命令どおり、加賀の国の白山へ飛んだり、紀州の那智山へお使いに行くんじゃ。ほして、大権現さんの身のまわりの世話をし、お守り役もしとったのよ。お山へ悪い者が入ってきはせんか、また、悪いことせえへんか、姿を木の間にかくし、じいっと見よるんじゃ。
なに、そんな天狗やおらんちゅうんか。
●大杉と天狗
高越山の頂上日鷲命神社の石段下に、数百年を経た大杉が天高くそびえている。今から三〇〇年以上も前、板野郡のある修験者が、高越山に登り行場を回って苦行を続けていたが、その後姿が見えなくなった。この行者が家を出る時、「自分は高越大権現のお召で山に入るが、難行苦行を積んで、立派にお仕えするから再び家には帰れない。もしわしに会いたくなれば頂上の大杉の所に立って呼んでもらいたい。大杉が生えている間は自分の命があるものと思え」と申し聞かしたとのことである。それから二五〇年もの後、明治四十年ころ、讃岐の三木町にどこから来たのか、無縁といってきたない風はしているが、犯し難い顔の老人が住みついた。いつの間にか近くの供や若者たちがなついて、慕い集まるようになった。老人は集まった若者たちに色々教えを説いて導いたのでますますその数を増し、人々の喜びと尊敬を高めるようになった。それに不思議なことに老入が印を結べば珍らしい色々な品物が、丁度手品をするように現われる。そしてそれを分けて貰えるので若者たちは大喜びだった。
ところがある日、「今夜は客があるから決して来てはならない」と厳しく申し渡した。若者たちは何んだか不思議に思って止められているにもかかわらずそっと老人の様子をのぞきに行った。びっくりしたことには天狗たちを集めて酒盛りをしていた。若考たちは腰を抜かすように驚いて逃げ帰ったが、その老人の姿は翌朝全く見えなくなっていた。そしてただ高越大権現のお札と大杉の絵が描かれた一枚の板片が置き捨てられてあった。
これは前の行者の化身であろうという。
恩を返したタヌキ
時は明治元年、冬のある夕方、西川田の西福寺の慈弁和尚が、壇家の御内仏報恩講の説教を終えて、寺へ帰る途中のことであった。寺に程近い竹藪の脇を通りかかると、四、五人の子供が一匹の子狸を捕えて、しきりになぶりものにしている。「かわいそうに、生物をいじめるものではないよ。はなしておやり」と和尚が声をかけると、「和尚さん、こいつはさっきこの山で捕った子狸で、生かしておくと人を化かすんだから、みんなでなぶり殺しにしようといってるところです。はなすなんてとんでもない。」と、なかなか和尚のことばを聞き入れそうにもない。無理に取り上げることもできず、かといってこのままにもしておけない。僧として殺生は見捨てられない。
じっと思案した和尚は、子供たちに向かって「ちょっとお待ち、ここに壇家からもらったおにぎりがある。これを全部あげるから、その子狸と代えてくれまいか。」ということで、やっと子狸をもらい受けた。いたわりながらふところに入れて帰り、寺の前山へ連れて行き、「ここなら大丈夫と思うが、うっかり里へ出るとまたつかまってひどいめにあうぞ。大きくなっても悪いことはしないで元気でお暮らし」と、慈愛を込めてはなしてやった。子狸はいかにもうれしそうな様子でおじぎをして、いそいそと木立ちの中へ消えていった。
明治十四年の秋、慈弁和尚はふとしたことから病みついて容体も悪く、家族・壇家一統も、「今一度この和尚の全快を」と願っていたときである。日が西山に落ちるころ、まだ若い一人の僧侶が庫裏の玄関に立って案内をこうた。挨拶に出た家人に、「お見知りのないのはごもっともですが、私は当寺の御老僧に十数年前お助けを受けた者、御老僧重態と承りましたので、何のご恩返しもできませんが、是非一度お目にかかってお礼を申し上げたいのです。」という。それはそれはと家人が老僧の病床に案内すると、若僧はしげしげと変わった老僧の姿をみて、ハラハラと涙を流した。そして、和尚の耳元で声を落として、「十四年前に助けていただいた子狸でございます。今はどうやら一人前の狸になっておりますが、これも和尚さんのお陰です。ご恩はいつまでも忘れは致しません。」とお礼を述べ、全快を祈って、たずさえたみやげ物を残して去って行った。和尚は、「ああ畜生でさえもこのように恩義をわきまえているか、ありがたいことじゃ。」と感嘆して、枕辺で夜とぎをしている人々に一部始終を語って聞かせた。翌日になってみやげ物をみると、木の葉に変わっていた。
この狸は前山の御真影堂近くをすみ家として、常々和尚を守っていたとのことである。葬儀の晩、南山で一晩中悲しそうな泣き声を聞いた人があったが、その後はだれもこの狸を見たことがないと言い伝えられている伝説、いや実話である。
お染めタヌキ
湯立の鉄橋の西、北島の村雲神社(妙見さん)の西から北にかけた一帯は、島の藪といっていた。ずっと古い昔は、字大林の広い地域は大木や竹藪があったといわれている。明治時代までに大林は切り開かれていたが、島の藪は五〇数年前までなお広い面積を占めていて陰気にとざされていた。
この藪に古くから狸の一門が住んでおり、その住み家も八畳以上の広い穴ぐらを造っていたといわれている。
明治二十年代に鉄道を敷くために、この藪の一部を切り開き、狸どもの住み家もつぶされてしまった。仕方なく狸たちは本拠を天神山に移した。このため狸は人間に強い敵意を抱き、とりわけ汽車の往復をいまいましく思った。
この狸の頭はお染狸といわれている。お染はこれまでも人々を化かして悪戯を働いていたが、鉄路が出来てからはいっそうはなはだしく、折を見ては娘に化けて人を裸にしたり、道を迷わせたり、人や藪近くの人家に石を投げたりした。お染は女狸なので化ける場合には必ず夜目にも美しい娘姿をした。時には昼間さえ出て桑刈りの男を鉄道へ引きこんで、線路に寝かせたこともあるという。また終列車の折、飛込み自殺と見せて列車を停めることも何回かあった。機関士の目にはありありと列車進行の前を女が通る姿が見えるので急停車する。進みかけるとまた現われるなどして機関士を困らせたという。こうした狸の悪さのため北島から岩谷部落に通じる道路の踏切では列車事故が多く、轢死者も何人かあったので、ここに、地蔵尊を祭って不慮の死者の霊を慰めると共に狸の悪さをおさえたという。
矢落
戦国の世、長曽我部元親は土佐一国を平定した勢いに乗って、阿波国へも攻め入ることになった。いよいよ部下をひきいて出発と決まった前日、家来の一人が根のついた矢竹一本を弓につがえ、神に念じて「どうかこの矢が阿波国の地に立って彼の国に生えわが土佐国を広め給え」と心をこめて祈ってから、阿波国に向かって空高く射たところ、矢は阿波の国の中央と思われる方に飛び、何か手ごたえがあったように感じた。
それから一○年余り、各地に戦って阿波国の平定も終り無事に帰った。そして出征の折に射た矢を求めて再び阿波へ入り、各所をたずねてこの矢落の地にたどりついたのは、矢を射てから一五年目であった。谷間をふと見覚えのある矢竹が生えているのが見えた。元の数倍に生長しているが、白分が放った竹に相違ない。尋ね歩いたかいあって、今そのそばに立つことが出来たというので涙を流して喜ぶと共に神恩に深い感謝を捧げた。
これ以来この地を矢落というと伝えられている。これには他の説がある。
壇の浦の戦に那須与一が屋島から放った矢がこの地に落ちて石に立ち、それから矢落の地名が生まれたというのである。そして、その矢の立った跡が今もなおこの地の石に残っている。また大古、高越山と大滝山がけんかをして、大滝山から射た矢がここに落ちた所で、その矢が生えて今なお矢竹の群生となっている。という説もある。
お七
螢川の元山瀬町役場のあった川添い付近を「お七」という、この地名がついたのには哀れな物語がある。
このあたりに人家那まだ点々としかなかったころ、ある家でお七という一〇歳くらいの女の子を子守りに雇っていた。
ある日お七は、いつものように赤ん坊を背おって、螢川近くへ遊びに行ったところ、秋草の間にバッタがあちらこちらに飛んでいた。子供心にそれをとって赤ん坊を喜ばせようと、木の根方に赤ん坊をおろして、ついバッタとりに夢中になっていた。気が付いて赤ん坊をおいた所へ帰って見ると、どこにもいない。お七は必死にさがしていたが、ふと川に目をやった時、赤ん坊が水に落ちて哀れにも冷たくなっていた。悲しさと、深い責任に、後悔したもののどうすることも出来ず、自ら赤ん坊の後を追って川に入り、自殺をしたのである。
後の人々がお七を哀れんで、だれとはなしに、この辺を「お七」と呼ぶようになった。
茶碗淵
旗見の池から流れ出た水は、新山と石堂の間を流れて、川東の南側を西に流れ東用水に注がれている。
この谷添いを旗見に通じる細道は、元の旗見へ行き来する東道ではあるが、古い時代はこの両側は竹藪や木が生え茂って、昼間もうす暗く気味の悪い所であった。
そのころ夕方になると、黒衣をまとった二丈もある大入道が時々丸山の方から高越寺にお参りに行っていた。その往復の途中で、必ず谷をまたいで深い淵の水を飲むのであるが、そのひびきは物すごく、谷の音を消して周囲の山にごだました。もしもその折、人でも通り合わせると、大声でどなりつけられて、即座に気絶した。この淵が大入道の茶碗なのでここは茶碗淵といわれている。今は淵がうずまり、側に人家さえあって昔の様子は無くなっている。
二又土手の人柱
河川改修以前は川田川が山崎の東端から学の西方で吉野川に流れ込んでいた。洪水が出ると水位が上がって、ちょうど伊勢邸の北側で両方の水が流れ合って低い堤防に突き当たり、この付近でよく切れたらしい。被害も大きく当時の幼稚な堤防工事としてはこれを防ぐのに困ったようである。
いつの時代か、幾度目か、この土手が切れた時、窮余の策として人身供養の問題がひそかに決定された。
それは明日の午後七時にこの土手へ来た女の人を生きうめにするという恐ろしい決議である。ところがそれとは知らず薬びんをさげて医者から帰る女の人が、不幸にも、ここへ通り合わせて、無理に人柱として犠牲となってしまった。その晩から毎夜母を慕う赤ん坊の泣き声が悲しそうに聞こえ、その哀れさに人々は胸を傷めた。それは、死人が自分の可愛い乳飲み子を呼びよせてお乳を与えていたのである。
村人は恐れと哀れさに地蔵を作ってその冥福を祈ったのが二又土手のこづき地蔵で今なお残っている。
番屋の嶽
奥野井谷川は、昔、高越大権現の信者たちがこの谷川で薩をしてお参りしたので、薩川または祓川とも呼ばれた。この谷川の源流のあたりは急な断崖となり、その南側の中腹に「番屋の嶽」と呼ばれるところがある。
昔、楠根地に偏屈者といわれた長者がいた。彼は立派な家財や武具を持ち、また、多くの下人を使っていた。ある時、彼は祓川の断崖に、長いはしごをかけなければ登ることのできない洞くつがあるのを見つけた。間もなく彼は何を思ったのか、目ぼしい家財や武具を洞くつに運びこんだ。そして洞くつの下に小屋を建てて番人をおき、自分は毎日洞くつにかよって、一人で何かを楽しんでいた。いつごろからか入々はこの洞くつのあたりを「番屋の嶽」と呼ぶように校った。後にこの洞くつの下あたりで、立派な器物を拾った者がいたそうである。
山彦はん伝説
今から270年ほど前、時代でいえば正徳のころのことです。蜂須賀の家老である脇町稲田家に、伊勢伝左衛門という人がいました。その先祖は尾張の国の人で、山口左馬助吉久といい阿波へ来て蜂須賀の殿様に仕えました。伝左衛門はその五代目に当たります。初め六助といいましたが、後に伊勢で棟道を学び伊勢伝左衛門と改名しました。父は又助といい、文武の道に秀でておりました。その教えもあって、六助も長じてから軍学を学び、剣は竹内流、槍は大島流、また書は大師流・道風流・尊円流などを能くしました。その上、和学を好み、神道を伊勢で学んでその秘法を会得しました。そして稲田家はもちろん、国中の師範として名を知られるようになりました。何事も余りできすぎると、出る杭は打たれるで、それを心良く思わない人も出て来ました。何でも出来るというのでしまいには魔術を使うともいわれました。こんな話も伝わっております。
○白分が教えていた寺子屋の子どもをいながらにして讃岐まで飛ばして金刀比羅宮に参拝させた。
○吉野川が洪水の時に水の上を歩いて渡った。
○江戸に火事が起きた時、脇町にいたままで消した。
伝左衛門が最後に殺されたのは、次のような事件があったからです。正徳五年(四年との言い伝えもあります)三月のことです。蜂須賀の殿様が例年のように国内を巡視して脇町へ来ました。殿様は日ごろから稲田の家来の伝左衛門が不思議な術を使うということをよく聞いておりました。それで早速その術を見せるように彼に命じました。伝左衛門は、秘術というものは見世物でもなく、また簡単にできるものでもないので断わろうと思いましたが、主君の稲田の
殿様の命もあったので止むなく披露することになりました。
伝左衛門は麻の衣を着て大屋敷の吉野川の岸へ行きました。そして川沿いに西の弁天へ行き、そこから川に飛び込みました。ところが、それと同時に一天にわかにかき曇り、風が吹き大粒の雨がざあざあと降り出しました。ふと上流を見ると、大きな丸太の木が流れて来ます。その丸太がちょうど殿様のあたりまで来た時、急にそれが大蛇に早変わりして殿様に襲いかかろうとしました。殿様はびっくりすると同時にたいへん恐怖を感じて真っ青に顔色が変わりました。まわりの家来たちも急いで殿様を守ろうとしましたが、足がすくんで動けません。殿様は声をふりしぼって「伝左衛門、もう分った。」と叫びました。するとどうでしょう。雨や風は止み、元の穏やかな景色に変わりました。吉野川は前にもまして静かに流れておりました。
殿様はもちろんですが、家来の人たちもみなその無礼な仕様にたいへん立腹し、口々にその罪をいい立てました。殿様はすぐその場で伝左衛門に死罪をいい渡しました。主君の稲田の殿様も止むなく家臣の佐藤善左衛門に命じて、領内の川田山で処刑するよう指図しました。善左衛門は竹籠に伝左衛門を入れて川田山へ出立しました。その時、火の中から白い鷲が二羽飛び出し、大空へ向かって飛んで行ったそうです。(一羽は曽江山の方へ、もう一羽は穴吹の白人はんの方へ飛んだともいいます。)
そういうことがあってから、稲田家にはいろいろな不幸が相ついで起こりました。また命じられて伝左衛門を殺した佐藤家も、そのたたりで直ぐの子孫が絶えてしまったといいます。
稲田家も重なる不祥事が起こるのは、伝左衛門の亡霊のたたりであると思い修験者を使って拝ませました。ところがその修験者を通して伝左衛門のお告げがありました。「箸蔵から七尾七谷の端の景色のよい所へ祭れ」とのことです。稲田の殿様は早速家来をやって、そんな場所を探しました。ちょうどそれに合うような場所がありました。そこが今、山彦はんを祭ってある脇町曽江名の曽江山です。
川田山にあった墓を移してそこに社を立てました。それが今の山彦大権現です。始めは遠慮して金山彦命(鉱山の神)を祭り、山彦大明神といいましたが、いつごろからか大権現(人を神として祭る、その人のこと)となりました。社が建てられたのは寛保元年(一七四一)十二月二十五日となっています。後(宝暦年中)、川田山でも佐藤氏縁りの人や村入によって小さな社を建て、医光寺が別当となってその霊を弔いました。川田山も大明神でしたが、昭和十六年社殿を新築したころから山彦大権現となり、社名も山彦寺に変わりました。
伊勢伝左衛門は文武両道にすぐれていましたので、戦勝祈願などがなされていましたが、上海事変(昭和七年)ころより弾除けの神とされ、出征や入隊する人がたくさんお参りにきて一躍有名となりました。今でも厄除けの神として多くの信者が県下にひろがっています。
秋の祭には曽江の山彦はんのおみこしが、生家のあった脇町新町までお渡りをしますが、それはちょっと変わったお渡りで、夜中に曽江を出、脇町を通る時はだんまりでおし通します。一般のおみこしが威勢のよい掛声をかけながら渡るのにくらべるといかにも不思議な感じがします。言い伝えによると、帰途につく時、おみこしが帰ることをきらって動かなくなったり、また後もどりしたこともあるそうです。