まずはこれを観てもらいたい。飛ばさないで全部観てほしい。
どうです、ぐっときたでしょう。感動したでしょう。スタイリッシュな映像にしびれたでしょう。
これらはすべて80年代のコカ・コーラのCMで、当時のイケイケ広告業界の底力が炸裂した素晴らしい作品群である。本当によくできていると思うし、プロダクション・バリューといいトータルのクオリティといい「シズル感」(笑)といい申し分が無い。CMとしては満点に近い出来栄えだ。嫌味ではなく、こういうCMを作った人たちをぼくはリスペクトする。よくぞ、ここまで嘘をつきました。本当は何の心もこもっていない映像で、インチキの「感動」を演出する手腕は実にたいしたものだ。パッと見の「良さげさ」以外、ここには何もない。そしてそれは圧倒的に正しい。これは「コカ・コーラ」を、本来「コカ・コーラ」とは何の関係もない「良さげ」なイメージと結びつけて、「なんとなく、コカ・コーラはいいものだ」と思わせるための、おそろしく洗練された表現である。
観ていてぐっとくるように感じるのは、これらのCMすべてが「人生の断片を切り取ったかのように」見えるからだ。ああ、人っていいな、生きてるっていいな、(コカ・コーラっていいな)、と思わせるために、周到に計算された映像が羅列される。
もちろん、その「ぐっとくる」感は錯覚だ。ここに写っている「さわやかな」人たちについて、ぼくは何も知らない。シチュエーションもわかったような気分にはなるが、本当は何が起きていて、どういう人たちがどういう関係を持って、何をしているのかわからない。スローモーションも多用されているが、それは文脈とは関係がない。なんとなく感動的な気分を盛り上げる「かっこいい映像」のためのツールでしかない。だって、どこの誰とも知らないどっかのくそモデル風情同士が、なんか笑いあってる映像が、普通の速度で映写されようがスローモーションになっていようが、そこに意味は見いだせないからだ。このCM群には、すべて「意味」がない。もちろん作り手はそこをよくわかっていて、「意味」を排した「印象」オンリーで勝負しているわけだ。撮影も(このころのこういう金のかかったCMはみんな35mmで撮影されている)、照明も、シチュエーションもアングルも、みんな「ドラマ」があるような「印象」を強烈にもたらすが、実際は何も語っていない。ほれぼれするようなプロフェッショナルの仕事である。
そして、これは「映画っぽい」。そんじょそこらの低予算映画では太刀打ちできないほどのプロダクション・バリュー(=予算かかってる感をもたらす映像のクオリティ)がここにはあるし、実際それはそうだ。今はわからないが、当時のCMは冗談ぬきで30秒の映像に億という金をかけており、このコーラのCMは有名俳優を使っていないからそのぶん予算が削減できたとは思うが、それでもゆうに劇場用映画が撮れる予算が投入されているのは間違いない。一本ごとにだ。
が、いくら「映画っぽく」ても、このコーラのCM群は「映画」ではない。
(通常の)映画は、単なる印象の羅列とはまったく違うものだ。映画のカットや小道具、照明、アングル、それに特殊効果などは、すべて「そこで何が起きているか」を指し示すための彩りだ。ペキンパー映画のスローモーションは、伊達や酔狂で「なんとなく」スローな映像を入れてみたわけではないし、『ブルー・ベルベット』でローラ・ダーンが暗闇からすっと現れる場面は、「なんとなく暗闇から出てきたらかっこいいから」そうなっているわけではない。そこには文脈と関連した意味がある。まっとうな映画を作る人たちは、自分の映画を意味で埋め尽くす。小道具ひとつ、衣装の色ひとつまで監督がこだわるのは、そこに意味が、隠喩が、キャラクターを象徴するものがあるからだ。かっこよくいえば、映画は「意味の王国」なのである。ふだんなかなか意識しづらいことではあるが、カットが切り替わるタイミングにも、カメラがパンするスピードにも、クローズアップが挿入される瞬間にも、全部「意味」がある。こんな青臭いことをいまさらいうのは本当に恥ずかしいが、こういうアホみたいにわかりきった前提が共有されていない現状というものもある。だからここで一番バカみたいな例をあげよう。通常、映画で雨は絶対に「たまたま」降らない。映画で雨は心情表現として用いられるので、主人公が打ちのめされたり、泣きたい気分だったり、ストーリー上ものごとがどんづまりでどうしようもなくなったときに、象徴として降ることになっている。逆に言えば、雨が降っている場面はそれだけで人物の心情表現になり得るので、「雨が降っている」のに、加えて主人公がその中で泣く必要はなかったりする。最近の日本映画で、雨が降っている中で人物が号泣して、おまけに科白で「オレは悲しい!」というものがあったが、そんなにメガマックみたいに積み重ねる必要はまったくないし、逆にそこまで積んであると「もしかして、この映画を作った人は全然映画の表現の意味がわかっていないのでは…」と不安にかられ、いや、確信するのである。
さて、今回は本当は、中島哲也「監督」の「映画」というふれこみの『告白』という、CMもどきの単なるかっこよさげで意味を欠いた薄汚い映像の羅列について語るつもりだったが、もう面倒くさくなったからやめる。ここまで書いたことから、ぼくが言いたいことをくみとってもらいたい。悪質なCMまがいの(なんで悪質かというと、売りたいのが商品ではなくて「かっこよさげで才能のあるオレ」でしかないからだ。コカ・コーラを売るために粉骨砕身したクリエイターとは大違いだである)カットをいくらつなげようが、そんなものは「映画」とはいわない。『告白』のスローモーション、変なボケ足(あとからくそAfterEffectsとかで足しただけ)、妙ちきりんなアングル、カットバック……もう羅列するのもうんざりするが、全部ただの思いつきだ。「かっこよさげ感」だ。そこには意味もなければストーリーやキャラクターを深めるための工夫も一切ない。こんなものは映画ではない。はっきり言って『告白』を具体的にディスったら2万字とかでは済まないと思うが、そんな労力も使いたくない。『告白』には『悪魔の毒々モンスター』の1コマぶんの価値もない。コーラの宣伝はよそでやれよ! 死ね。ヘイルサタン。