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>これはこじつけなんじゃないかなあ。あのトールキンが、自分の創作に現実の社会状況をそこまで露骨なかたちで反映させるなんてことがありうるものでしょうか?
英国のファンタジー文学が19世紀末ごろに盛り上がりはじめたのは事実だし、当時の世情とファンタジーの勃興の間に関連があるかもしれないという考えなら僕も否定しません。でも、関連があることとファンタジーの内容とは別のことです。
指輪物語における「エルフ衰退」の解釈/族長の初夏
http://umiurimasu.exblog.jp/6208872/
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この指摘は議論になる部分だなーと思いました。
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イギリスやフランスといった欧州の列強が全盛期を迎えたのは、既に前世紀のことです。(中略)でも、そんなことがいつまでも続くわけがないから、やがて植民地も手放さざるを得なくなって、衰退の時代が始まる。トールキンの『指輪物語』や、ムアコックの『エルリック・サーガ』で、エルフやメルニボネ人と呼ばれる貴族種族の終焉が描かれるのは、たぶん、ここらへんの状況を反映しているものと思われます。
『らき☆すた』の文化的背景/Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070923/p1
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- J.R.R. トールキン, J.R.R. Tolkien, 瀬田 貞二, 田中 明子
- 新版 指輪物語〈5〉二つの塔 上1 (評論社文庫)
- 井辻 朱美, マイクル・ムアコック
- エルリック・サーガ〈7〉真珠の砦
上記の意見は、この海燕さんの指摘に書かれたことなので、僕の最初のこの記事
『らき☆すた』に見る永遠の日常~変わらないものがそこにある
http://ameblo.jp/petronius/entry-10048130571.html
とは主題が違う話なのですが、最近ずっとファンタジーとは何か?っ考えていたので、ちょっと敏感に反応です。とてもややこしいので、少し議論のレイヤーを分解しておきたいと思います。
■トールキンの語るファンタジーとは何か?
議論を整理しておくと前提として、
・トールキンは、自己の創作世界が、現実といっさいの関連がない!ということを強く主張している
・その理由は、ファンタジーが準創造行為であるということ
・準創造行為とは、この現実にありえないものを創造することである
(逆に言うと、この現実にあるものの比喩や代替物はファンタジーではない)
以下、この話を前から話しあっている不思議漫画blogのさくもさん のブログから少し引用させていただく。
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>要するに、ファンタジーの本質とは、現実世界で見られるような人間ドラマを主眼とする物語のことではなく、新しい世界の創造を主眼とした物語のことである、ということですね。そういうファンタジー(新しい世界を創造する)を一般にハイ・ファンタジーと言いますが、トールキンの『指輪物語』を思い浮かべてもらえればよく分かると思います。エルフの物語、ではなく、エルフがいる物語、なのです。エルフがいるということは、どういう世界になるのだろう。どういう暮らしをしているだろう。他の種族との関わりはどうだろう。そういった点を創造するのがファンタジーであり、それを楽しむのがファンタジーであるのです。
ファンタジーとは何か ―J.R.R.トーキン『ファンタジーの世界』より/不思議漫画blog
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-184.html#more
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アイドルになる(=他者からの羨望を集める)という欲求は、現実世界で実現するかもしれないけれど(少なくとも可能性はある)、鳥になる(=現実での物理法則を無視)という、どうあってもこの世界では実現不可能な願望が、トールキンが述べているような本質的な魔法を生み出すのだと思います(*つまり、「魔法」少女モノ、と言われてはおりますが、「他者からの羨望を集めたい」といった他者志向性を根源に持つ願望から来る「魔法」というのは、「ファンタジー」の本質からはかけ離れたものであると思います。それらの欲求を満足させたい方々は、おそらく創造の物語を読むよりも、「人間ドラマ」を主眼とした物語を嗜好されるのではないかと思われます)。
ファンタジーとは何か その2 ―起源
http://fantamanga.blog17.fc2.com/blog-entry-197.html#more
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- J.R.R. トールキン, John Ronald Reuel Tolkien, 猪熊 葉子
- 妖精物語について―ファンタジーの世界
まとめると、トールキンは、自分の創作物に関して、ある哲学を持っていました。それは、現実とは一切かかわりあいのない次元での創造行為や脳の働きが、重要なのだ!ということです。
■19世紀末の非人間化に抵抗する無垢な存在としてのアダムへの憧れという文脈
ここからは僕の推測です。
当時の19世紀末のヨーロッパ知識人の文脈を想像してみたいと思います。
アナール学派のアリエスによって、中世からの「子供という概念」の丹念な分析によって、それまでなかった概念が、徐々に近代になるにつれて生まれてくることが分析されています。このころは、いわゆる社会学で言われた「子供という存在の発見」が叫ばれた時代でした。非人間的なロボットのような工業社会での労働者を沢山生み出した資本主義の勃興期に対するアンチテーゼとして、「人間的なるもの」を取り戻そうと考えていたのです。
- フィリップ・アリエス, 杉山 光信, 杉山 恵美子
- 子供の誕生
では、「人間的なるもの」とは何か?
そこで、人間の本質は、人間の創造行為だ、と考えて、それはなにか?ってのを追及していったのです。しかし、けっきょく社会化して「大人」になってしまった人間は、ただの労働力となり、常識の奴隷となります。では、「そう」なる前の人間とは何か?というのが、19世紀末の知識人の問いでした。蛇によって知恵の実を食べる前のアダムとは何か?という議論です。ちなみにこの議論は、20世紀を深く支配した議論です。(もちろんいまでもね、いわゆるマルクスのアリエネーション論です)
それは、子供だ!ということになったんですね。
精確に云うと、無垢な子供。
不思議の国のアリスやロリータコンプレックス、子供の保護の概念が生まれたのも、こういった「無垢」なものへの憧れという19世紀末の資本主義社会の非人間化へのアンチテーゼがあるのです。
- ルイス・キャロル, 高橋 宏, Lewis Carroll
- 不思議の国のアリス・オリジナル(全2巻)
それまでは、子供という存在(=認識)は存在していなかったことが、社会学では明らかにされつつあります。大人の小さいの、というものだったんですね、扱いが。とすると、19世紀末の知識人の基本的感覚として、無垢な状態での無垢な想像力の発露が、非人間化した人間が回復するために必要なものだという基調低音があったと思うのです。
ファンタジーを本格的に実践して創造したトールキンが、理論として、現実の風刺モノなどと一体関係ないものだ!と理論的に喝破したのは、当然だと思うのです。文脈からいって、峻別しないとおかしいですから。
■19世紀末の非人間化へのアンチテーゼという文脈は?
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>指輪物語について「いかなる種類のアレゴリーも排除する」と言っています(だったと思う)。誤解されやすい「ホビット庄の掃討」のパートについても、「英国の田園風景の喪失という当時の状況を反映したものではない」とはっきり断言しているはずです。
指輪物語における「エルフ衰退」の解釈/族長の初夏
http://umiurimasu.exblog.jp/6208872/
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上記文脈から考えると、トールキンが「いかなる種類のアレゴリーも排除する」といった目的は、ファンタジーという創造行為の理論化の部分からいって絶対に許容できない本質だったからです。がしかし、ではなぜ無から有を作り出すというようなファンタジーという創作物が生まれたのでしょうか?。それも19世紀末の英国に集中して。それはやはり、資本主義や帝国主義などの勃興による社会のあまりの流動化に人間の精神が擦り切れてしまい、存在自体に動揺があったがために、「いまとはまったく別の世界」を志向する意識が生まれたとはいえないでしょうか?。
カールマルクスが、資本論の第一巻を書き上げたのは、イギリスで1883年3月14日(19世紀末)です。彼の描いた共産主義思想は、ユートピア思想と呼ばれますが(マルクスの定義上そう呼ぶと怒られるでしょうが)、「いまの世の中ではありえないような別の世界」を夢想したという意味では、ファンタジーとまったく等価の機能を、工業化時代の非人間化にさらされている人々に対して、持ったと思われます。
- マルクス, エンゲルス, 向坂 逸郎
- 資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)
- トマス モア, Thomas More, 平井 正穂
- ユートピア (岩波文庫)
そう考えると、文脈上は、現実の等価物もしくは比喩として考えては「絶対いけない」トールキンは主張すると思われます。理論の文脈上、そうでなければならないからです。しかし、そういった理論が「出てこなければならなかった社会背景的文脈」を考えると、やはりそれは、この時代の現実背景を無視には語れない、と僕は思います。
アナロジーでないはずないじゃないですか。滅びゆく貴族の感覚なんて、この時代の基本的な文学テーマです。サンテグジュペリがその想像力の基本に置いたのは、貴族社会の最後の生き残りであった伯母の家での子供時代の記憶でしたよね。子供時代はだ貴族の館で暮らした彼も、彼の生活自体は、ほとんどがサラリーマンで、NYのアパートメントでくらしています。このあたりのノスタルジーが影響を与えたかったとはとてもじゃないが思えない。だって、全文学や出版物の基礎みたいなイメージですからね。実際の生活の変化、という意味でもね。
- サン=テグジュペリ, Antoine de Saint‐Exup´ery, 内藤 濯
- 星の王子さま―オリジナル版
- ナタリー デ・ヴァリエール, Nathalie Des Valli`eres, 南条 郁子, 山崎 庸一郎
- 「星の王子さま」の誕生―サン=テグジュペリとその生涯 (「知の再発見」双書)
とりあえず何が言いたかったといえば、族長の初夏のumi_urimasuさんも海燕さんも、どちらも主張としては正しいと思うのです。それを全体的に包括・整理した上で、そこから何を言うのか?って議論になるのかな?と思うのでした。
とりあえず、僕が聞いてすぐ頭に浮かんだのはこの図式でした。正しいかどうかはわかりませんが。だれかファンタジー詳しい人、ぜひ意見を聞きたいです。ちなみに、僕もファンタジーには詳しいわけではないので、ぜひ詳しい人ご意見を頂戴したく。