【ネタバレあり】「戯曲法廷」観てきた。イロイロ考えたよ。まずまずの出来やし、田舎の公民館の手作りの舞台の感覚がオモロイという意味も込めてオススメ。 #戯曲法廷
評価は5点満点で4点かな。
法廷モノだから、笑えるけれども、ものすごく感動したというわけでもない。
大きくはそこが惜しい。
もう少し言うと、まあ練習時間もあるんやろけど、2日目の2回目公演にもかかわらず、みんなセリフけっこうトチっとった。
ある程度はご愛敬と思うけど、ちょっとトチり過ぎと思って、そこはマイナス評価。
演出家も、イロイロとある子らを纏めるのは難しいし、ギャラとの関係もあるやろけど、やっぱ最終的にはその人の作品に対する志がみんなから尊敬されるかどうかやと思うし、そのあたりを突き詰めて完成度の高い舞台にして欲しい。
まあ今日の明日やから、私の意見はこの舞台に反映はできんとは思うけど。
それで、そのトチってみんなから笑いを誘ったなーにゃについては、舞台上で度胸が据わっていて、トチってもドヤ顔できるのは強みと思う。
半面、トチってもドヤ顔できるから、本当ならばもう少しトチらないように練習できるところを練習してないという実態もある。
なーにゃと同い年でテレビにひっぱりだこの女優だっておるやろ。私もパッと名前出てこんけど。
りっちゃんだって4歳くらいしか違わんのだっけ。
それとの違いのいちばん大きなモノは、なーにゃが高い完成度を追い求めてないことで、だからなーにゃは損をしとる。
そういう、自分が損をしているところを意識して、練習に臨めたら、もっといろんな舞台から声がかかるよ。
それで、台本どころかパンフレットもなかったから、私の記憶によるけど、法廷モノで、昭和5年だか10年だかが舞台で、殺人があって、状況から見てどう考えてもこの子が犯人、というのを、なんとか無罪にする物語やった。
いやそれだけでは終わらんかったけど。
まあしかし、私もそういう展開か!とは思ったけど、ひねり方も丁度いい具合で、役者さんが演技できるように計算されていて、脚本はなかなかいいと思った。
もう少し加えたら、そこになにか、「この人は尊敬できる」という人を登場させたら良かったんやけどな。
弁護士2人組はまずまずの活躍やけど、尊敬できるかというとちょっと劣るかなあ・・・・
最後は憎しみで終わってもたのも個人的な好みとは違うけど、まああの程度くらいは作品としてはいいか、とは思いながらも、未来に希望が欲しいとも思って、やっぱそういうのも含めて4点になるなあ。
それで、弁護士と検事、刑事、裁判官、らのやり取りが描かれとったけど、私の場合はガチで裁判も起こしたし、刑事が家に来たりするから、みんなが考えとる想像上の弁護士と検事、刑事、裁判官らと、現実のそれとはもうだいぶ違うことを知っているし、まあそういう背景もあって、敢えて昭和初期に設定されたというのもあるのかなあ、とも思うてもた。
てか現代だと監視カメラとかがあるから、証拠がおいそれとなかった過去を描いた、というのが、昭和初期に設定された最も大きな理由とも思うけど。
この作品では、弁護士も検事も、みんな平和な社会を作りたくてその職に就いた、ということになっとった。
裁判官もそうやろな。私の知るリアルな裁判官と違って、公平に裁こうとしとったし。
けど実際は、平和な社会を作りたい、なんて思うとるヤツはおらん。
平和を叫ぶだけで、実はいまの生活をやめたくないと思うとる人間ばっかやし、そんな人間を騙してでも上に行きたいヤツらばっかや。
それで私は、小さい頃はウルトラマンとか仮面ライダーとかセーラームーンに憧れる人間が、いつからそうなってしまうのか?を考えてしまった。
そうすると、大学時代に、優秀な成績を取るとされる先輩が(学科で1番の楠本賞取って卒業したけど、私から見たらバカやった。私は楠本賞取らんかったけどwwww)、自己紹介で「自分は勝ち馬に乗りたい」と書いていて、なんかものすごく違和感を感じたのを思い出した。
”勝ち馬に乗る”なんて発想はそもそも私にはない。
弱い者を見つけたら助ける、ただその繰り返しでしかない。
”勝ち馬に乗る”という発想があるからこそ、ヒトはヒトに対して酷い仕打ちを平気でやってしまう。
それで思い出したけれども、芥川龍之介の”蜘蛛の糸”で、カンダタは結局地獄に落ちてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8
暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって「この糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。
このあらすじを読んで、カンダタは実は現代の人々そのもののメタファーであるとわかる。
そうするとでは、カンダタはどうすべきだったのか?
釈迦はどうしてカンダタに蜘蛛の糸を垂らしたのか?
と思うだろう。
私がカンダタならば、蜘蛛の糸を見て、まず確かに自分がこの糸に捕まろうと思うけれども、・・・それで実際に捕まって後ろに続く人々を見て、糸が切れるところまで想像できるかも知れん、そこまで意地が張っているかも知れんけど、
そこで発想を変えて、糸から手を放して、この地獄をどう生きやすくするか?
だってそこにいるのは罪人、・・・・というよりも、仲間じゃないか。
そういう発想になれなかったのか?
私はそう問う。
この作品を観て、そんなことを考えた。
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