「核武装した国々の責任者たちと、いわゆる『核の傘』の下にいる共犯者たちに言います。わたしたちの証言を聞きなさい。わたしたちの警告を心に刻みなさい。そして、自分たちがしていることの重大さを知りなさい。
あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力システムを支える部品の一部となっているのです。『悪の陳腐さ』を、わたしたちはみな警戒しなければなりません」
2017年7月7日、122カ国・地域の賛成多数で採択された核兵器禁止条約。12月には同条約制定に尽力したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)へ、ノーベル平和賞が授与された。冒頭にあげた授賞式でのサーロー節子さんのスピーチは、世界で唯一の核兵器被爆国でありながら、条約に背を向ける日本のわたしたちに突き刺さるものだった。
日本人のひとりとして、恥じ入るばかりの既視感──といえば、ナイーブに過ぎるだろうか。しかし、日本の外交姿勢が国民の希望や国際社会の期待を裏切るのは、決していまに始まったことではない。
「この現実を、どうか日本の方々に伝えてください」
あのころ、あの島で、そんな言葉をいったい何度投げかけられたことだろうか。
侵略軍に囲まれた赤道直下のジャングルで、密告者の目を盗んだ息詰まる密室で、夜陰と賛美歌に紛れた浜辺のカトリック教会で。ほつれた迷彩服の痩せこけたゲリラ兵士たちや、全身に拷問の傷痕を生々しく残した地下活動家たち、そして過酷な現実に苦悩しつつ十字架を握りしめる聖職者たち。
多くはその後、射殺され、あるいは逮捕・拷問されて、人知れず埋められていった。人口70万弱の島で20万人の犠牲者。実に3人に1人が命を落とす凄惨な戦火の中で、文字通り命をかけて平和を取り戻そうとする彼らの眼差しの先には、いつも日本のわたしたちの姿があった。
東ティモール。赤道直下の太平洋に浮かぶ、岩手県ほどの面積の旧ポルトガル領は、1975年のインドネシアによる軍事侵攻以来、熾烈を極める弾圧下で24年を耐え忍んでいた。
デモを計画する若者たちはすぐさま治安維持部隊の襲撃を受け、密告者として生きるか拷問死のいずれかを選ばされる。女子学生には人体に危険な避妊薬が強制的に投与され、一方でインドネシアから大量の国策移民が流入する。どの国からも支援がないわずか1000人ほどの抵抗軍ゲリラは、米国支援による近代装備のインドネシア軍2万人超を前に、存在そのものが奇跡にさえ見えた。
訪れる外国人には、常に監視や尾行がつきまとう。「この島には戦争などない。テロリストが治安を乱しているだけだ」。そううそぶくインドネシア当局によって管理された情報だけが、国際社会の沈黙に免罪符を与えていた。それでもこの島の人々は、ときに自ら進んで侵略者の銃口の前に立ち続けた。この島で起きている現実を海外に伝える、ただそれだけのために。
「日本こそが重要なのです。日本人さえ事実を知ってくれれば、状況は大きく変わるはずです」
彼らは日本人ジャーナリストの取材を支えるために、ときにはオーストラリアのNGO活動家を身代わりとしてインドネシア当局へ引き渡しさえした。二重スパイとして生きざるを得ない抵抗活動家たちの、ギリギリの判断である。日本人があふれかえる観光地、バリ島までは飛行機でわずか2時間弱。しかし、バブル経済に浮かれる日本人には結局、その島の場所はおろか、名前さえほとんど知られることはなかった。