1期1話から2期13話まで全話見たので『ラブライブ!サンシャイン!!』の感想記事を書いてみます。タイトルは「考察」にしたほうが読まれると思ったのでそうしました。時間のある方のみお付き合いください(約9000字)。
1期1話から2期13話までのストーリーの確認
まず『ラブライブ!サンシャイン!!』の冒頭つまり1期1話は主人公高海千歌の語りから始まります。この語りは転校生の桜内梨子が教室に入ってくる場面の映像から始まっています。
普通なわたしの日常に突然訪れた奇跡。
何かに夢中になりたくて、
何かに全力になりたくて、
脇目も振らずに走りたくて、
でも何をやっていいかわからなくて、
くすぶっていたわたしのすべてを吹き飛ばし、舞い降りた。
それが、
この「それが、」のあとには、1話最後の
それがすべての始まりだった。
というセリフがつながります。
1話はAqoursメンバーが一通り紹介されます。1話で千歌は小原鞠莉以外と直接接触します。すべての始まりは他者との出会いだということが鮮やかに提示されます。とくに桜内梨子との出会いが強調されています。
1話では千歌と梨子の会話で『ラブライブ!サンシャイン!!』の目標のようなものが示されます。千歌はμ’sとの出会いでスクールアイドル部をやることを思いつきました。
あなたみたいにずっとピアノを頑張ってきたとか、
大好きなことに夢中でのめりこんできたとか、
将来こんな風になりたいって夢があるとか、
そんなのひとつもなくて。
わたしね、普通なの。わたしは普通星に生まれた普通星人なんだって。
どんなに変身しても普通なんだって、そんな風に思ってて。
それでも何かあるんじゃないかって思ってたんだけど、気がついたら高二になってた。
そんなとき出会ったの、あのひとたちに。
みんなわたしと同じようなどこにでもいる普通の高校生なのにきらきらしてた。
それで思ったの。
一生懸命練習して、みんなでこころをひとつにしてステージに立つとこんなにもかっこよくて感動できて素敵になれるんだって。
スクールアイドルってこんなにもこんなにもこんなにもきらきら輝けるんだって。
「こんなにも」という表現を3回繰り返しています。まず千歌はμ’sという具体的で明確な目的地を設定してそれに向かって頑張ろうと思います。そのあとμ’sを追いかけてラブライブで優勝するだけではだめだと気づきます。
2期1話で千歌は輝きをやっとつかめそうなところまで行ったと言っています。2期はラブライブの地区予選敗退で始まり、この時点でもまだラブライブは大きな存在です。そして2期ではラブライブ優勝までの話が語られます。
そしてついに2期13話すなわちこの作品の最終回では、1期1話の冒頭の語りを受ける形で答えを提示しています。
普通なわたしの日常に突然舞い降りた奇跡。
何かに夢中になりたくて、
何かに全力になりたくて、
脇目も振らずに走りたくて、
でも何をやっていいかわからなくて、
くすぶっていたわたしのすべてを吹き飛ばし、舞い降りた。
それは、その輝きは、
わかった。わたしが探していた輝き、わたしたちの輝き。
あがいてあがいてあがきまくってやっとわかった。
最初からあったんだ。はじめて見たあのときから。なにもかも。
一歩一歩わたしたちが過ごした時間のすべてが、
それが輝きだったんだ。
探していたわたしたちの輝きだったんだ。
ここで明確に「一歩一歩わたしたちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだったんだ」と言っています。そして最後の歌の歌詞にも次のようにあります。
青い鳥探してた。
見つけたんだ。
でも、かごにはね、入れないで。
自由に飛ばそう。
答えはいつでもこの胸にある。
気がついて、光があるよ。
そうだね。本当は持ってたんだよ。ぼくたちは
みんな持ってた。胸に眠る輝き、目覚める前の力。
μ’sとの出会い、梨子との出会いから始まり、輝きを探していた千歌の物語は一応これで完結ということになりました(劇場版はありますが)。千歌は最初はμ’s、スクールアイドル、ラブライブ優勝、といった明確な対象を目指していました。しかし2期13話を見てもわかるように、ラブライブ優勝で盛り上がったという描写はほとんどありません。ラブライブ優勝という形、優勝旗という目に見える具体的なモノ、そういったものが輝きだったのではなく、そこに至るまでの道筋自体が輝きだったと締めくくられます。
ところで、この作品を見渡してみて、個人的には三つの論点があると感じました。それは
- 形のないもの
- 一回性
- 他者の視点
です。それぞれ見ていきます。
【1】形のないもの
1.1 「浦の星」の名を刻むことと、その乗り越え
この作品では千歌たちの高校の統廃合が問題になっていて、学校説明会も重要なイベントでした。スクールアイドルとして名前を売れば志願者も増えるのではないかと奮闘するのですが、わずかに力及ばず浦の星女学院は閉校になります。その事実が決定的になったとき、千歌たちはラブライブで優勝してせめて浦の星女学院の名前を残そうと目標を設定し直します。結果としてラブライブで優勝して「浦の星」の名を刻むことができましたが、その詳しい描写はなく、最後にライブシーンが披露されて物語は終わります。
ラブライブに「浦の星」の名を刻むこと、それは出来事の到達点、最終地点にあるイベントであり、そこで完全に終わりという刻印です。名を刻むことは輝きそのものではなく、かつて輝いていたという証言であり、別の見方をすればすでに輝き終わっている状態、歴史の記述、死者の名簿に名を連ねる行為です。
名を刻むという行為はむしろ死んだ行為を表します。それは生き生きとした輝きとは正反対の、かつて生きていたことを証明するものすなわちすでに死んでしまったという事実を形として証明するものです。だからこそそれを打ち消すようにAqoursメンバーは最後に集まって歌い、輝きというものは到達点に置いてある宝箱の中に眠っているものではなく、そこまでの過程そのものだという答えを提示します。最後のライブシーンは名を刻むラブライブ決勝とは違い、歌うことそのものを楽しむためのものです。そしてそのライブシーンのときにはすでに浦の星女学院は閉校になっていて、あの場所はもはや名を持たず、どこでもないただの場所です。
歌詞に「目覚める前の力」とあるように、夢から覚めたときすなわちラブライブ優勝という夢を達成したとき、輝きは陳腐な現実、もろい形となって崩れ去ります。それは歴史によって語られる死者となってしまいます。輝きとは「目覚める前の力」、歴史に取り込まれる以前の名もなき生者たちの躍動なのであり、輝く生者は本質的に絶対的な名を持ちません。
1.2 校舎の寄せ書き
最終話に校舎への寄せ書きシーンが出てきます。そして閉校式、卒業式は寄せ書きの余韻の中で行われます。しかし『ラブライブ!サンシャイン!!』はそこで終わりなのではなく、さらに最後の歌につながります。最後のライブシーンのとき、もはやそこに寄せ書きは見当たりません。
最後のライブシーンが寄せ書きだらけの校舎で行われていれば、それは廃墟でのライブということになりますが、実際はそうではありませんでした。Aqours最後のライブは寄せ書きだらけの浦の星女学院の廃墟で行われたのではなく、〈かつて浦の星女学院だったもの〉で行われました。〈かつて浦の星女学院だったもの〉にはまだ名前がありません。たしかに浦の星女学院は死を迎えましたが、死を刻みつけた寄せ書きはどこかに行ってしまい、そこはもう名前を持たないただの場所となっています。寄せ書きによって閉校=廃墟化を決定づけられた死のムードは霧散し、また生者の輝きが戻りつつあります。
1.3 浜辺の優勝旗
閉校式に小原鞠莉が持ち出してきたことが優勝旗の初登場シーンです。その後、千歌は優勝旗というそこに実際に存在する具体的なモノに価値などないかのように浜辺に突き刺します。輝きはこれまでの過程、軌跡だったのだから千歌のこの行動は当然のことのようにも思えます。ひとつ注目しておきたいのは、千歌が優勝旗を倉庫などの室内にしまっておくのではなく、浜辺に突き刺したというところです。
たしかにラブライブ優勝という具体的な目に見える結果を残して、名を刻んで、閉校式も執り行って、すべては終わったかに見えました。優勝旗は墓標のようにそこにあります。ただし、旗は墓石のように確固不動というわけではありません。浜辺に置かれれば旗は風にはためき、砂浜も少しずつ風や波にさらされて変化して形を変えます。浜辺には固着し止まった死の時間ではなく、生の時間が流れています。かつて輝いていた歴史としてすべてが回収されたのではなく、すべてはすでに輝いていて、そしていまもまだ輝き続けているのです。だから千歌は紙飛行機を飛ばして走り出しました。
1.4 Aqoursという文字はなぜ砂浜に書かれたのか
黒澤ダイヤが書いたと明らかにされていますが、彼女がその文字を書いたのが砂浜だったというのがポイントです。ラブライブ優勝という「名を刻む」行為が確固たる不動の重たいものであるのに対して、ダイヤの刻んだ文字は限りなく軽いという対比が見て取れます。
強く深く「名を刻む」ことは、墓石に象徴的なように(あるいは優勝旗が墓標のようになっているように)、それは歴史の時間、死者の時間に属します。名が強く深く刻まれているほど、かつて輝いていたということが強調されます。歴史に強く名を刻まれたひとは何百年先の未来にもその名前を知られているかもしれません。
一方で、砂浜に書いた文字は数日もすれば跡形もなく消えてしまい、当然何百年という時間に耐えることはできません。そういった歴史的な時間を耐えることができるのは偉大な死者の名だけです(ところで千歌はスクールアイドルの象徴的存在であるμ’sを「どこにでもいる普通の高校生」と言っています)。したがって砂浜の消える文字は凡庸な生者の時間に属しているといえます。
Aqours自身はラブライブ優勝後にもまだ輝き続けています。その理由にラブライブが終わったというのに新曲を披露したことがあげられます。ラブライブ優勝はその事実を固定されて決定されて歴史上のもの、過去のものになりましたが、Aqoursは軽々と復活します。砂浜に書いた文字は簡単に消えますが、一方で簡単に書き直すこともできるということは、9人のAqoursが二代目Aqoursだということからも明らかです。Aqoursは歴史に取り込まれず、現在という生者の時間に生き、輝き続けています。
1.5 走るシーンの多さ
このアニメで印象的なのは走るシーンがとにかく多いということではないでしょうか。青春を駆け抜けるという意味合い、若さの表現など、その意図はさまざまあるでしょう。ですが、もっと根本的に考えてみたいと思います。移動シーンをわざわざ明示的に表現するのは、移動シーンそのものに重要な意味があるからではないでしょうか。
出発地点Aと到着地点Bという二つの点、二つの領域を提示して、その場所でそれぞれ何があったかを語るということは一般的です。Aという場所において何をした、Bという場所において何をしたとそれぞれ切り取って描かれることは普通です、たとえば家の場面、たとえば学校の場面という風に。逆に、走るシーンというのはそういう何か明確な意味や役割を持った場所を描くものではありません。出発地点Aと到着地点Bの間すなわちイベントなど何も発生しない中間地帯A-B、あえて取り上げて語るほどの意味もない平凡な名もなき背景、そういったものに焦点が置かれることになります。走るシーンを多用することによって、重要な拠点以外の部分、語られない部分、名を持たない場所、そういったものが浮き上がってきます。
走るという動作を、歩くよりも速く出発地点Aから到着地点Bへ向かうための手段と考えるのは間違ってはいません。しかし、また別のひとは走るという動作を目的地点へ速く向かうための手段だとは考えず、走ることそのものが目的だと言うかもしれません。たとえばジムにあるマシーンで時速6kmで走り続けるなどということがそうです。そのひとは出発地点Aから到着地点Bへ向かうことを目的とせずに、ただ走るという行為そのものを目的としています。
『ラブライブ!サンシャイン!!』において、出発地点Aとなるのはゼロ地点です(最初の出会い、0からの始まり)。千歌たちはゼロ地点から始めて、ゼロを1にし、1を100にしようとします(その都度到着地点Bが決められています)。最初はμ’sのように、次には自分たちらしく、そして「浦の星」の「名を刻む」ために、ラブライブ優勝という到着地点Bを目指します。しかし千歌は2期13話の語りにあるようにそういった到着地点Bに価値があるという価値観をひっくり返し、むしろみんなで走ってきたその走り自体つまり名もなき背景であるA-B間に価値があったのだと考えます。
重要なイベントが発生するわけでもないただ走ってるだけのシーンが多用されるのも、その走り自体の価値を強調するためだったと考えられます。意味の付与されていない走り、無色の走り、言語化される以前の息遣いや足音等々……。明確な輪郭を持ったモノや形として指し示される前のことばにならない貪欲な生命のひしめきが走り自体の描写に現れています。
【2】一回性について
2.1 なぜ幕が下りたのか
最終話の最後、これまでの出来事が劇だったかのように(実際演劇のような演出はこの作品を通して目立っていましたが)、幕が下ります。では『ラブライブ!サンシャイン!!』はなぜ劇だったのでしょう。
演劇というものは映画やアニメやドラマとは違い、一回性という意味が強い芸術です。どちらかというと映像作品よりも音楽ライブやコンサートと似ています。演劇においては、演者の動きひとつひとつ、空気を震わせるセリフのひとつひとつ、間の取り方や演者同士の距離感のひとつひとつ、さらには観客の反応のひとつひとつが、そのときその場所にしか存在しない一回的なものです。ビデオカメラで撮影すれば一応再現も可能ですが、音の反響や任意の客席から見た照明効果や周りの観客との一体感などは、そういったビデオ再生によっては厳密には再現不可能な情報なため、まさに一回きりの、その場限りの特別なものなのです。同じキャストによる同じ演目にしても一回目と二回目ではかならず差異が生じます。
Aqoursにとっては、伝説のスクールアイドルμ’sのモノマネをして、彼女たちの軌跡をそっくりそのまま写し取って再現し追体験することは目標ではありません。AqoursはAqours自身の、Aqoursだけの、一回限りの軌道を描いていきます。これは誰にも真似できない、再現不可能な、そのときその場にいた9人や観客が築き上げた完全にオリジナルなものであり、一回限りの輝きなのです。
もちろんこのことはAqoursが特別ということを意味するわけではありません。千歌が言っているように彼女たちは普通の高校生にすぎず、このことはすべての人間についていえることなのです。すべてが一回限り、自由に、躍動する、それが生命の輝きです。演劇形式は一回性を強調した演出であり、まさに一回限りの生命の輝き、無限の躍動を表現しています。
2.2 がんばるビィについて
作中に何度も登場する「がんばるビィ」は黒澤ルビィの必殺技です。これの重要なところは、頑張ろうという応援をしているわけではなく、「がんばるビィ」自体が必殺技であり、これを繰り出す行為そのものにすでに意味があるということです。身体表現・行為としての必殺技「がんばるビィ」は、「頑張る」という実際の言語表現によって固定されてしまう以前の、「頑張る」という表現によってはとらえきれない「頑張る」の真意を含みます。相手が「頑張る」とはどういったことかと分析、解釈、読解し、何らかの反応をする前に、すでに「がんばるビィ」は完全に遂行されています。だから必殺技なのであり、これは有無を言わせない衝撃なのです。
Saint Snowの鹿角理亞は「がんばるビィ」を見て「なにそれ」と呆れたように言い放ちますが、これには理亞の思考習慣が関係しています。Saint Snowはアクロバティックなパフォーマンスを得意とするユニットでしたが、同時にナーバスで繊細な面も持っています。Saint Snowがパフォーマンスを失敗し、失敗を取り返すことができずに地区予選で敗退したことは2期の中でも印象に残るシーンでした。Saint Snowは優れたパフォーマーではありましたが、黒澤ルビィのような必殺技を持つ真の武道家ではなかったのです。
パフォーマーというのは演出を理論的に計算して構築していきます。そこにはつねに言語が介在します。パフォーマンスを作り上げる際にテーマや構成を決め、事細かな指令を出すのはいつも言語です。ここでこういう動作をして、その後あそこでああいう動作をして、などと。彼女たちの超絶パフォーマンスは言語によって計算されつくされています。一見、肉体派に見えますが、緻密な事務作業、地道な計算が彼女たちのパフォーマンスを支えています。彼女たちは言語によって自分のパフォーマンスを作り上げることに慣れているので言語に敏感です。だから彼女たちは言語によって悩みもします。言語によって構築されたものは言語の危機によってばらばらに解体される危険をつねにはらんでいます。理亞はあの失敗の直前、ナーバスになって言語系統が混乱していました。その結果パフォーマンス中に不具合が生じたのです。
一方、ルビィは真の武道家なので、あまり言語によって考えることがありません。真の武道家は計算して理想的な状態を完璧に再現することではなく、一回限りのその場の動きの自然な流れ(アドリブ)を重視します。理論というものは体系化されますが、武道にもそういったものはあるでしょう。武道の表面的な部分はたしかに言語によって構築されているでしょう。しかし、その真髄、極意は言語を超越した部分にあります。変化し続ける周囲の状況、その場限りの一回しかない状況に対応した完全なマニュアルはどこにも存在しません。応用力、柔軟性、創造性といったものを真の武道家なら持っているのですが、そういった武道の真髄の部分はマニュアルとして体系化されたり、言語によって明確に表されてはいないし、そんなことはできないのです。真の武道家として自己を確立したルビィは何物にも動じなくなります。最初は人見知りでおどおどしていた彼女の人としての成長に感動した視聴者も多いでしょう。考えに考えて思い詰める技巧派の理亞と、「がんばるビィ」というナンセンスな掛け声ですべてを粉砕する天才肌のルビィは対照的な関係にあります。
ところで、「がんばるビィ」はバンクが使用されることがなく、常に新規作画でした。出現ごとに「がんばるビィ」は意味も声の大きさ抑揚も体の動きも変化し、ほとんど無限の意味を持ちますが、この無限の意味を表現するのに「がんばるビィ」以外の適切な行為はないのです。「がんばるビィ」は一回性(アドリブ)を持ち、無限回の差異を表現するものであり、演劇演出と同様に生命の輝きを褒め称えています。百回やれば百通りの「がんばるビィ」があるのです。
【3】他者の視点
3.1 千歌が自分の輝きに最後まで気づかなかったこと
千歌は最初μ’sを見てあんな風になりたいと思います。最初はμ’sを目指して、次にAqoursとしてラブライブを優勝したいと思うようになります。ですが、実際にラブライブ優勝を果たしてみて、優勝それ自体が輝きではないのだと気づきます。自分が輝くのは何かを達成することによってではなく、世界に、他者に巻き込まれて生きているという事実によって常にすでになされていることなのです。千歌は海のように、星のように輝く観客席を見て気づきます。そのときすべてがきらきら輝いていました。会場の一体感が外にばかり向いていた千歌の視線を彼女自身に向けます。絶対的な盲点であった自分自身がついに照らされます。
1期1話の冒頭から梨子との出会いが強調されています。自分の輝きに気づくには他者との出会い、関わりが必要なのです。Aqoursはそれぞれがお互いを尊敬し尊重しあっていますが、また同時にそれぞれがどことなく自分のことについては自信がありません。しかしこの物語で出会いが生まれ、自分自身のことを他者から気付かされ、あるいは他者のことを自分のことのように気にかける、そんな関係が生まれました。たとえばダンスレッスンが象徴的な出来事ですが、いつも自分を見てくれている誰かがいます。
光源は自分の輝きを見ることができません。自分で闇夜を照らすことができても、他者が存在しなければ自分は常に視覚の盲点、虚無です。照らす自分は照らされるものを見ることができても、照らしている自分自身を見ることはできません。千歌が自分の輝きに気づかないのは思考が外向きである行動派の彼女らしいと言えます。しかし行動したからこそ他者との密接なコミュニケーションが生まれ、その結果自分自身に気づくことができました。
遠回りしてやっと見つけた、というよりすでにあったことに気づいたというのが『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語です。無数の他者が存在する世界に自分もすでに巻き込まれていて、お互いがお互いを照らし合って生きているのです。世界や他者に巻き込まれて相互に与えあって生きるということの事実、そして青春という象徴的な時間、こうしたものがきらきらした輝きとなっています。だから輝いたという結果を象徴する優勝旗も必要ではないのです。生命の輝きはまさにいまも進行中だからです。
(`・ω・´)ゞ
ここまで書くのになんやかんやで半日かかったんですが、9000字って読んでみると短いなあ。まだ素描といった感じで、なんか全然書ききれてないですね。
ぼくは梨子ちゃんがピアノ弾いてるシーンがとても好きなのですが、今回梨子ちゃんのこと全然書いてなかったですね(´・ω・`) 2期のBD3巻のイラスト↓ やばい。
『ラブライブ!サンシャイン!!』はいろいろ批判もありますが、個人的にはとても好きな作品です。別にアンチを納得させようとは思ってないので、ぼくはぼくの感想を書くのみです。久しぶりにひとつの作品と向き合っていろいろ自分の限界も見えて勉強になりました。
――君のこころは輝いてるかい?