あゆみ
電子ジャーの開発
創業50周年を迎えた昭和43年の年頭、市川重幸社長は経営目標の第一項として、「アイディア商品の開発」をあげ、50周年記念式典においても「マホービンと暮らしに役立つアイディア商品の総合メーカー」を目指すことを宣言している。この時点で、すでに新製品の開発は当社の目標の一つであった。
ジャー(ごはんを保温する広口のガラスマホービン)は戦後の一時期はヒット商品であったが、昭和30年代の半ば以降、需要は下降線をたどりはじめた。その理由は、まずガラス製品である以上、割れやすいこと、保温力が低くごはんに変なにおいがしてくることなどにあり、商品として致命的な限界があった。
そこで、商品開発室が中心となって対策を進め、電気保温に発想を変え、さらに一歩進めて村田製作所製サーミスタ「ポジスター」に着目し、これをセットした電子式にすることにした。真空式から電気式へが一つの大きな発想の転換で、長年の魔法瓶メーカーである当社にとって主力製品におけるこの転換は革命的であった。
サーミスタは、発熱と温度制御というジャーには最適なはたらきがある。自分自身が発熱体となって温度を上げると同時に、ある一定の温度になれば自動的に止まる。ガラスジャーの上蓋にセットして開発したのが最初の試作品で、これが新製品会議にかけられ、しだいに改良、変化していく。初めて新製品会議にかけられた時、出席者たちはポジスター採用に賛成であった。新製品開発の成否が今後の象印の命運を決する。良い物は使え、発想を変えよ、時代の流れを読め、こうした思いが誰にもあったからである。
試作の初期段階では、社長だけは電子分野への進出に賛成ではなかった。強力な電機業界の一角に首を突っ込むことからくる諸々の波及効果を考えたからである。家庭電化の波に乗って強力な販売網を築いてきた弱電業界の反攻は目に見えている。品質で、価格で、販売で、いかにこの巨大な力と競うのか。ひるむのではないが、親の代から歩いてきた真空保温、魔法瓶の世界に足をとられていたことがないともいえなかった。
こうした社長の心中を察した開発責任者は、社長の家族に試用してもらうことを考えつき、社長の家に電子ジャーの試作品を持ち込んだ。試食してみるとたしかにうまい。社長の母も太鼓判を押し、社長自身もこんなに良いものは市場に提供すべきだという考えに傾いてきた。すでにポットでは頂点に立っている。次に何かを育て、もう一つの柱を打ち立てる時期がきている。若い従業員たちもこれによって将来への夢をもってくれるだろう。起こるかもしれない障害は自分の手で排除していけば良い。社長は試作の続行を命じた。
この決断は大きな決断であった。
電子ジャー「花雲」
「経営者として悩んだのは、このときが一番でした」
のちのこの一言が、その苦悩をすべて語っている。
昭和45年1月、電子ジャーの量産化が決定する。品番はRH型。ポジスターは蓋と底の2箇所とする。スイッチは切替えとし、室温15度以上・以下で二段階に切り替わる。外気温0度時の保温能力平均65度(62〜67度)。品名は「象印電子ジャー」。
電子ジャーの発売
「象印電子ジャー」は、昭和45年5月、各紙記者団に発表され、全国各地で発表会が行われ、大きな反響を呼んだ。
価格は1万円、ガラスのジャーが5000〜6000円であったから、割高の感も持たれた。当社自身、期待と心配が入り交じった複雑な気持ちでいたが、実のところ、爆発的な売れ行きまでは予想していなかった。しかし、秋頃になると需要はまさに“爆発的”なものになった。代理店の社長がトラックで工場に乗りつけ、「今日はいくつ渡してくれるのか」と強談判するくらいの売れ行きとなった。昭和47年のお歳暮商品では当社の電子ジャーがトップ商品になって話題をさらった。電子ジャーの開発で、電気店への販売が大きく伸びた事実も見逃せない。
宣伝には、従来どこのコマーシャルにも出演せず、最後の大物女優といわれていた栗原小巻さんを起用することに成功し、これがまた話題となった。
昭和45年の約143億円の売上は、46年には一挙に約259億円、47年には約310億円と、驚異的な大台変わりの伸びをみせたのである。