2018-01-06

20XX年、日本表現の自由がのさばっていた

あるときふとさ、普遍的作品を書きたいと思った

女の子が旅をして、色んな問題解決したり、

モンスター暴政と戦ったりする王道冒険

 

数百ページ書き上げた

はやる気持ちを抑え、編集に持っていく

こう言われた

 

「これさぁ、もっと女の子性的側面強調出来ないかな?」

ぼくが書きたいのは王道作品

性的側面で一部の男読者だけを釣りたいわけじゃない

 

女の子冒険する訳ないよね? エロく出来ないなら主役は男にしようよ」

だって冒険したいはずだろう?

 

モンスターと戦うのはいいけどさ、暴政っつうのはちょっと・・・

ダメですか」

政権批判とかすると、今は読者から批判来るんだよね」

薄ら笑いを浮かべつつ、顎をなでた

それを見る僕の目は虚ろになっていく

 

「君の作品はさぁ、『正しすぎる』んだよね」

「正しさ、とは?」

「読者はもっと道徳的正しさから解放されたがってるんだよ 

 いっそ、女主人公レイプされて、最後魔王売春婦として

 案外幸せに暮らすラストとか、絶対面白い訳よ

 あえて権力に下る! 表現の自由に挑戦する! 的なね 分かるかな」

 

そうか ぼくにはこの世界が向いていないのかも

思い起こすと虚しくなる

つの間にか自宅のベランダから街を見下ろしていた

 

正しさが禁忌される社会は生きにくい 

誰もが即物的快楽に生き、何がダメかの基準は至極単純な上下関係

編集とぼく、そして大衆編集

 

表現の自由は確かにあらゆる価値観からの脱却を補助した

だが、そのあとに残ったのは何か

単純な力関係しかないと?

 

そこはかとないやるせなさを感じ、たばこベランダから投げ捨てた

下に通行人がいたのなら、きっとぼくの行為に憤慨してるかもしれない

だが高所に居るぼくが今のところ、強い側なのだ

                               完

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