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2018.01.05

[書評] 小説 君の名は。(新海誠)

 一昨日、テレビで映画『君の名は。』が放映されていた。ツイッターなどでは放映前から話題だったので、すでに映画は見ていたのだが、とりあえず録画した。CMの入るテレビ放映映画は見ないことにしているが、逆に最近はそのCMのほうが話題になったりもする。

 『小説 君の名は。』(参照)も既読だった。考えてみると、ここに書評なども書いてなかった。映画についてもそうだ。映画も小説も面白かったかといえば、面白かった。が、意外に難しい作品だなとも思った。
 外部的な情報や文化的な文脈での批評はそれほど難しくはないだろう。が、この作品構造自体の解明はけっこう、パズルになっているのがわかり、難しい。
 パズルとして見ると組紐がキーになっていることは明瞭にわかるし、そうした明示的なキーが提示されていることも逆にパズルの真相をややこしくするだろうことも直感した。そこがどこまで解けるかが作品批評との関連を問うこともめんどくさい感じがした。
 もう一つ、批評的なためらいがあった。この作品は、東北大震災の、日本人の歴史経験の最初の作品なのではないかという思いからだった。この作品では、隕石による大量死と風景の喪失が示されているが、隕石という部分を除けば、その喪失は東北大震災に近い。「日本人の歴史経験」と言ったのは、あの震災の死者と私たち生存者は、いわゆる儀礼的な鎮魂を超えて、どのように霊を結び合うのか、という課題がこの作品に結果的に(意図的かはわからない)描かれているためだ。ただ、そこはこの作品の批評的な中核かといえば、違うだろう。
 映画という映像と、文字という小説だが、表面的な差異はないかに見える。小説のほうが、主人公二人の内面に入り込む点で、映画を補う面もあることと、映画では映像的に間接的に表現されている嗅覚の描写が小説では際立っていることなどの差はある。また、映画のほうは映像の中に連続的に象徴を送り込むことができるので、物語構造がわかりやすくなる面もある。先に示した組紐だが、これが三葉から瀧、瀧から三葉として渡されることで大災害と死者の縁と転換が上手に構造的に切り替えられている。(余談めくが瀧が乗せてもらった軽トラックなの象徴も。)
 といいつつ、ここでふと個人的な思いを蒸し返してみたくなる。大災害は多数の死者をもたらし、死者は哀悼を生者に残した。その哀悼はもはや死者が蘇ることがないということでもある。が、哀悼にはどこかしら死者を蘇らせたい情念がこもる。この物語は、そうした死者の蘇りの物語という構図を持っていることは確かだ。そして、その時間の逆転の転機が先の組紐の交換によって起きる。三葉の体を借りた瀧が時間を逆転し死者を蘇らせようとした試みは組紐の縁で三葉の体に三葉を戻すことで、死の再生をもたらした。風景は喪失したが大量死も消えた。
 そして、その再生は、縁の終わりでもあった。この物語構造の無意識的な象徴は重たい。私たちは死に隣接することで深い霊の融合を味わうのだが、生への回帰のなかでその融合の原始的な思いだけを残して、個々の名前を失う。この図式はジャン=リュック・ナンシーがハイデガーの死の哲学を生と共同体の哲学に組み替えたことに似ていて、私たちは無名の霊の融合を分かち合うことで共同体を形成している。私たちは私たちが本当に愛せるただ一つの霊の期待をいつも偶然のようにこの共同体に期待できるのだということで、私たちは共同体のなかで生をつないでいる。瀧が、死を乗り越えて、新しく「君の名」を再獲得する意味である。
 さて実は、昨日、小説を読み返した。映画を見て、小説を読んだおり、放置しておいてパズルへの思いをもう少し探ってみたかった。パズルのパズル性は時間差のなかに潜んでいる。この物語では、三葉の時間と瀧の時間のなかに3年間のズレがあるが、このことがリアル世界の再構築のなかでどのような年齢差を生むかは明瞭にされていない。表面的には、そこでは三葉は瀧より三歳年上のように思われる。ただ、最後にすれ違う「その女性」は瀧のリアル世界からは「三葉」という名前では提示されていない(組紐の同定象徴はある)。逆にいえば、三葉という名前が三年間のパラドクスを覆っている。
 そのパラドックスに当てはまるキーは、「奥寺先輩」である。彼女の年齢は明示されていない。大学生で喫煙という条件からは三歳ほど年上と見てもよいだろう。ここで粗く奥寺と三葉は重なるのだが、物語上の構造対比でいうと、瀧と奥寺のデート(瀧にとっては残念なデート)を境に、瀧と三葉の身体交換は終わる。三葉が消える。ここの部分は、このデートが原因で三葉が消えるという読みの可能性を微妙に残している。このことは同時に、三葉からの奥寺への同性的な恋慕も消えるという意味でもある。この暗喩は、この時点まで瀧と三葉の心情は恋愛というより、フロイトの言う前エディプス期、土居健郎の言う「甘え」にも似ている。
 奥寺を重視するのは批評的なバランスを欠くようだし、新海作品における年上恋慕またかよと流してもよいようだが、物語の構造上、奥寺は最終部で登場し、これがまた物語の構造上は重要な転機の意味を持つ。ここでの奥寺との別れが、新・三葉との出会いを導いているので、やはり奥寺はこのパズルの重要なキーであることは間違いない。むしろ、なんとなくではあるが、この物語は、新海の趣味というより、『言の葉の庭』と同じく、年上の女性との恋愛の意義を問うなにかがコアにあるのかもしれない。連想されるのは、吉本隆明の共同幻想論における国家の始原としての神聖なる姉弟が、逆転して対幻想に帰着する集合的な無意識の図柄にもなってくることだ。
 さて、ファンタジー作品なのだから、素直に時間のねじれやパラレルワールドを受け止めてもいいのだろうし、そして私の強い主張でもないのだが、三葉は最初から存在しなかったか、単に瀧の幻想であり、奥寺への恋慕の変容が産んだ幻想なのだろうというふうに考えている。
 この物語が文学的にどのように評価できるのかは私にはわからない。自分と同体のように思える他者(異性であることが多いだろうが)存在するという、奇妙な確信は恋愛の意識のなかに先駆的に織り込まれている。『Sense8』でもある。それは人の意識の必然であって、外界に必ずしも運命的に実現されるものではないと、人生のなかで諦観したくもなる。
 だが、それは、あえて言えば、起こるのだ。ナンシーもそれを待ちなさいというふうに高校生たちに熱く語ることもあったが、それが起きてしまえば、私の意識のなかで強烈な時間経験の逆転が起こり始める。それはこの物語で、瀧が三葉のそれまでの人生をすべて見渡して理解するようなある特殊な感覚である。


 

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