--岡野さんのお父様も、腕の立つ職人だったそうですね。
親父は茨城の竜ケ崎で生まれて、浅草の小島町ってところで年季奉公をしてたんだ。20歳の頃、親方から「お前はもう一人前だから、ここで働きつづけるもよし、一本立ちするもよし」と言われて、流れ流れて向島にたどり着いた。金型職人として独立して土地を買い、商売を始めた頃に俺が生まれたんだ。住まいと工場が一緒だったから、ずっと背中を見てきたってわけ。
--戦時中も、羽振りが良かったとか。
「当時は米がなくて、芋とか麺みたいな代用食ばっかりの時代だった。みんな食うや食わずだったけど、うちは親父の働きが良かったから腹いっぱい食えてたね。子どものときは鶏を3羽飼っていて、毎日卵を食べてたよ。友達にも分けてあげてたな。米、味噌、しょうゆも1年分は買い込んでた。いよいよお金が足りないときには、俺がそれを売りに行ったこともあったな」
--お父様の存在があったからこそ、職人を目指されたのでしょうか?
「それはあるな。あと、俺は大の勉強嫌いだった。小学6年の時に日本が負けて、住んでいた一帯は全部焼け野原だよ。学校行ったって、生徒が10人くらいしかいない。毎日焼け跡の片付けばかり。先生がミカン箱に立って『日本はこれから民主主義だ』なんて言ってね。なんじゃそれって。だから勉強が嫌になっちゃったんだな。だから、学歴も“小卒”。早くから職人になろうって腹をくくってたんだ」