先日、とある文化人の飲み会で、私の尊敬する文化人の方がこんな発言をした。
「私はスポーツ医学というものを信じていないのですよ。昔は『走っているときに水を飲むな』とかいい加減なことを言っていた。その後も言うことがコロコロ変わる。こんなものは科学と言えません」
この文化人の方は自分の専門領域では恐ろしいほどの知識を持つだけでなく、独自の考察で様々な独自の説を打ち立てるような人、つまり知識だけでなく思考力も抜群の人として尊敬していたので、私にはちょっとこの発言は意外だった。
私は、医学を含めて科学の理論というものは、新発見があったらどんどん変わっていくものだと信じている。むしろ理論が変わらないような分野のほうが、「抵抗勢力」がいるのではないかと疑ってしまう性格だからだ。
今回は、サバイバルのための思考法として、「変わらないもの」を信じることの危険性を考えてみたい。
変化できないことで生じた多大な犠牲
私は留学中にトラウマ治療について相当興味を持って勉強し、その後、阪神淡路大震災の時には1年間毎週現地に通い、東日本大震災の後は、今でも月1回ボランティアで心のケアに通っている。こうした経歴から、トラウマ治療は自分の専門領域と思っている。
この分野では、1990年代半ばまでトラウマ記憶をなるべく吐き出させて、心の浄化(カタルシスという)を行うことと、心の中に抑圧されたトラウマ記憶をなるべく思い出させて、現在の自分の記憶に統合させていくことが基本的な治療だった。
ところが、トラウマ記憶を思い出させることによって偽りの記憶で親を訴えるという事件が頻発した上に、過去の記憶を思い出させる治療を行ったほうがかえって悪い結果になることをロフタスという心理学者が明らかにして、現在では治療法が劇的に変わった。
日本でも、阪神淡路大震災のときと比べると、2004年の新潟県中越地震以降は東日本大震災のときも含めて心のケアの方向性が変わったとされる。それまでは心理的デブリーフィングと言って、トラウマ的な体験を受けた直後にそれを吐き出す治療を行うことが早期介入の基本だったが、今ではきちんとした情報提供やストレス反応に対する対処術を教えるのが基本となっている。
日本の精神医学界は、教育の悪さ(私のようにカウンセリング的な精神医学を専攻する者が主任教授となっている精神科の医局は、全国で82も医学部があるのに一つもない)と保険診療の限界のため(長時間のカウンセリングを行っても5分診療でも、ほとんど医師の収入が変わらない)、先進諸外国と比べると、心のケアの遅れが目立っている。それでも、海外でまずいとされたものを素直に修正する柔軟さはある。
スポーツ医学の場合も、勝ち負けという結果がはっきり出るので、海外で良いとされたことはすぐ取り入れ、あるいは、間違いがあれば正すということなのだろう。
それに比べると、外科や内科はずいぶん権威主義的な印象を受ける。
『患者よ、がんと闘うな』という著書があり、がんの放置療法で既存の医学批判を続けている近藤誠という医師がいる。現在の彼の主張を認めるかどうかは別として、近藤氏が医学界のマジョリティを敵に回したのは極めて妥当な発想からのものだ。以前の乳がん治療では、初期の状態で発見されてもオッパイを全摘し、大胸筋まで切り取ってしまうという治療が主流だった。ところが、がんだけを取り去って、その後に放射線をかける乳房温存療法でも、全摘と比べて5年間は生存率が変わらないというアメリカの論文を発見した近藤氏は、これを『文藝春秋』誌に紹介した。
ところが、当時の外科の権威の医師たちが、オッパイを全部取らないと転移すると説明してきた面子があるのか、近藤氏は外科医たちに排斥され、最年少で大学の講師になったのに、そのままのポストで慶応大学病院を定年退職することになる。
さらに、同じようにこの論文を読んで乳房温存療法に取り組もうとした医師たちも権威にばれることを恐れたため、この治療は普及しなかった。日本で乳房温存療法の治療ガイドラインができたのは、近藤氏が文藝春秋で記事を載せてから11年後、その治療が主流になったのは15年後の話である。外科の権威の医師たちが定年になったり、引退するまで、新しい治療が認められなかったからだ。
その間に、無駄にオッパイを取られた人がどのくらいいるのかと思うと、義憤にかられてくる。
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