アメリカでは1800年代以降に、顔を黒く塗った白人が、黒人役を演じる「ミンストレル・ショー」が人気を博した。しかし、「人種差別的だ」とされて廃れ、いまではすっかり「差別だ」という評価が定着している。マクニールさんが指摘するのは、そのことだ。
日テレの年越し番組「笑ってはいけない」でダウンタウン浜田が扮装した(させられた)黒人の扮装に対して差別だという意見が出ている。
まずコンテクストとしてミンストレル・ショーがある。
かつて白人が白塗りをしてショーを行った歴史。
これによって肌を黒く塗る行為をエンターテイメントとして差別的だとすることになった経緯がある。
これはハフポ記事に詳しいので割愛する。
そしてもう一つのコンテクストはビバリーヒルズコップというコンテクスト。
どうにも軽視されがちだが、これこそ「受け取り方のズレ」の正体。
こちらを語る記事が少ないので以下に書いてみる。
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ビバリーヒルズ・コップ
映画「ビバリーヒルズ・コップ」はコメディアンであり俳優でもあるエディ・マーフィーの出世作。バディもの「48時間」と同じく80年代から90年代にかけ4作目まで続編が作られた。
当時、エディマーフィーの人気はかなりのもので、映画のCMもガンガン流れた。
今ならNetflixで観られる。
「エディ・マーフィの物真似をしたらダメなの? 」と頓珍漢なブックマークコメントが書き込まれるのは、このせいでしょう。「ミンストレル・ショーがあったから、黒塗りはダメなの」という歴史的経緯が無視されているわけです。
頓珍漢どころかこの書き手にビバリーヒルズコップのコンテクストがないからこそ
黒人の扮装→差別だ
に直結する。
今回の浜田の扮装は黒人である以前にエディ・マーフィー、である以前にそんな80〜90年代ヒットした「ビバリーヒルズ・コップ」という映画のキャラクター。
だからこそ笑えた。
単純に「黒人をバカにして笑っている」のであれば話は早い。
そんなものは、一顧だにせず否定すれば終わり。
そうではなく時代や背景によってコンテクストの有無が異なるから同じものを見ても
・ビバリーヒルズコップのパロディ
・黒人(エディ・マーフィー)の扮装
という違う読み方になってるから意見が入り組む。
仮に浜田が「笑ってはいけないドラマ」でヨン様のコスプレをして出てくるとする。
その扮装は、韓国人である前にヨン様であり、その前に一世風靡した韓流ドラマ「冬のソナタ」に登場するキャラクター。
これが面白いとすればそれは韓国人だからではなく、この現代に「今さら冬のソナタ」だから面白いと感じる(しかも似合っていない)。
浜田のエディマーフィーにしろ今さら「ビバリーヒルズ・コップ」だったからこそ笑いになった。
浜田がターミネーターに扮したとして、それに対して「白人に対する差別だ!」という意見はまず出ないが、やってる
・白人>アーノルド・シュワルツェネッガー>ターミネーター
という構造は、他と変わらない。
これも笑いになるだろうが。
歴史的経緯として白人は差別構造が小さい。
もちろんカリカチュアライズして鼻をつけたり金髪のヅラを被れば即、差別批判が起きる。
黒人に扮する、その際黒く塗る(ブラックフェイス)は、歴史を考えてもとてもセンシティブ。
黒人に関して安易に触れると怪我をする。
映画マルコムXの帽子を被った輩が歌舞伎町でボコボコにされた歴史だってあるんですから。
モノマネの面白さ
そもそも
・笑う→差別だ
という捉え方自体、歪みがある。
モノマネは「対象をバカにした笑い」ではない。
桂枝雀師匠の「笑いとは緊張と緩和」でいうなら似ているモノマネは緊張しないが、似ていないモノマネには不安から緊張を強いられる。
モノマネとは、似ていれば似ているほど感心するもの。
似ていなければオリジナルとのギャップ(緊張→緩和)に笑いが起きる*1。
コロッケのモノマネが面白いのはオリジナルに対してのズレの絶妙さ。
似ているが似ていないからこそ、そこに面白さがある。
ホリの「本人が絶対言わなさそうなモノマネ」が面白いのは、モノマネとして似ているのに発言にギャップがあり、笑いが産まれる。
モノマネをオリジナルからズラしまくればハリウッド・ザコシショウの古畑のように残念ながらシュールな笑いになってしまう。
ミンストレル・ショー
浜田のアクセル刑事は「黒人であることを笑う」過剰なカリカチュアライズがあったわけではない。
今回の浜田のアクセル刑事でいうなら
・時代のズレ
・似せようとしないこと(無理やり着せられてる)
このギャップに笑いが起きたとも言える。
仮に黒人の扮装を笑うこと自体が差別的だとすれば、黒人の格好ならなんでもかんでも笑える。
だがそんなわけもない。
観客は、舞台で自分たちのことを楽しませるブラックフェイスの芸人が、実は<黒人>出ないことを十分承知している。その「黒人ではない」という否定により「白人」という抽象的な概念が浮上し、出身も文化も異なる移民で構成される労働者階級の人々に統一的なアイデンティティを付与するのだ。
アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで
ミンストレル・ショウにしろ単純な「差別的表現」と言うだけでは語れない歴史が存在する。
アメリカにおいてミンストレルショウがポップミュージックに与えた影響は無視できない。
今回の件で興味を持った方は、是非「アメリカ音楽史」をお読みいただきたいが……。
差別問題としてだけではなく、十九世紀アメリカの労働者階級文化と現代のポップミュージックを知る上で避けて通れない。
正しい世界
今回の話において意見がごちゃごちゃするのはこれらのコンテクストの有無によって受け取り方が異なってしまうからだろう。
昔、ビバリーヒルズコップが大ヒットし、土日の洋画枠でジブリではなくエディ・マーフィー主演映画が繰り返し上映された時代だってあった。
今や、そんなコンテクストは断絶したが。
ただこれらのコンテクストがあろうが、今の世界というのはどんな理由があろうと「もう黒塗りをやってはダメ」なのが常道。
ポリコネ的な正しさからすれば「差別意識はなかったから」でも許されない。
「エディマーフィーだから」とか「アクセルだから」は通用しなくなった。
不特定多数が見るテレビメディアは今後、世界標準のポリティカル・コネクトレスな表現を避けて通れない。
映像メディアの送り手側、提供する側は必ず意識せざるを得ない。
ただポリコネを気にしまくった結果、登場人物が白人、黒人、東洋人、スパニッシュ、男女にLGBT、金持ち、貧乏人、全部登場するのがこれから標準になっていく。
ただ、それって誰にとっての「幸せな世界」なんだろうか。
正しさを守ることだけが絶対的に正しいのか。
世界的ポリティカルコネクトレスを遵守した先に、正しく、等しく、誰にとっても幸せな世界が本当にあるんだろうか。
この国は良くなっていくのか。
メディアの受取手にとって正しい表現はどこまで必要なのか。
これがエディ・マーフィーではなく水野晴郎かスティーブン・セガールのアメリカンポリスコスプレにすれば、こんな話題にもならなかったろうに(面白かったかどうかは別として)。
今年は、ブラックムービーで黒人アメコミヒーローの「ブラックパンサー」が公開される。
観に行くにしろ黒塗りコスプレは厳禁なのでお忘れなきよう
*1:笑いは振幅の構造なので