昨今、auの三太郎のそれぞれのあらすじを説明できる子は少ないのかもしれない。
少なくともウチの子らは「浦島太郎」あたりは怪しい。
そんな中、昔話絵本(民話絵本)というのは文字通り「昔話」を「絵本」にしたもので、今日では昔話に直接触れることができる数少ない媒体になっているように思う。
ただ、題材となる昔話によっては伝承の分布が広範囲であったり、採集(伝承者から話を聞き取ること)例が多数だったりする場合があり、結果、おなじ昔話でもあらすじやオチが作品ごとにずいぶんと違っていたりして、更にそこに「再話」というレイヤーも被るので、細かい部分は更に違ってくることもしばしばだ。
「桃太郎」なんかは特にそうで、「正しいストーリー」があるようで無い。
で、そもそもこの、昔話における「再話」とはどういうことなのか?
『絵本をみる眼』(1978年/日本エディタースクール出版部)で松居直先生はこう語る。
- すでに文献になっているもの、また、現在も口伝えに語り伝えられているものを、子どもの文学という立場で、現代の子どもたちに伝えるように語り直す必要があるわけです。それを再話といいます。
上記の定義でいくと、「再話」は「翻訳」に似た作業であることがイメージできる。
で、松居先生が再話された『だいくとおにろく』という昔話絵本がある。
絵は「昔話絵本の達人」赤羽先生。
『絵本をみる眼』には『だいくとおにろく』についてとても興味深いことが書かれている。
- (再話は)当然再話者によって語り方のニュアンスが違ってきます。(中略)例えば、数多くの再話の中で一番比較しやすいのは「大工と鬼六」という話です。「大工と鬼六」という話は、日本中で、伝承されているのがただ一話しかありません。採集例が一つだけです。
これだけメジャーな昔話が、たった一人からしか伝承されていないのだという。
驚きだ。
そんなことあるのか?
なのにこの昔話は多くの作家が再話を試みる人気作だ。
話が面白いし。
結果、解釈や語り方の違いなどの「再話色」がよく見え、他の昔話絵本には無い「再話作家性」が濃く出る珍しい作品となった。
また、不思議なことに、
- この話とほぼ同じような系統のものが各国にあって、中でもよく知られているのがグリムの昔話にある「ルンペルシュティルツキン」という変な名の小人が出てくる話です。(中略)それから、イギリスの昔話の中には「トム・ティット・トット」というのがあって、これはまた「ルンペルシュティルツキン」とそっくりです。
とも、『絵本をみる眼』に記されている。
マジか?
日本でたったひとつの採集例であり、海外には類似作が多くあるなんてことあるのか……?
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時は流れ、昔話研究は進む。
1991年、『ガイドブック日本の民話』(日本民話の会編/講談社)で下記のびっくりする内容が掲載された。
- 「大工と鬼六」は、佐々木喜善の『聴耳草紙』に収められた岩手県胆沢郡の話がもっとも古く、その後、岩手のこの例話のほか、山形、福島、岡山からも報告されていますが、日本に類話のすくない、きわめてめずらしい話です。
一人だと思われていた伝承者は他にもいたことが発覚。
そして、時系列は前後するが、1987年には桜井美紀先生により下記リンク先の驚くべき論文が出る。
◆語りコラム・39 研究論文≪大工と鬼六の出自をめぐって≫要約(桜井)
(以下引用)
- いずれにせよ、民話は古いものと考えてきた私たちに、近年、それを一部つきくずすことが出てきました。(中略)桜井美紀さんが、岩手県の伝承民話を集めた、佐々木喜善の『聴耳草紙』の中の「大工と鬼六」は、東京高等師範付属小学校訓導の水田光が、その著『お話の実際』(1917年)で、例話として北欧民話を翻案したものを、それが東方地方の在地に根付いたのだ、という考証をして、私たちをおどろかせました。(同上(益田勝美)・p392)
なんと『だいくとおにろく』は採集例や類話が少ないどころではなく、そもそも日本の昔話ではなく、たった100年前に発表された、北欧民話の翻案(外国の話を日本設定に差し替えたもの)だったとのこと。
それがいつのまにか昔話として捉えられ、昔話絵本の王道的な作品として流布されたのだった。
そして今も『だいくとおにろく』は、「昔話絵本の王道」として版を重ね、書店や図書館の棚に居心地よく座っている。
なんとも牧歌的というか、ネット時代の現代では考えられないケースのように思う。
この事実はとても刺激的だ。
絵本ってちょっと調べればこんなに面白いところへ連れて行ってくれる。