この記事が物議を醸しているようでモヤモヤしたので自分の中で整理をつけるために文章化してみる。
「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2018/01/02/history-of-blackface_a_23321243
[1]. 単にエディ・マーフィという役者のモノマネをするためのメイクであって(意図的・無意識とわず)黒人をいじるものではないのは明白
[2]. 被差別の対象だった人たちの身体的な特徴を使った表現は相手を傷つける可能性がある。(ただし被差別対象ではない人が差別だと叫ぶ場合は差別の拡大になるだけで誰も得しないことがあるので注意が必要)
[3]. 特に黒人風の肌メイクを差別的にエンターテイメントとして使われた歴史的なバックグラウンドから、米国などでは差別的表現として扱っている
[4]. (意図的・無意識とわず)民族・人種のステレオタイプな身体的特徴を使った表現は差別的であると言われるだろうが、エディ・マーフィという個人のモノマネについては差別的ではないという意見もそれなりに見かける。
[5]. 個人のモノマネが黒人差別と言われるのは[3]に配慮していないからである
[6]. 本質的に差別がなくなった状態というのは[3]のようなものへの配慮をしなくて良い状態といえるので、逆にそれらへの配慮を増やすことは差別を意識させるだけともいえる。
[7]. しかし[6]のような考え方は理想ではあるものの、実際に差別され傷ついてきた人たちが存在している以上は過渡期に極端な理想を求めるのではなく、ある程度の配慮をしながら緩やかに配慮する範囲を減らしていくしかない(ので[6]のように配慮しないことを良いことと捉えない方が現実的である)
[8]. 程度問題として[7]にある「ある程度の配慮」をするには歴史的バックグラウンドや未来に向けて緩やかな変化を見据えて議論しながらすりあわせていくしか無い。
上記の[8]にあるように、本質的には差別的ではないものでも歴史的なバックグラウンドから相手を傷つける場合がある。
とはいえ「本質的に差別ではないのだから傷つくな」と言っていい性質のものではなく、現実的にはそういった配慮をしながら未来に向けて本質的な差別だけに配慮すれば良い状態を作っていければ良いのではないかと考えました。
※これは私個人における自分なりの結論なので他人にそれを押し付けるものではありません。