年末年始の帰省で弱ってしまった方も多いのでは。
まずは、お疲れ様です。お互い、よく頑張りました。たくさん、自分へのごほうびを与えてください。お風呂にゆっくり浸かるのもいいし、おいしいものを食べるのもいい。たっぷり、自分を労ってあげましょうね。今年もよく頑張ったよね、私たち。
「親のことを悪く言うもんじゃないよ」
「お母さんも必死だったんだよ」
「許してあげなよ」
第三者はそう簡単に言うけれど、そんな単純な話ではない。
娘と自分の境界線があいまいで、悪気なく、いやむしろ善意で、娘の意思を尊重できない母親が存在する。
そういう母親を大切にしようと思うと、自分がどんどん削られてしまう。
「愛とは自己犠牲のことだ」という人がいる。
本当にそうだろうか。
アンパンマンのように、身を削らないと優しくできないんだろうか。
そんなことをよく考える。
口では「お母さんに、そんなつもりはない、好きに生きていいのよ。」と言うかもしれない。
でも、そうじゃないんだよね。
目の前で大切な人が「自分のために」不幸そうな顔をしているのに、自分だけ幸せになろうなんて思えるだろうか。
「自分のせいで」に変化するのは、当然の流れなんじゃないだろうか。
「あなたが私から離れて行ったせいで、私はとても悲しい。寂しい。」と猛アピールされて、気持ちよく外へ思いっきり羽ばたいていけるだろうか。
親の「寂しい」というエゴが、子どもの自立の足かせになる。
相手は手強く、こちらの罪悪感を巧みに利用する能力に長けている。
悪気なんてないのかもしれない。
自覚なんてないのかもしれない。
だからこそ、拒絶の言葉が意味をなさない。
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「知るもんか、勝手にやってろ」と拒絶できたらいいのにね。
それで終わりだったらいいのにね。
優しくしたいと、ただ自分が勝手に思っているだけだ。
根っからの悪人なんて、そうそういない。
あなたの母親だって、良いところはあったし、いい思い出もあるし、恩だってあるでしょう。
優しい記憶が、優しいあなたを苦しめる。
お互いに幸せになって欲しいと願っているはずなのに、一緒にいると苦しいのは、望む愛、望む優しさが一致しないから。
自分に対して、ちっとも優しくない、自分の気持ちなんて、まるで分かっちゃいない、そんな母親に優しくしたいと思う気持ちと状況を、相手は理解できていない。
親の心子知らずとは言うけれど、子の心親知らずでもあり、こっちからもまた、一方通行なんだ。
どうしてだろうね。
本当に、どうしてなんだろうね。
それがたまに、悲しくて仕方がないよ。
「あなたがいないから、わたしは寂しい」というアピールで、愛情を表現しないで欲しい。
わたしがいなくても、あなたに幸せでいてほしい。
自分がいなくても、お母さんが笑っていると実感できるなら、もっと自由に生きられるのにね。
わたしを愛しているというのなら、「あなたのため」という自己犠牲も、それによる不幸アピールも、今すぐにやめて、心からの笑顔を見せてほしい。
こちらの優しさを利用しないでほしい。
罪悪感を刺激して、自分のそばに置こうとしないでほしい。
「お母さんはいいのよ、あなたのためだから」なんて綺麗事を並べるより、自分のために生きてほしい。
優しい娘であろうとすればするほど、母の愛が重くなる。
子離れできない、可哀想な母。
なぜ娘から拒絶されるのかも分かっていない、哀れな母。
めいっぱい愛情をかけているつもりで、呪いにしかなっていない、そのことを理解する能力もない。
自分なりに必死に子育てした結果がこれなら、同じ母親として同情する。
自分のことも、母のことも大事にしたいのに、両立ができなくて苦しんでいる、多くの仲間たちへ。
これは、「優しくしたい」からくる苦しみです。
あなたはきっと、とても優しい人。
愛とは、なんなんでしょうね。
あなたが母親に愛を求めても、どれだけ優しくしようとも、同じだけ戻ってくることはないかもしれない。
それが薄々わかっていても、それでも優しくしたいという気持ちを捨てられない、そんなあなたへ。
あなたは悪くない。
だから、自分を大切にしよう。
自分を大切にすることで、あなたを本当に大切だと思ってくれる人を安心させてあげよう。
その溢れる優しさを、自分に向けることで、きっと周りも幸せにすることができる。
あなたは悪くない。
過去は変えられない。
親もきっと、変えられない。
だからせめて、自分が笑顔でいられることをしよう。
あなたの笑顔は周りを明るくする。
あなたは、何も悪くない。
きっと、優し過ぎるだけなんだと思うよ。
おまけ。ツイートのまとめです。