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とても深く、広い森が、そこには在った。木々は何百年と時を重ね、どれもがとても大きく在った。木だけではない。そこに住まう動物も、とても大きく美しかった。
人はそこを、神々の森とし、敬い、奉った。人知の超える深き森。安易に人が踏み入ることは許されない、そんな森がそこには在った。
その森の近くには、小さな、とても小さな村があった。幾人かの人が集まり、そしていつの間にか村として機能し始めていた。しかし増えすぎることも、減りすぎることもないその村は、独自の世界を作り上げて生活していた。
その名もなき小さな村には、因習があった。その因習は、後の世では唾棄されるべきものであったが、その村の誰一人として、その習わしに異を唱えることなく諾々と守り続けていた。
守る事が、その村人にとってはとても神聖なことだったのだ。
因習の内容は、”人柱”。
その深き森に住まう太古より存在する何かに、生贄を捧げること。そうすることで、その存在は村を守ってくれている、そう村人たちは認識していた。
いつからそれが始まったのか知らない。だが、その因習はひっそりと守られ続けたのである。
その森に太古より存在する存在は、多様にいた。その中で、一番の力をもった妖怪が、その森を根城としていた。大妖怪の名は、黒毛九尾。
その存在は、村の中では神と奉られていた。
◆◇◆
「―――?」
黒毛九尾は、木の上から村の様子を見ていた。森はとても暇で、彼はいつも暇つぶしになる何かを求めていた。昔はよくあったが今では、自分に喧嘩を売ってくる妖怪もそうそういない。意思の疎通できない、やたらとでかい生き物は数えるのも面倒なほどいるが、黒毛九尾の暇つぶしにはならなかった。
稀に知己である金毛九尾がやってくることはあるが、それとて頻繁なわけではない。故に、黒毛九尾は暇を持て余していた。
それこそ、自分の関わりの深い村を観察してしまうくらいには。
そこは、とても小さな村だった。自分を神と崇め称える村。自分の知らぬ間に存在していた村。人はそこまで多くなく、だからといって極端に減ることもなかった。ただただ毎日同じような行動をしている。田畑を耕し、子を育て、生きて死んでゆく。なんら面白いことはしていないし、真新しいものなど何一つないというのに、その村に生きる人間は笑い、泣き、怒っていた。
それの何が楽しいのかわからなかったが、黒毛九尾はただただ眺めていた。面白いわけではなかったが、少なくとも森よりかは刺激のあるものだったので黒毛九尾はその村を眺めていた。
そしてある日、一人の娘に気付いた。その娘は、周りの子供から少し離れたところで蹲っている。周りの小さな人間は、それに気づいているのかそれともいないのか、黒毛九尾にはわからない。他の小さい人間に比べ、笑うことも泣くことも非常に少なく、黒毛九尾が見てきた人間の中では最も人間らしくなかった。
他にも小さい人間はいるのに、その蹲っている娘だけに、黒毛九尾の目は止まった。耳下あたりで横一線に切られている髪は、さらさらとその顔にかかっているためか、表情はわからない。たが、少なくとも楽しそうではないということだけはわかった。他の村の人間は喜怒哀楽がしっかりしているのに、どうしてその小さな人間だけそうなのか、黒毛九尾は気になった。
だから、黒毛九尾は暇つぶしにその娘のことを観察してみようと思った。
小さいその人間の娘は、いつだって一人でいた。周りに同じような小さい人間はいる。それらはよく一緒に行動しているのに、その人間は一人きりでいた。誰かと話している様子もなく、ただただぼんやりと蹲っているだけだった。
普段の黒毛九尾であればすぐに飽きてしまうであろうその情景も、意味が分からなかったせいなのか、不思議と目が引き寄せられた。
夜の帳が落ちはじめる。
いつもと同じように、周りの小さな人間たちは、娘に声を掛けることなくどこかへ戻ったようで、川のせせらぎの音と葉の擦れ合う音しかしなくなる。自分がいる為、大型の肉食獣が現れることはないだろうが、それでもその娘の行動は変に映った。
黒毛九尾は不思議に思った。どうしてその人間は戻ろうとしないのだろう、と。いつもいつも、彼女は自身で戻ることなく腰の曲がった誰かが、迎えに来ているのだ。
今まで観察してきた限りで、小さい人間は暗くなると自身で小屋に戻るという知識だけが黒毛九尾にはあった。
なぜ、その様な真似をしたのか。
黒毛九尾がその理由を知るのはずっと後になる。
「―――娘」
「…?」
空を仰ぐように、娘が顔を上げた。そして黒毛九尾はその娘に違和感を覚える。
「…誰?」
「…もう暗いぞ。戻らないのか」
「暗いの…?」
娘はあたりを見回して、ようやく気付いたのかゆっくりと立ち上がった。
「気付いていなかったのか?」
「うん。目が、とても悪いから」
そこで黒毛九尾はその違和感の正体を知る。娘の目の焦点が合っていないのだ。自分を見ているようで、見ていない。
そのことにようやく気付いた。
「目が悪くとも、暗いのはわかるだろう。どうして戻らない?」
「…くらい……?あぁ、そんなに、暗かったんだ…」
「わからないのか?」
「うん」
それは、黒毛九尾にとって不可思議な言葉であった。暗いのがわからない?それは、色彩がわからないということなのだろうか。他の何かの隠語なのだろうか。だがあえて、黒毛九尾はそれを聞こうとは思わなかった。
「戻れるのか」
「大丈夫。うっすらと見えているし、覚えたから」
娘はそう言うと、あたりをきょろきょろと見回してから歩き始めた。少しばかりふらつくことがあるが、不思議と彼女の足取りには迷いが無い。そんな彼女の背に、何故か黒毛九尾は声を掛けた。
「娘、名は」
「…名無し」
「ナナシ?」
「名無し、贄、そう呼ばれているけど…知らないの?」
その言葉に、黒毛九尾は衝撃を受けた。
―――彼女が。
娘は、それだけ言うと家の方角に向かって歩き始めた。
それは、この小さな村の因習だった。
神たる黒毛九尾に、十年に一度。若い女―――少女を捧げるのだ。少女は、一人で森へと入り、そして黒毛九尾に食べられる。物理的に。そうすることで、村は安寧を得ていたのだ。
例えば、ほかの妖怪から、天災から、または人間から。黒毛九尾は生贄を喰らうたびに、そういったものから村を守っていた。
それを決めたのは、黒毛九尾だ。いっときの気まぐれで、娘を寄越せと言った。色々な妖怪を食べたが、人はないな、と気づいて。そして食べるなら、柔い、女の肉がいい、と。
それから百年余り、一度もその習わしが違われたことはない。
◇◆◇
「娘よ」
「…だぁれ?」
黒毛九尾は、なぜかまた同じ娘に会いに行っていた。意味などない、ただの暇つぶしだと自身に言い聞かせて。
「娘、何をしているのだ」
「何も」
「おもしろいのか」
「わからない」
娘は、何を問うても物怖じすることなく黒毛九尾に答えた。それは黒毛九尾にとって、とても衝撃的な出来事だった。
今では、村人には神と崇められ、小妖怪どもからは大妖怪ゆえに避けられる。思えば、今の黒毛九尾と対等に話してくれるのは金毛九尾くらいしかいないのだ。
だからと言っては何だが。
「娘、名無し、と名乗ったな。では私はナナとお前を呼ぼう。構わないな?」
「…なな…好きに、呼んで、いいよ……私は、なんて呼べばいい?」
黒毛九尾は一瞬だけ考えこむと。
「クロ」
「くろ?」
「そうだ、私のことはクロと呼べ」
そうして一人と一匹は、逢瀬を交わした。
それは長い時間ではなく、短い時間ではあったものの、ナナとってはとても楽しい時間となり、黒毛九尾にとっては良い暇つぶしとなった。
「ナナは、どうして目が悪いのだ?」
「知らない。ずっと。こうだったから」
「うっすらと見えてはいるようだが」
「うん、ぼんやりとしたやつなら。もっと前は、もう少し見えてたんだけど…もうクロの顔もわからないくらい、見えなくなっちゃった」
「私にはお前の顔がはっきりとわかるぞ」
「いいなぁ…私もクロの顔、はっきり見たい」
「私の顔なんぞ見ても面白くないぞ」
「いいの、私が見たい。クロはとってもキレイな空気をしているもの、きっと、キレイな顔を、していると、思う」
「空気?」
「そう、嫌な感じがしない…たまに、村の人で嫌な感じがする人、いるから」
ナナは少しだけ悲しそうにそう言った。
黒毛九尾には、その意味がよく分からなかった。
「黒毛の」
「なんだ、金毛か。久しいな。何用だ」
「…お主、人の子と仲良くしているようじゃないか。…もう生贄など止めないか」
「なんだ、金毛の。またその話か。何度言われても止めるつもりはないぞ。金毛こそ、人の女子を喰ってみればいいだろう」
黒毛九尾のその言葉に、金毛九尾は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべるとその場を去った。
なぜ、金毛九尾がそのような表情を浮かべたのか。いずれわかるだろうと考えていた。だが、それを黒毛九尾が知るのは、彼が思うよりもずっと早かった。
二人は季節を一つ、また一つと共に重ねた。そうして気付けば、ナナは十五となっていた。真っ黒な髪は背中へ流れ、嫌われている割には丁寧にされているらしくさらさらと指通りは良かった。
―――なぜ、嫌われているナナが丁寧に扱われているか、クロは知ろうとすらしなかったが。
「クロと出会ってから、もう結構経つのね…」
ナナはしみじみと感慨深げに言った。
「そうだな。あっという間だな」
黒毛九尾もそれに同意する。
二人が会うのは、いつも村から少し離れたとこにある丘だ。
そこは草原で、黒毛九尾が寝床の一つとしていた。
それを知る村人たちが来ることは絶対にないので、だからこそ黒毛九尾は安心してナナと話すことが出来た。
ざぁ、と風が草原を揺らす。
青々とした草木は、これから訪れる夏を感じさせていた。夏の前に、雨が降り、大地を潤す。そして、やってくる灼熱の日々に耐えるのだ。今回も暑くなりそうだと思いながら、黒毛九尾は雲一つない空を見上げる。抜けるような青空は、黒毛九尾の目には痛いほどだった。
それをナナに伝えようとした黒毛九尾は、口を開きかけてそれを止めた。伝えるだけであればいいのかもしれない。だが、それを知れない彼女に教えることが良いことだと、この時の黒毛九尾は思えなかったのだ。
―――どうしてそう考えるか、深く考えずに。
「…」
「…」
一匹と一人は、言葉を発さなかった。
一匹は、見上げる空の青さをぼんやりとその瞳に映しながら。一人は、これからのことを考えて戸惑っているような。
そして口火を切ったのは、一人だった。
「…クロ」
「…なんだ、ナナ」
不意に、ナナが黒毛九尾を呼んだ。
その声に張りがないことに黒毛九尾は直ぐに気づいたが、指摘することは無い。指摘してどうなるというのだろうか。彼女は、ただの暇つぶしだ。そう、それでしかないはずなのだ。
「…私、そろそろ会えなくなるの」
「…なぜだ」
黒毛九尾は彼女のいきなりの発言に不快そうな声を上げた。自分の暇つぶしのはずなのに、どうして先に会えなくなる等と言うのか。それを言うべきは自分にあって、彼女ではないはずだ、と。
「十五になって、初めての満月の夜に、私は九尾様の贄となるの」
「…」
ナナは焦点の合わない瞳を、黒毛九尾に合わせるように顔を向けた。その表情には、何も浮かんではいない。苦しみも、悲しみも、歓喜も、絶望も。
ただただ、事実を述べているだけだった。
「…この村の神か」
「…そう。その為だけに、私は今日まで生かしてもらっているから」
黒毛九尾には、ナナの言いたいことの半分も理解できなかった。その為だけというのは、どういう意味か。喰われることに恐怖を抱いたりしないのか、と。
しかし、それを問う権利は、黒毛九尾にはなかった。彼が、そのすべての元凶なのだから。だが、なぜかそれを許容できない黒毛九尾もいた。
「逃げればいいだろう。なぜ、唯々諾々と従う?」
その言葉に、ナナは泣き笑いを浮かべた。
「それをして、村の人が何もされないってわけがない。…私は、その為だけに今日まで面倒を見てもらっているの。そんなこと…できるわけないよ」
なぜか、黒毛九尾はナナのその諦めた言葉に憤りを感じた。
どうして、あがこうとしない。
どうして、生きようとしない。
食うのは自分だと分かっていても、目の前の少女にはそのようなことを言ってほしくはなかった。
――――なぜそう思うのか、それを考えないようにして。
「逃げてしまえばいいだろう?村のことなど、去った後なのだから分からない、ナナ私はお前に…」
黒毛九尾の言葉に、ナナは悲壮な表情を浮かべた。まるで、この世の破滅を言い渡されたかのような表情に、黒毛九尾は言葉を失う。
「―――っ!!クロのばか!!そんなことできるわけないでしょう!!」
ナナは勢いよく立ち上がり、そして涙を零しながら黒毛九尾を詰った。
「クロっ…もう、明日が満月なの…!今日で、お別れ、本当は、それを言いに来たの」
「っ、ナナ!」
「だめ!!私は…私は、生贄になるためだけに…育てられてきたんだから。逃げるわけにはいかないの。元気でね、クロ」
「ナナ!!」
ナナはそれだけ言うと目の悪いことを一切感じさせない速度でその場を後にした。黒毛九尾の伸ばした手は届くことなく、力なく草の上に落ちて行く。
どうして、手を伸ばしたのかわからない。自分が望んでいた生贄だというのに。どうして、逃げればいいだなんて言ったのだろうか。
「明日…、か」
黒毛九尾はぽつりとそう零した。
◆◇◆
名無しは、ずっとずっと、独りだった。いつからなんてわからない。ただ、自身の記憶のある限りでは、誰かが傍に居るということはなかった。
だから、最初の頃はカゾクの意味も、コドモ、オヤ、オカアサン、オトウサンの意味が分からなかった。それは、名無しにはなかったから。
ただ、気付いたらぼんやりとそれらが何なのかを理解して、どうして自分にはいないのだろうと思った。自分を世話してくれるのは、老婆だけだ。その老婆とて、名無しには雑談を一切しない。本当に必要最低限しか話しかけてはこないのだ。
名無しは、それが皆当然なのだと思っていた。皆、そのように生活をしているのだと。視界も悪いのが当然だと思い込んでいた。
だがそれは違った。
目が悪いのも、そのような対応をされるのも名無しだけなのだと気付いたのはいつの頃だっただろうか。近所の子供たちに囃し立てられながら教えられたときだろうか。それとも、自分より大きな人影たちが話しているのを聞いてしまったときだろうか。
その時に、名無しは知ってしまった。そして死ぬために生きているのだと知ってしまった時、老婆に聞いてしまったのだ。自分は、何のためにここにいるのだろうと。
老婆は答えた。名無しは、生贄になるために生きているのだと。お前の父親は落石で死に、お前の母親はお前を産んで死んだ。そうして産まれたお前は、ろくに目も見えない穀潰しであったと。だが、そんなお前にも唯一の使い道があった。それが、九尾様への供物となる生贄だと。
老婆は幼子に教えるように話した。この村の近くにある森には、村を守ってくれる九尾様がいるのだと。そしてその九尾様は、村のことを守る代わりに十年に一度、若い娘を望むのだと。そんな折に、丁度良く産まれたお前は、生贄になるべく産まれた存在なのだと。
だから、名無しはそれを全てとした。
自分が生まれた意味、それは、村の為に九尾様の為にあるのだと。そうでなければ、この村に生きる事すら叶わなかったのだと。
名無しは、自分のことを哀れだとは思わなかった。いや、哀れという言葉すら知らないほど、彼女は誰とも接することなく生きていた。日々、いずれ生贄にされることだけを考え、そうすることで自分の存在の意味を感じ、そして村の為になるのだと信じた。それ以外の事なんて、何も考えようとはしなかった。
ある日、名無しに老婆は言った。お前の生贄になる日も近い、と。次の満月には、生贄として森に行くことになるだろう、と。今まで育ててもらった恩義を、果たす時が来たのだと。名無しは、それを嬉しく思い、そして同時に何故か胸に痛みが走った。
老婆は、名無しが嫌がっているのだと勘違いし、厳しい声音で続けた。この村が、今こうしていられるのも全ては九尾様のお陰であり、その九尾様の生贄となれることを感謝しなくてはならない。そのためだけに、ろくに仕事の出来ないお前を村人たちは育ててきた。それから逃げ出そうとすれば、お前の魂は煉獄に焼き尽くされるだろうと。
名無しは、どうして老婆がそんなことをわざわざ言ってくるのか、理解できなかった。逃げるはずなどない。たとえ逃げたとして、どこに行けというのだろうか。目の見えない自分は、村の中でしか生きられない。そんな自分が逃げるわけがないだろうと。
「…大丈夫、九尾様の生贄になることは、とてもめいよ、なこと。今まで育ててもらった恩は、必ず返します」
名無しの言葉に、老婆の空気が和らいだのがわかった。それを悲しいなんて思うはずはない。だって、そのために老婆は自分の傍にいてくれたのだから。それがたとえ、逃げ出さないようにするためだとしても。些細なことで死なないように見張る為だとしても。
ただ一つ、名無しには心残りともいうべきことがあった。自分に”ナナ”という名をつけてくれたクロ。声からして男だというのはわかるが、村の誰とも違った空気を感じるその人。
会うときは、いつも二人きりで村の人たちが邪魔をしてきたことはない。いや、もしかしたらクロと会っていることすら知らないのかもしれない。
せめて、その人だけにはお別れを言いたかった。短くない時間、一緒に居てくれたたった一人の人。九尾様に喰われることへの、恐れはない。
だって、きっと悪い人ではないと思うから。
「クロ…」
名無しのか細い声は、太りつつある月の元、溶けるように消えた。
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