すでに良回答も多く、その跡追いになりますが、歴史的に琉球(沖縄)は日本と中国に「両属」していました。
その帰属が最終決着したのは、日清戦争で日本が勝利したとき(1895年)と言われています。それに対し、1874年調印の日清議定書(日清両国間互換条款及互換憑単)にて決着したなどというのは、おそらくネトウヨサイトからの引き写しであって、大学入試にも通用しないでしょう。
さて、琉球帰属問題については、例えば下記の沖縄県立総合教育センターの琉球文化アーカイブをご覧ください。
沖縄の歴史(全8ページ)
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch4/syobu …
〔引用開始〕
1872(明治5)年、明治政府は東京に使者を呼び、尚泰王を「琉球藩王」に任命することを告げました。
これがいわゆる「琉球処分」のはじまりです。〔中略〕
明治政府が、琉球に対してすぐに廃藩置県を実施しないでいったん藩にし、さらに尚泰を「藩主」ではなく「藩王」としたのは、琉球や中国の反発を回避するためにも段階的に王国解体をおこなう必要があったからです。
〔中略〕
宮古島の船が遭難して台湾に漂着、そこで乗組員66人のうちの54人が地元住民に殺害されるという事件が起こりました(琉球船の台湾遭難事件)。〔中略〕
そこで明治政府は、1874(明治7)年、台湾へ3,600名余の兵をさしむけました。これが台湾出兵です。
この争いは、イギリスの調停で和解が成立しましたが、日中両国間で交わされた条文には「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪をとがめてかれらを征伐したが、これは自国の人民を守るための正当な行動であった」とあり、琉球人を「日本国属民」と明記しています。つまり日本政府は、中国に「琉球人=日本人」ということを認めさせたのです。
〔中略〕
琉球藩は何の対策もみいだせず、日清両属的な状態を従来通り維持したいと嘆願するのみでした。〔中略〕
1879(明治12)年3月末、政府の命を受け、警官と軍隊をひきいて来琉した松田は、「琉球藩を廃して沖縄県を設置する」ことを王府に通達しました(廃藩置県)。これにより、旧琉球王国の土地・人民およびそれに関するすべての書類は政府に引き渡されました。
〔中略〕
琉球問題は、廃藩置県による沖縄県設置で完全に解決されたわけではありませんでした。清国は依然これを認めず、また琉球でも清国に救援を求め続ける人たちがいました。
清国から琉球問題の調停依頼を受けた米国前大統領のグラントは、伊藤博文ら政府高官と協議し、日清交渉をとりつけました。その交渉の場で日本側が出した案が、日本の中国国内での欧米なみ通商権を認めることと引きかえに、宮古・八重山を中国へ引きわたす、というものでした。これがいわゆる「分島・増約案」です。〔中略〕
しかし、いざ調印の段階になると、清国側は国内の混乱や日本の東アジア進出の危機感をおぼえて調印をためらいました。〔中略〕
その後、日本の朝鮮進出によって日清間の対立は激化し、ついに日清戦争(1894~1895年)が勃発しました。この戦争で日本が勝利をおさめ、台湾が日本の植民地となったことにより、琉球問題はあいまいにされたまま日本に属することになりました。
〔引用終り〕
つまり、台湾出兵の結果である日清議定書(1874年)は、宮古島の船員に対する日本の外交的保護権を、中国に認めさせました。それは間接的に、琉球が日本領土であると認めさせたことになります。
しかし間接的にであって、まだ日本は琉球王国の王府を接収しておらず、書類を押さえていませんでした。「琉球人は日本人」と言っても実質性が欠けていました。それが実質的になったのは、1879年の第二次琉球処分(沖縄県設置)によってです。
ただし、その後も清国は異議を唱え、この琉球問題はしばらく決着しませんでした。仮に決着していたならば、その後の日清交渉で「分島・増約案」が出て日本がこれを一蹴しなかったことと矛盾します。
結局、日清戦争で日本が勝利したことを以て、(そのときの講和条約に琉球処分に関する言及はないけれど)日本帰属が固定化されました。79年の「実質的」が固定化したわけです。
下記の山川教科書準拠のサイトにも、日清戦争の日本の勝利により琉球帰属問題は決着がついたと書いてあります。まあこれは日本史というより世界史のサイトですが、学校の授業で疑問が生じたら、このような教科書準拠のサイトで調べてみるのがよさそうに思われます。
世界史の窓 - 琉球帰属問題
http://www.y-history.net/appendix/wh07-035.html
〔引用開始〕
琉球帰属問題
〔中略〕 1874年には、琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された事件を機会に、日本は琉球は日本に属するとして台湾出兵を強行した。清朝は強く抗議したが、イギリスの調停によって開戦には至らず、事実上、琉球を領土とする日本の行動が認められることとなった。
その後も、琉球に対する清朝の宗主権の主張は続き、琉球内部にも清朝への帰属を主張する動きもあった。そこで明治政府は1879(明治12)年、軍隊・警察を派遣して威圧した上で、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。これの課程は日本史上では「琉球処分」と言われているが、形式的ではあれ独立国家であった琉球を日本が併合したものであり、それによって清朝の宗主権の一つが失われたことを意味している。清国の駐日公使はただちに日本に抗議し、琉球帰属問題はなおも日本と清国の間で継続されることとなった。
折から世界一周旅行の途中で来日していたアメリカ合衆国の前大統領グラント(南北戦争の北軍の英雄として戦争後に大統領に選出されたが大統領としては問題が多く、評価は低い)が、日本と清国の調停役を引き受けた。しかし両国の主張は歩み寄らず、この問題は1894年の日清戦争の一つの要因となった。そこでの日本の勝利により、事実上、琉球帰属問題は決着がついた。
〔引用終り〕
世界史の窓 - このサイトについて
http://www.y-history.net/
〔引用開始〕
高校で世界史を学んでいる皆さん、教えている先生方、さらに世界史・歴史一般に興味をお持ちの皆さんに参考にするために設けたページです。世界史ノートは山川詳説世界史に準拠し、それを補うための穴埋め式ノートです。
〔引用終り〕