壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を記録した「懲毖録」には「開寧の人々」の話が登場する。倭軍(日本軍)を防ぐために前線に下ってきた将軍に対し、開寧の住民が「倭軍が近くまで来た」と告げる。庶民が果たすことができる最大限の忠誠だった。ところが、将軍はそれをほめるどころか、「世を惑わせた」として、その住民の首をはねようとした。すると、その住民は「どうか朝まで待ってほしい」と絶叫した。やがて夜が明けても倭軍は現れず、結局住民は首をはねられた。その直後に倭軍が襲来した。多くの住民がいち早く倭軍を目撃したが、それを将軍には知らせなかった。斬首が怖かったのだ。かくして朝鮮軍は全滅した。その際、よろいを脱ぎ、山に逃げた人物がいた。将軍だった。今北朝鮮の脅威について触れる人間は「開寧の人々」のような扱いだ。長官が言う「不安助長」と朝鮮軍の将軍が言った「世を惑わす」という言葉に違いはあろうか。朝鮮時代ならば記者の首も飛んだはずだ。
戦争が迫ると、政府高官は核兵器に耐えられる要塞に入る。行政安全部長官もそうするだろう。高官らは最後まで生き残り、国を率いなければならない。それは当然だ。ただそれよりも当然なのは、国民も生き残りたいということだ。ところが、韓国政府は「不安を助長する」と言って、生き残るための訓練をしない。ダチョウのように砂に頭を突っ込んで「安全だ」と言うものだから、世の中は韓国を信頼しない。皆が北朝鮮の核攻撃を心配するならば。少なくとも迎撃ミサイルで平昌の空を二重三重に守った後、世界に安全だとのメッセージを送るのが定石ではなかろうか。
堤川のスポーツセンターの2階にいた客は目の前に非常口があるのを知らずに亡くなった。今大韓民国の国民のうち、北朝鮮の核に対する非常口を知る人はどれだけいるだろうか。訓練を通じ、生存確率を高める責任は政府にある。政府はその義務を投げ捨てた。このままで万一の事態が起きれば、政府は国民の怒りと犠牲の責任をどうやって負うのか。国政介入事件など比べ物にならないだろう。