じいさんは大戦中呉にいた。呉には予科練?という少年兵の学校があって、じいさんはそこにいたらしい。呉は軍港があって、大和と武蔵が出港していくのを観たそうだ。
じいさんはパイロットではなく、整備工として予科練にいた。戦後は水道工として働いていたから、そこで学んだことがじいさんの稼ぎに繋がってたのかもしれない。
整備工だったから、飛行機の作りには詳しかったらしい。アメリカの飛行機が不時着したのを皆で見に行った時(グラマンと言っていた)、じいさんは「あぁこの戦争は負ける。こんなもの作りをしている国に勝てるわけがない。」と悟ったらしい。
わしらは零戦をネジで手作業で作る。グラマンはリベットうちじゃ。作れる数が違う。
勝てるわけがない。じいさんが誰ともなしに呟いた事はよく覚えている。
戦争が終わった時じいさんは17歳だった。じいさんは予科練を卒業していたが、予科練は学校としては認められず、最終学歴は小卒になってひどく苦労したらしい。
じいさんは89歳で死んだ。戦争で行けなかったが、本当は大学で物理学を勉強したかったじいさん。
学歴を生涯恥じ続けたじいさんの人生は、立派なものだったと思う。