新年あけましておめでとうございます。編集長の池田信太朗です。
本年も日経ビジネスオンラインをどうぞよろしくお願い申し上げます。昨年初に続き、本サイトの連載陣に新年の行方を予測するコラムを寄稿いただきました(「人気連載陣が「2018年を読む」)。緊迫する北朝鮮情勢、米国と欧州に拡がる自国優先主義、日本企業に相次ぐ品質問題、求められる働き方改革――。本誌の特集「2018年大予測」や書店で発売中のムック「2018年徹底予測」も併せて、様々な視点の「予測」の競演をぜひご一読ください。
これらの記事を読みながら思うのは、2018年はつくづく「人間」が問われる1年になりそうだ、ということです。
AIが問いかける「人間とは何か」
背景の1つには、AI(人工知能)の進化があります。
私たちはこれまで、「考える」あるいは「判断する」ことは、生命やそこに宿る知性に特有のこころの働きだと思っていました。というより、思おうとして来た、と言った方が正確かもしれません。しかしながら、2017年、情報を「記録する」ものとしてだけでなく、蓄えられた情報から「判断する」ものとしてのコンピュータが、にわかに私たちの前に現実として姿を現し始めました。
人間が、優れた知性をもってほかの哺乳類とその強みを異とするとするならば、走る速さや泳ぐ速さを競い合うよりも、むしろチェスや囲碁などのゲームに打ち込む時、人間は最も人間らしい姿を見せているとも言えます。そこで人間がAIに敗れるのを目の当たりにして、私たちは否応なく「人間とは何か」という根源的な問いに突き当たることになりました。
例えば花を見て「美しい」と思う時、私たちの魂がその花の姿に打ち震えているのでしょうか。それとも、美しいものとそうでないものを識別してきた学習の成果なのでしょうか。私たちの生命が地上に生まれた瞬間、まだ何も学習していない状態の私たちの魂は、花を見て美しいと思えるのでしょうか。
「本能」という言葉があります。なるほどそれは生来のものにも思えます。けれども、例えば蛇のような細長い生き物の姿を見て「不気味だ」と感じるのは、長い年月をかけて蛇を不気味だと思わない個体が蛇に近づいて命を落とし、蛇を不気味だと思う個体が生き延びた結果、人間の多数がそのように感じるように「進化」した、ということかもしれません。つまり、本能とは天与のものではなく、世代を超えて遺伝子に成果の刻まれた「学習」と言えるかもしれません。
判断する人間の魂を遡っていけば「学習」にたどり着くとするならば、人間もコンピュータも判断力を培うプロセスは同じということになります。およそ人間がタンパク質と生物電気によって成り立つ有限の肉体を持つ存在である以上、今後無限に性能を向上させていくであろうコンピュータに勝ち続けることはできません。
それでもなお、人間がAIに勝る分野はあるのでしょうか。
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