恩人との出会い

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20代後半に一生忘れる事の出来ない恩人の方と出合った。

セールスとは本当に奥が深くて、やっとセールスのセの字を理解し始めたころでしょうか

私には当時どうしても取引したかった店舗がありました。千葉駅周辺で一番大きい交差点がありその交差点から見える茶色いレンガ作りの3階建てのお城のような建物のレストランがありました。地下一階はバーで表から石畳の階段を登ると1階の入り口があり中に入ると木の温かみを感じることの出来る格式がある店内でした。中央には2階にあがれる大きな階段があった。千葉市を代表する飲食店「あしび」さん多分これまで千葉営業所とか特販部の人でも誰もが契約できなかった店舗で表から見上げると本当に大きくて立派でセールスするのも気後れするような感じでした。

とりあえず訪問をはじめました。

初回訪問も勿論飛び込みセールスです。もう何回いや何百回も色んなセールスを受けているのでしょう、訪問される事に慣れてらっしゃるような印象を受けました。それからは近くを通る度に顔を出すのですが、どこをどうやって進めれば取引できるのか、皆目検討もつかなくて、会社から出される業界や経営に関する情報などを持って行ったりしたのですが、なかなか進展しなくて契約のために訪問しているというよりは訪問の為の訪問になってしまっているような状況でした。

ここの乳製品は高梨乳業でした。バーとレストランのメイン厨房、そしてケーキを作っているペストリーと人気店なだけに取引すればかなりの取引額になる先だったが担当者さんとのやり取りはのれんに腕押し柳に風と何の手ごたえも感じないまま時間ばかりが過ぎていっている状況でした。

当時一度名刺を出したら取引していただくまで通うのが東京酪乳の伝統と教わっていましたが、バカ正直に本当になんの術も持たぬまま訪問だけはしていました。

その頃、千葉市郊外にある飲食店をセールスに訪問しました。上が集合住宅で1階が店舗になっていたその店は洋食のお店でした。ランチ営業が終わり落ち着いていた頃に初回訪問しました。挨拶を済ますと応対にでて頂いた方が私の名刺を持って奥の厨房に行かれ、程なくして厨房からにこやかな表情のコックコートを着た方が出てこられました。

酪乳さん懐かしいな、東京にいた時は取引していたんですよ。どうぞどうぞと席に促されコーヒーまで出されて色々お話する事が出来ました。

私は東京酪乳という企業でお世話になっていて幾度となく以前に誰々さんに世話になったと好意的に迎えてくれる先がありました。先輩社員や仲間に感謝を感じる瞬間です。

大抵は門前払いなのですが拍子抜けする位にキーマンの料理長に会え、そして話す事が出来ました。その料理長さんのお名前は大塚さんとおっしゃいます。

生涯忘れる事の出来ない恩人との出会いはこうしてはじまりました。

それからは大塚さんに会いに行くのが楽しみになっていました。

料理の事も色々教えて頂きました。

でもこのお店とお取引はしていません。

大塚さんからはこの店で取引をはじめようと思えばいつでもはじめられるけど、正直この店のオーナーはあまり良くないあなたに迷惑を掛けたくないし、長くお付き合いしたいのでここは、おすすめ出来ないという事でした。

すごく大塚さんの気持ちが嬉しかったのを覚えている。そしてその頃こんな事も教えて頂きました。実は僕はここに来る前は「あしび」で総料理長をしていたんだよ。

驚きと同時にうまく表現できませんが、全く進展していなかった念願のあしびさんとの取引に向けてほんの少し前に踏み出せたような気がしました。

今の料理長は?オーナーさんは?これまで知りえなかった情報を頂く事ができました。

丁度その頃に社内で社長が信仰し会社の理念などにも大きな影響がある天理教の本部がある奈良県天理市で3ヶ月間、会社の研修を兼ねた修養科というものに行く事になった。

幹部社員の登竜門となっていたこの研修に私も参加する事になりました。

3ヶ月間留守にしないといけません。

契約した先、セールス先に3ヶ月間関西に研修に行くと伝え引継ぎをしました。

もちろん大塚さんにも挨拶に行きました。

この頃、この店舗の売上は散々たるもので女性のオーナーがサンゴを細かく砕いた水が体にいいとかマルチ商法まがいの事をしてお客様にもすすめてしまっていて、お客様の足も遠のいているようでいつ行っても店内は大変落ち着いていました。

大塚さんに3ヶ月間留守にする事を伝えたところ、頑張ってきてくださいと送り出して頂きました。

準備期間も含め3月下旬から行っていた研修も7月の上旬にようやく開放され、また千葉の地に戻ってきました。

仕事を再開し、すぐに大塚さんがいらした洋食店を訪ねるとそこにはもう店はなく、何も残されていない原状回復された物件だけがありました。平成6年の話です。今ほど携帯電話が普及していない時代でした。ここでお世話になった大塚さんとのご縁が切れてしまいました。相変わらず毎日営業の日々でした。千葉市を代表する飲食店あしびさんにもセールスに通うようになり1年以上過ぎていましたが、取引に向けた糸口は全くありませんでした。

しばらく経ったある日の午後普段どおり営業をしていると当時ベルトに常につけていたポケットベルが鳴りました。

公衆電話から営業所に電話をしたところ大塚さんと名乗る方から電話があって連絡をとりたいとおっしゃっているとの事でした。

その時は大塚さんの事を完全に忘れたわけではなかったのですが、飛び込み訪問の連続でその時はすぐにあの以前やりとりをさせて頂いていた大塚さんと私の頭の中ですぐに結びつきませんでした。指定された番号に電話するとご自宅のようですぐにご本人が電話に出られました。懐かしい声を聞きようやく私の頭の中でひとつになりました。

ご無沙汰をお詫びし用件をお聞きしたところ、ある不動産会社があってそこは駐車場の管理などを請け負っているが、これから飲食事業を立ち上げるにあたりその会社に誘われたという事でした。ついては取引をしたいので会いたいと言う事で、その会社が経営しているというスナックで商談する事にしました。

大塚さんとの再会をすごく楽しみにしながら指定された場所に行きました。

店内に入ると濃い赤で統一された椅子と絨毯が目に付く紛れもなく女性が接待するスナックでした。お約束したのはもちろん昼間です。大塚さんは変らず以前と同じままの笑顔で迎えて頂きました。ご無沙汰して申し訳ございません。研修から帰ってからすぐにお店を訪ねてのですが既に閉店されてしまっていた事を話したところ、私が研修に出発してから程なくして経営不振で閉店してしまったとの事でした。閉店してからこの日まで大塚さんは卸売市場の魚屋さんでトラックの運転をされていたと言う事でした。お話をお聞きし短い期間ですがご苦労されたんだなと感じたのを覚えています。

良く話をお聞きするとこちらのスナックを経営する会社は今後第三の柱として飲食事業に力を入れていくと言う事でした。

この当時はバブル景気と呼ばれていたものが崩壊し不動産や金融関係の倒産が相次いでいたが良くなるときに一番後に良くなり悪くなる時も一番後と言われていた飲食業はまだそんなに影響を受けてなくて、そこに目をつけた他業態の会社がこぞって参入しはじめたのもこの頃と記憶している。

駐車場管理、不動産などを生業としているこの企業も本業以外の食い扶持を求め飲食業に進出を目論んでいたのだろうそしてその料理を作るという事に関して白羽の矢が立ったのが大塚さんという事だったのだと思う。

話をまとめると、まずはこのケバケバしい赤い絨毯とソファーで彩られたスナックでランチ営業をテスト的にはじめて、来るべき時に物件を取得し開店させ多店化していくと言う事でした。今の私ならそんな不透明で先の見えない計画と感じるかもしれないが当時は素直にお世話になった大塚さんへの恩返しという気持ちで取引させて頂いた。

取引が始まり、ランチ営業が終わり一段落した3時とか4時ごろにいつも訪問するとおつかれだったのか、いつも赤いソファーに横たわり仮眠をされていました。

夜は夜でまたそのスナックの厨房にも立たれていたようです。

そんな時期がどれ位続いたのでしょうか

私もいつまで経っても新たな店を開店させる様子もないと感じていたと言う事は当事者の大塚さんはもっと強く感じていたはずです。

ある日の午前中、店を訪問するとそこに大塚さんの姿はなくパートの女性3名がランチの仕込をしていました。

大塚さんの所在をお聞きするとお辞めになられたという事でした。

大塚さんにしてみてもいつまで立っても具現化しない計画に対して当初の約束と違うと感じられまた何も言わずにお辞めになったというのは男として何も言わず去りたかった事情があったのではと自分を納得させました。

その店舗からの注文がなくなりお昼のランチ営業もやめられた事を知りました。

それからまた1年が過ぎた頃に、また大塚さんから連絡がありました。

もちろんこの頃もかって大塚さんが総料理長をされていた千葉市を代表するレストランあしびさんの訪問を継続していましたが、お恥ずかしい話しもう訪問している自分でも取引できるような気がしなくて、ただただ惰性で訪問しているといった状況でした。

大塚さんからのお電話の内容は会って話がしたい、まだ正式には言えないがある店舗に入ることになった。そんな内容の電話でした。

前回の件もあるし、正直そんなに期待はしていませんでした。

指定された待ち合わせの場所は千葉市中央区富士見町の通称なんぱ通りと呼ばれる一方通行に面した角にある喫茶店でした。

以前に急に連絡もくれずにスナックを辞めてしまわれた事に関しては別にどうも思わなくまた再会できた事が素直に嬉しくお会いしてからすぐにまた以前と同じように色々お話をしました。どれ位時間が経った頃でしょうか大塚さんがこういいました。

実は今日お呼びしたのは今度またレストランで仕事をする事になったので取引したいと言う事でした。以前の事もありますのでまた小さい店の厨房でも任されたとかそういう事かなと思っていました。次に大塚さんの口から出た言葉の意味を最初は全く理解できませんでした。「実は私、あしびに戻る事になったから」はっ?

正直どういうことなのかわかりませんでしたが、冷静にひとつひとつ整理していくと大塚さんはあしびに戻られる。それも以前と同じ総料理長として、そこまでは理解できましたが実感が湧きませんでした。

そして次にまた驚く事を口にされたのです。

「これまで苦労を掛けたね。とれる商品は全部東京酪乳さんの商品をとるから」という事でした。天にも昇る気持ちになるかなと思いましたが、その時は実感が湧きませんでした。今日これから社長を紹介するからと言われその喫茶店からすぐの雑居ビルの3階にある事務所に連れて行って頂きました。約2年半セールスに通っていて何をやっても進展しなかった取引に向けた動きが今大きく音を立てて前進を始めました。

事務所に着くと社長とおっしゃる年配の女性の方とお名刺を交換しました。

中島様とおっしゃる女性の社長様です。

中島社長がおっしゃるには大塚さんが使いたいというのならいいです。是非取引してくださいと言う事でした。時間が経つにつれどんどん実感してきました。

大塚さんにお礼を述べお別れし千葉の街を一人で歩き車を停めたコインパーキングに向かいながら私の心の中でどんどんどんどん嬉しい気持ちが大きくなってきて、何回も心の中でやった、やったぞとつぶやいていました。

駐車場の精算を済ませ当時乗っていたカローラバンのドアを開け車に乗り込んだ瞬間に「やった~」と大声で叫びハンドルを叩きました。

契約に向けた取組み、セールスする上でのテクニックなど全く使っていません。

見積書すら書いてません。

ただただ会社から教わったご縁の大切さ、一度お付き合いしたら死ぬまでお付き合いするのが東京酪乳の伝統と教えられ何もわからないけどそれを実践していたら契約したくてしたくて夢にまで見たレストランと契約できたのです。

その後、使用する商品などを打ち合わせし、初回納品の時は当時配送を担当していた後輩の阿佐美君と待ち合わせしクレート5つに牛乳、生クリーム、チーズ、バター沢山の商品を二人で運びました。あしびさんのメインダイニングは地下1階です。

何回も門前払い、箱根の関所のように感じていた納品口をあけてすぐの階段を降りて行きます。地下の厨房に続く扉を開けた時のあの感動は今でも覚えています。

扉を開けると蛍光灯の光がまぶしく奥から大塚さんが笑顔で迎えてくれました。

大きな声で挨拶をし冷蔵庫に商品を納入している時、大塚さんから「タカナシ乳業さんが血相変えて飛んできてどうか取引をそのままにしてください。会社になんと報告すれば良いのか自殺ものだ」とお願いに来られたそうですが、それ頑として受け入れず、私の目の黒いうちは東京酪乳さんと取引するとおっしゃって頂けたそうです。

セールスマンとしては、ほんとによちよち歩きで、なんのテクニックも戦略も戦術ももっていなくて、持っているとしたら会社から鍛えられた精神と誠の心だけでした。

千葉の中心部にありながら長年、タカナシ乳業の牙城であった千葉を代表するレストランあしびさんとご縁が出来た。本当にありがたくて全て大塚さんのおかげでした。

自分自身のセールススタイルもこの契約を契機として確実に確立し自分がこれまで会社から教えられやってきた事の正しさが確信できた瞬間でした。

一生懸命事にあたっていると信じられない、自分の考えを超えたところで働く力があると言う事を実感しました。

その後お取引は順調で、タカナシ乳業が取り返しに営業攻勢を掛けてきていたが、大塚さんは頑なに拒否して頂いた。厨房全体がもう完全にそういう雰囲気となり大塚さんのご紹介のお陰でバーテンダーさんやフロアの皆さんとも良好な人間関係を築く事が出来た。

お取引が順調に続いてからも私は近くを通ると顔を出し大塚さんにご挨拶する事を欠かさなかった。いつも夕方行くと休憩室で仮眠をとられているような感じて、お疲れなのだなとの印象をうけていたが地域の飲食店事情や様々な情報をお話した。それが少しでも恩返しになればと思った。

ある日大塚さんがこんな事をおっしゃった。

自分が職を失いスナックで働いている時も顔を出してくれて色んな話をしてくれた。市場の魚屋で働いていた時に旧知の業者と会ったが無視する人間もいた。

あなたは一貫してずっとお付き合いしてくれた嬉しかったとおっしゃって頂いた。

私はただ会社から教えて頂いている人のご恩、ご恩は石に刻んでも忘れない。恩返しの達人は常に繁栄の芽を出し続ける。入社してずっと教えてもらった事を実践しているに過ぎない。でも大塚さんにそう言って頂いて自分ひとりの力では到底契約する事ができなかった。あしびさんに取引させて頂く事が出来た。

セールスというよりは人として商人として男としてと言う事を会社から教わった気がする。

その後も順調に取引し配達などは営業所に任せ私も新たなご縁を求め新規開拓をしていた。あしびさんへの訪問回数は減っていたが感謝の気持ちは忘れた事がなかった。

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