5月病?

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もう仕事が嫌で嫌で体は物凄く疲れているんだけど布団に入ると仕事のことや次の日の段取りを考え全く眠れない。気付くと朝だけど寝た気がしない。

そしてまた地獄のような1日のはじまり。

当時配達していた店の店主と納品しながら話していた時に「夢にまで仕事がでてきますよ」と言ったら「俺は勤め人をしていた時に上司から夢にでるまで仕事しろと言われた」それは素晴らしい事みたいな話をされたが当時の俺には全くもって理解不能だった。

この時は既に寮生活。寮といっても企業の会社案内に出てくるような冷暖房完備、最新鋭の独身寮なんて気のきいたもんじゃなくて、ただ単に営業所の2階にあった寮で夏は蒸し暑く、冬は隙間風バリバリのタコ部屋のような寮だ。漆喰のような壁で金粉が塗りこんであるんだけど、もちろんニセモノの、その金粉が落ちてきて朝起きると顔が金粉だらけになることがある。平成の世に女性のメイクでそんなものが流行るとは想像できなかったが金粉を顔に付けたまま配達した事も一度や二度ではなかった。

当時は通勤片道2時間、乗り換えや接続が悪いと往復5時間の通勤、結構限界に達していて俺はしょうがなく寮に住んだ。

ある意味この寮という生活が俺には良かったのかもしれない。

同じ釜の飯を食うというが本当に兄弟のように毎日を過ごした。

しかし月曜日から土曜日まで仕事をして日曜日は地元に帰って仲間と遊んでしまう。

月曜日はかったるくて、仕事にいきたくなくて朝起きられない。

もう休んじゃえと休んでしまう。

いつしか俺は毎週月曜日休むので床屋さんと呼ばれていた。

当時は徐々に週休2日を目指し土日連休ではなく木曜日と日曜日が休みだった。

月曜日休んじゃう俺は毎週1日遅れで配達してた。

火曜日に月曜日の配達

水曜日に火曜日の配達

木曜日に水曜日の配達

金曜にやっと追いついて金曜日当日の配達

そして土曜日は土曜日の配達。

土曜日の配達が終わると

夜は家に帰れる。地元で遊べる。それが嬉しくて

当時土曜日の最後の店は、みつわ台のみさき屋さん

配達を終える頃、当時人気絶頂でテレホンカードに超プレミアムのついていた斉藤由貴がパーソナリティを努めるラジオ番組が毎週流れていた事を記憶している。

コンテナの中の商品を整理して数を数えてハンドコンピューターと呼ばれる機械に在庫を打ち込んで、その日実際に販売した個数はその都度コンピューターに打ち込まれてるから過不足が出なければ、それで終了。日付切れは自腹購入。

その日の売上と販売数量を公衆電話から報告する。

十円玉を一杯持って電話BOXに行って売上報告をする。

ここで売上が低いと鬼軍曹のような先輩から電話で叱責されたりして帰る道中の足取りは鉛のように重い。実際にはトラックを運転して帰るんだが・・・

でもタイムカードを押して毎週土曜日はカレーライスだったが寮のカレーを食べて家に帰った。俺の家の母親は料理が上手だ18年間結構うまいものを食わしてもらってきた。

寮には夕方食事を作りにくるおばさんがいて俺はこの飯がまずくて、なんだろう肉をオイスターソース?当時はそんなもん知らなかったがそんなんで味付けしていてうまくない。

全ての仕事に対して不平不満批判の塊だった当時の俺は声高にまずいまずいと決して作ってくれているおばさんには言わなかったが、言っていた。

今思い出すとそれはすごく思いやりにかけた言動で世間知らずの無鉄砲で何も考えずに自分の頭に浮かんだ事、思いついた事を口にしてしまっていた。

俺がそういう度に所長や先輩はどことなく悲しい感じで俺をみていたと思う。

ほんとごめんなさい!今ようやく人の痛みや気持ちが多少はわかるようになりました。

でもこの土曜日のカレーはおいしくて豚肉が沢山入っていて火を止めると大量の片栗か小麦粉で固まってしまいそうな、でも美味しくて俺はこのカレーを2杯食べてから帰るのが土曜日の儀式だった。

今は分からないが、当時なぜズル休みをしても1週間で帳尻があったかというと

注文したものを注文どおりにお得意先に届ける。これは配達の基本だ。当時も今も業務用と呼ばれているホテルやレストラン、喫茶店などを担当している部署はそうやって配達している。俺が担当していた家庭用もたまにチラシ特売が入る。特別の注文が入った。品切れを起こしたとかいうと電話が掛かってきて配達しフォローしなくてはならなかったが基本的には自分の売り場と言うものが決まっていてその売り場を品切れさせなければOKみたいな感じだった。配達コースも配送バインダーで何曜日と何曜日はどの店を配達するとか決まっていて巡回してそこに少なくなった商品を補充していくのがメインの仕事だった。

だからスーパーでは1パック、1個でも余分に納品できるように商品を平らにして綺麗に並べていった。そして店の店長や担当者、売場担当のパートのおばちゃんなんかとコミュニケーションがとれてきた頃になると前出と呼ばれる自分の売場の前に5ケースとか置かせてもらう交渉をしないといけない。定番フェースと呼ばれる売り場の棚だけを補充しているようでは売上があがらない。

18で社会に出てこんな貴重な経験をさせてもらえると言う事はある意味、非常に有難い事だ。今でも尊敬しているが創業者の会長はこう言っていた。配達ができれば経営ができる。このルートセールスで俺は数々の事を学んだ。

41歳になる私は、つい最近まで夢の中でこの頃の配達の光景が浮かんでいた。店を飛ばしてしまうのは欠配と言って絶対にやってはいけない事だが、配達しても配達しても一日のコースが終わらなくてプレッシャーでどうしょもなくて欠配しちゃおうかと思った時に決まって目を覚ました。

この夢をみなくなったのは本当にここ最近の事だ。

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