過酸化水素混入事故

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人生は生きていくうえで信じられない出来事が起こる。

18歳にして仕事からその事を学び、人とのご縁や有難さを知る事となる。

入社して半年も過ぎた頃だと記憶しています。

当時東京酪乳には誕生会なるものがあり、誕生月に該当する社員が一堂に会し東京本部のあった豊島区南大塚の飲食店で食事会が模様されるというものでした。私は11月が誕生月だった為、多少楽しみにしていたんですがこの出来事で中止となりました。11月の初旬位の出来事ではなかったと記憶しております。

1987年、入社した年の冬、お疲れ様でした~お先にご無礼いたします。とタイムカードを押して営業所を出ると通勤0分もう当時は快適になっていた寮の自分の部屋へ行く為に外にある鉄製の階段を音を立てて勢い良く登っていった。既にあがっていた1個上の、兄貴分の浅井さんが迎えてくれた。おうお疲れ!風呂も入りもう毛玉だらけのスエットを着て寝れる体制ばっちりだった。俺は制服の上着のボタンを全開にし、まだ当時はメタボリックシンドロームとは無縁の腹をだして挨拶した。

敬語ともタメ口とも付かない言葉で何かバカ話をして自分の部屋に入ってテレビを付けたなんか疲れて一服したら飯と風呂行こうとボーっテレビを見ていると番組またぎの多分午後10時前のニュース番組ではなかったか?フジテレビだったように記憶している。今はレインボーブリッジの夜景が映し出されてニュースがはじまるやつ、でもレインボーブリッジの完成はこの年の6年後だ、フジテレビもお台場になかったから今の夜景ではないはず。トップニュースの男性アナウンサーの右背後に見慣れた画像が大きく映し出されていた、今でこそコンビニエンスストアに行けば飲料売場に沢山のアイテムの商品が並んでいるが当時は森永さんと東京酪乳位しか扱ってなかったワンショット型というプラスチック容器にカフェオレとかの飲み物が入っていて添付されたストローを差して飲むタイプだ。

今のコンビニに売っているスターバックスのディスカバリーシリーズと同じと言ったらわかりやすいだろうか。東京酪乳製造のラブリーカップカフェオーレとチョコレートオーレから多量の過酸化水素が検出されたという内容だった。

なんかまずいとかそういう感覚はなくて、自分のところの商品がテレビのニュース報道で映し出されている事が妙におかしくて、すぐに廊下を隔てた前の部屋にいる浅井さんに向かって「浅井さん浅井さん!8のニュースになんか出てるよ!」すぐ浅井さんが部屋から来て二人でその報道をみたのを覚えていて、なんか二人で笑ってた。俺半年前まで高校生、浅井さんこの時19歳、事の重大さが全くわかっていなかった。

すぐに下の事務所に下りて行ってまだ仕事をしていた皆におもしろおかしく、「今さぁ~ニュースにうちの商品が出てたよ」というと、もう既に情報が流れていたらしく、やはり報道されたかという感じでした。まず最初に東京の江戸川区内で購入し飲んだ男性のお客様が舌にしびれを感じ保健所に駆け込んだそうで同様の事案が西日本でも起こっていたそうでマスコミ報道となりました。

当時の私は翌朝になってようやく事の重大さを理解しました。

朝礼で所長より食品事故、過酸化水素混入事故が発生し本日は配達より回収を優先で動くよう指示がありました。自分のコース内では幸か不幸かあまり販売していなかったので事なきを得ましたが、当時拡売実行委員という飛び込みセールスを専門とし自分で配達している方たちが大量に販売していた為、その方たちのコースにも入り込んで回収作業を行いました。店舗ではすごく責められるかなと思ったら意外にも大変だなとか逆に励まされたりしてお得意様とはありがたいななんて感じていました。

一方大手の食品スーパーは非情で関係のない商品まで全て売り場から撤去し直ちに取引停止という厳しいものでした。営業所のプラットフォームも返品商品の山でした。

毎日毎日回収作業に追われました。大手スーパーも厳しいなと思いましたが当たり前の事だと今は思える。消費者の安全を守らなければならないからしょうがない。当時朝礼で本社からの指示が伝えられ西友さんジャスコさんダイエーさん、そして今度は○○さんとどんどん取引がなくなったいてそれに比例して営業所には返品商品が山のように積まれていきました。

今年はボーナスが出ないぞ、会社潰れるんじゃないか?給料カットかな?こんな会話が毎日毎日続けられ、それじゃなくても、つい半年前まで高校生だった私は本当に不安で折角入社したこの会社大丈夫かな、俺どうなっちゃうんだろう?なんて感じてました。

今は経営的な事にも参加していますが当時あれだけの被害でよく給料を遅延することもなく会社も苦しかったがよく乗り越えたな、それを契機に安全面の強化や逆に業績を伸ばしていった本当にすごいパワーで企業としての地力があったんだな、それを支えていたのは商品力や物流もさることながらやはり社員の人間力によるものが大きかったんじゃないかと今なら感じる事ができます。

精神的にも肉体的にも結構しんどかったけど、自分が会社を守るみたいな妙なやりがいとか使命感を感じていたことも事実です。

そんな苦しくていっぱいいっぱいの日々が続いていてモチベーションも落ちていた頃でした。朝礼で所長から信じられない言葉が発せられました。

本社の対策室に連絡が入りました。イトーヨーカ堂様からです。

「うわぁ~まずい!」これは新入社員の俺でも理解できた西のダイエー東のヨーカ堂そしてジャスコと、この中のダイエーとジャスコはほんと秒殺で取引を断ってきた。

ダイエーは当時小売業日本一の売上を誇っていた。

そんな環境下でイトーヨーカ堂も取引停止かぁ~終わったな!

ほんとにそう感じていたとき所長からの言葉に耳を疑った。

今となっては定かではないがイトーヨーカ堂の伊藤雅俊様からだったのか鈴木敏文様からだったのか、多分そういった経営陣の意を受けたイトーヨーカ堂のバイヤー様からではなかったか?内容は

「今回の件、お見舞い申し上げます。お取引業者様が困っている時に助けるのがヨーカ堂の伝統です。どうか頑張ってください。」

心が震えました。感動しました。

入社してから一番感動した事かもしれません。

あ~有難い。お得意様のご恩、ほんとうに涙が出ます。

これが企業文化か、入社してからずっと聞かされていました。ヨーカ堂さんは取引業者からタオル1本頂かない。接待を受けたら懲戒免職。皆さん商人で素晴らしい企業と言う事を聞いておりました、前に私が文句を書いた返品に関しても流通業の商習慣は日付が切れたらメーカー返品当たり前、リベートが横行していたがイトーヨーカ堂さんは日付切れは自分達の責任と一切のメーカー返品はなくリベートなんてもちろんありませんでした。いつもお取引をして頂き商品をご購入して頂いていて有難いのに今回はこの温情なんと素晴らしい企業でしょうか。

私は生きている限りイトーヨーカ堂さんと現在ではIYグループさん全てに対する感謝と評価は絶対に変らない自信があります。

よく世間ではお客様は神様です、といますが私は東京酪乳でお客様は命の恩人と教わりました。お客様がいらっしゃらなければ、商品を購入していただけなければ私達はお給料を頂く事ができません。稼ぎがなければご飯も食べられません。正に命の恩人です。

私は18歳にしてお取引先様の有難さ、命の恩人と言う事を身をもって教えて頂いたのです。

後日談があります。今回のお詫びにと社長(当時)が全国のお客様にお詫び行脚に歩かれた時にイトーヨーカ堂様の本社を訪問した際に伊藤雅俊様からカタログを持ってきなさい。どの商品を取引したいか指で指しなさいとおっしゃられたそうです。

会社の損害を気にして頂きなおも支援して頂けるというその姿勢の話にまた感動してしまいました。

それからは、書店のビジネス書の書棚にあるイトーヨーカ堂関連のビジネス書を読みまくりました。本当に素晴らしい企業です。

昭和62年のあの時、18歳の私はあの一言で本当に救われ勇気付けられました。

私は今、企業で仕入を任されている責任者です。

あの時のご恩を忘れる事無く今度は私もお取引先が困っていたら必ず手を差し伸べようと思います。

イトーヨーカ堂様、本当にありがとうございました。

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