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査問責任者は?

 投稿者:新感性  投稿日:2017年12月31日(日)16時43分58秒
編集済
  通知書  投稿者:査問寅之助  投稿日:2017年12月31日(日)14時24分27秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/78003


査問責任者名は黒塗りされたのでしょうか?
 

査問は安易な投げやり方策

 投稿者:新感性  投稿日:2017年12月31日(日)16時25分52秒
  新感性様  投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月31日(日)11時50分22秒

どうもです。別に私に謝罪する必要はありませんよ。既に消された記事への違和感を少し述べたまでです。

違和感といえばこちらの画像のほうがはるかに大きいですね。

通知書  投稿者:査問寅之助  投稿日:2017年12月31日(日)14時24分27秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/78003

インターネットの投稿については投稿者実名ならともかく査問でそれを確認なら
内心の自由への踏み込みが懸念されます。ヴァーチャル投稿の内容が問題であり
投稿者を今後の処分や提訴に向けて突き止めたいのであれば、安易な査問ではなく
発信者開示請求で行うべきでしょう。
また査問で書き込み者特定の確認が行われるのであれば、特異と思われる査問環境の中での
強要性もあとあとも問題となりますね。弁護士はそのあたりはどう指南しているのでしょうかね。

また警察による公的な査問でも冤罪はつき物です。あまりにしつこく聴かれたからつい
事実でもないことを自白してしまった事例は現在までも枚挙にいとまがありません。
まして宗教団体が査問で事を進めることの理不尽さや得策でないことは冷静になればやってるほうも分かるのではないでしょうか。

被査問者が実名で投稿された場合も査問の不適切性は変わりありません。同じ上層部批判の実名投稿でも処分をされる人とされない人が生じる以上は感情での査問指令になってくることは避けられませんね。
査問して詫び状を強要する古めかしい手法が人権意識も進んだ現代において通用するとでも思っているのでしょうか。

 

個の、、、いたいけない少壮の御方のお心の背景を忖度せょ^^;

 投稿者:sasakiメール  投稿日:2017年12月31日(日)15時46分33秒
  30日午後5時半ごろ、東京都新宿区信濃町の創価学会関連施設前の路上で、少年(19)が30~40代の男性警備員2人にナイフで切りつけた。2人は右腕や腹部を切られ、全治10日~1カ月の軽傷を負った。警視庁四谷署が傷害の疑いで少年を現行犯逮捕した。
http://www.sankei.com/affairs/news/171231/afr1712310003-n1.html
 

The Logic in the place 様

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年12月31日(日)15時26分19秒
編集済
  大変、貴重な投稿、ありがとうございました

いつも楽しみにしていました

関係者の方
是非、アーカイブで、読めるように
よろしくお願いします

追伸
「通知書」アップありがとうございます

「極悪と投稿…云々」ですが、
執行部は極悪と投稿された内容について
反論もしないで、一方的に処分するのですか?

宗教の正邪は「問答」して決めるべきではないですか?

執行部は自分達が「正義」と思うならば
正々堂々と「問答」されたら、如何でしょうか?

これでは
「権力を嵩に着ている」と思われても仕方ないのでは?

「権力を嵩に着る権力者」と戦い続けたのが
大聖人であり、創価三代の永遠の師だと思います
「処分」ではなく「問答」をお願いします
そして「問答」は中継して下さい

開かれた宗教として、是非お願いします

 

よろしいのでは

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年12月31日(日)14時41分56秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/78000

>御三方に確認したところ、あの筆者からは取材も受けておらず、不適切な表現が目立つとのことでした。<

うん、あのヤフー記事文面からは元職員3名さんへ取材しての記事内容でないことはわかっていたけどf^^;
そうかといって悪意でもってやってる行為ということでもない、そう感じたから何もコメントしなかったけど

自由に評価して頂いてよろしいんじゃないでしょうか(^^)
賛成だけ、あるいは反対だけ、という状況はかえって世論の衰退を示してしまいますからね

元職員3名さん方は全体的にはちゃんと理解者を勝ち取れる状況となりつつある、そう感じてるんですが
そうはいっても一朝一夕でできることじゃないでしょうから

ほんとがんばってますよね

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

通知書

 投稿者:査問寅之助  投稿日:2017年12月31日(日)14時24分27秒
  執行部もこうなりゃ終わり  

40.乞眼の婆羅門

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年12月31日(日)12時54分42秒
  乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)

 多くの小説が日本にもあるが、時代の激しき、流れゆく中にあっても、なぜか夏目漱石の小説は不動である。その夏目漱石の作品の一つに『門』という長編がある。その冒頭に、主人公の宗助が首をひねりながら、「何うも字と云うものは不思議だよ」という一文がある。「近来」の「近」の字をどう書くか分からなくなって細君に聞いた。
「近江のおうの字じゃなくって」
「その近江のおうの字がわからないんだ」

 どんな易しい字でも、疑い出すと分からなくなってくる「不思議」。それでいて調べてみると、まことに味わい深い語源を探り当てたりする。しこに、表意文字としての漢字のもつ妙味があるといってよい。
 難しくその語源まできわめなくても、一目でわかるものもある。たとえば躾(しつけ)である。身は美しいとは、これはまた見事な字面ではなかろうか。躾の行きとどいた動作は美しく、いつ接しても清々しい印象を与えるものだ。

 この躾について、私には、嬉しい思い出がある。今から八年前(昭和四十八年)の四月、万葉の面影をとどめる大阪・交野市に、創価女子学園がオープンした。私も創立者として出席し、晴れの門出へのはなむけとして、五つの提案をしたのだが、その一つが躾であった。円滑な生活リズムを身につけるには、若い頃からの躾がとくに女の子の場合は大切であると考えたからである。
 幸い、学園の先生方も私の意を汲み、若木に適度の肥料を与えつづけて下さっているようだ。学園を訪れ多くの来賓の方々の口から、すれ違う生徒たちが皆軽く頭を下げて通りすぎる礼儀正しさに驚いた、などという言葉を聞くと、創立者冥利に尽きるといっても過言ではない。

 ところで躾とは、広い意味で訓練、練磨にも通じていよう。若い時代の人格形成には、こうした“鍛え”が絶対に欠かせないのだが、今日では老若を問わず、この気風が失われつつあるように思えてならない。



 中国の古典『呂氏春秋』に、人間を評価する際の心得として「八観六験」ということが述べられている。八観の方は省略するとして、ここでは六験について触れてみたい。験とは試験、実験とあるように「ためす」という意味である。

「およそ人を論ずるには・・・之を喜ばせて以て其の守を験し、之を楽しませて以て其の僻を験し、之を怒らせて以て其の節を験し、之を懼れしめて以て其の特を験し、之を哀しませて以て其の人を験し、之を苦しましめて以て其の志を験す」と。

 喜ばせて守を験す ― 守とは守るの義、信念ともいえよう。
有頂天になって信念を忘れていないかどうか。
楽しませて僻を験す ― 僻とはクセである。楽しみにのみ、のめりこんでしまっては落第である。
 怒らせては節を験し ― 節とは程合い。怒りのあまり我を忘れるようでは、ひとかどの人物であるとはいえない。
 懼れしめて特を験し ― 特は特立、独立に通じ、自らの所信を貫いて一身を持することをいう。守にも以て、特の人とは信念の人である。
哀しませて人を験す ― 人とは忍、つまり忍耐をさす。
苦しませて志を験す ― 註釈の必要はあるまい。獅子は我が子を千尋の谷底へ突き落とす。

喜び、楽しみ、怒り、懼れ、哀しみ、苦しみと、およそ人生のあらゆる試練の場に立たせてみて、それに耐えられるかどうかで人間を見よ、人物について評価を下せというのである。
「八観六験、これ賢主の人を論ずる所以なり」と。


 まことに古典の説くところは、含蓄に富んでいる。私も、恩師と共に戦った十年間は、厳愛に包まれてほとんど叱られ通しの日々月々であった。振り返ってみるほどに、懐かしくも尊い青春の幾歳月であった。それだけに、少年期、青年期の“鍛え”の重要さは、五体にたたき込まれている。その大恩の万分の一にも報いようと、私もまた、恩師のもとにひとたび決めた道を、まっしぐらに疾駆していきたいと念願新たな昨今である。

 「大智度論」に、“乞眼の婆羅門”ということが説かれている。
 釈尊の弟子の中でも智慧第一といわれた舎利弗は、過去世に六十劫もの間修行を続けてきた。これを見た魔王が、何とか修行を妨げようと、婆羅門の姿となって舎利弗の前に現れ、眼を乞う。これも仏道修行と、舎利弗が一眼を与えると、手にした婆羅門は「くさい」とツバをかけ、地面に捨てて足で踏みつけてしまう。馬鹿らしくなった舎利弗は、試練に負けて、せっかく積み上げてきた修行の道から退転してしまうのである。


 躾のような身近な問題に始まり、さまざまな面にいたるまで“鍛え”の気風から縁遠くなった現代である。そうした軟風に染まることなく、烈風に敢然と立ち向かう人生でありたいものだ。一生をどのように送ろうと、人生の最終章のバランス・シートは、だれでもない、自分で引き受ける意外にないのだから ―
最終回『主婦と暮し・昭和56年6月号』掲載



* 昭和五十三年三月から昭和五十六年四月二十日(はしがき)まで計四十回連載された「つれづれ随想」を四十日で投稿致しました。
 昭和五十四年問題を理会する主題に併せて、よく読み解く読者は、理会されたと思います。躾なく読解力の無い方は、スルーして結構です。

結論は、
  『軟風に染まることなく、烈風に敢然と立ち向かう人生でありたいものだ。一生をどのように送ろうと、人生の最終章のバランス・シートは、だれでもない、自分で引き受ける意外にないのだから ― 』




 

悪政の見本市

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年12月31日(日)12時16分30秒
  自衛隊の次期主力戦闘機F-35。

既に42機の導入が決まっているが、日本政府は更に数十機を追加でお買い上げ。一機160億円だ。

その内の一部を、「自衛隊の空母」に搭載するため垂直離着陸型F-35Bにするらしいが、そもそも「自衛隊の空母」という概念からして異常なのだ。

しかし最悪だ。まさか数十機も追加注文するとは思わなかった。
注文済み42機の内の一部をF-35Bに変更するのかと思っていたが甘かった。
まさに「聞きしに勝る」とはこの事だ。

日本国民の窮乏など何処吹く風、「武器購入に関しては」まさに金に糸目をつけぬ安倍自公政権だ。

おかげさまでアメリカの軍需産業は大喜び。
日本の貧困層の命を削って、トランプに盛大にゴマをするアベジ公だ。

オスプレイのボーイング社などは、株価が年初比で87%上昇。上場以来最高値を記録したそうだ。(失笑・怒)

F-35やイージス・アショアのロッキード・マーチン社も27%上昇。

その他の軍需産業も軒並み絶好調で、ウハウハ言っているらしい。


アメリカはそもそも軍需産業が国の基幹産業。日本の爆買いのおかげで国家財政も潤うだろう。

北朝鮮は元々貧しくて、ミサイル開発に金を注ぎ込んでいるとは言え、全体の0.6%ほどと言われている。

結局最もワリを食うのが日本と韓国。
特に日本は、そのウチ国家財政が破綻するだろうと言われている。
1000兆円以上も借金がある国がこんな金の使い方をしているのだから、そりゃそうだ。

そもそもイージス・アショアなど、今頃予算化したところで何の役に立つ。
北朝鮮ミサイルは明日飛んで来てもおかしくないのだ。


来年9月の自民党総裁選に向けて、額賀派(55人)と石破氏が協調の動きを見せはじめているらしい。
こういう反安倍の動きは大歓迎だ。

来年はアベとダーハラを追い出して、世界に冠たる、平和国家日本再興の初年度にして行きたいものだ。


 

新感性様

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月31日(日)11時50分22秒
  新感性さん、ご指摘ありがとうございました。あれは消しました。
あの文章を私は、読者は彼らを造反と読み、ヤマトモらと同じと受けとめることはないと思っていましたが、読解力不足だったようです。
御三方に確認したところ、あの筆者からは取材も受けておらず、不適切な表現が目立つとのことでした。すみませんでした。

何か動きが加速しているように見え、私はついスタンドプレイに走りがちです。
『創価学会会員、元創価学会職員 共謀罪を語る』である男性が語っていることが正しいと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=NKocp-QBuFs&feature=youtu.be
『人間 池田大作』最後の「一人ひとりに平和の種、幸福の種、信頼の種、自分らしい人間の種を植えていくことです。それが21世紀の運動だと思うのです。もう程遠くても、それしかない」「道、遠くてもそれしかない」。
やはり「道、遠くてもそれしかない」のだと思います。丁寧にやっていきます。明年もよろしくお願いします。
https://www.youtube.com/watch?v=_F4ue-C8oLM
 

創価学会施設前で警備員をナイフで切りつけた少年を逮捕 警視庁

 投稿者:地獄耳  投稿日:2017年12月31日(日)11時12分53秒
  30日午後5時半ごろ、東京都新宿区信濃町の創価学会関連施設前の路上で、少年(19)が30~40代の男性警備員2人にナイフで切りつけた。2人は右腕や腹部を切られ、全治10日~1カ月の軽傷を負った。警視庁四谷署が傷害の疑いで少年を現行犯逮捕した。

http://www.sankei.com/affairs/news/171231/afr1712310003-n1.html

 

管理人様・皆様に感謝・・・

 投稿者:黄金柱  投稿日:2017年12月31日(日)11時09分0秒
  一年間、有難う御座いました。

お久しぶりです。我が家にとっても大躍進の年でした。
組織から離れ早6年9ヶ月。掲示板に出会い3年。様々な方がこの掲示板を通して学び、感激、感動、衝撃、激怒、奮闘、前進、悪を喝破し!
出来たのではと思っております!

昨日我輩の所にも県トップの無能職員が数年ぶりに言い訳付けて参りました。
通り一遍の話(探り)をして帰りましたが、急速な創価の衰退には理解してはいたが相変わらずそれで如何する考えは無い!
あんた等地方幹部に言ってもしょうがね~が。このままだと一気に創価は崩壊するだろう!
と言ってやったら不思議にも認めていたが、だから頑張るしかない。。??
こんなもんだった。。

結局何しに来たのか・・?

さて我が家も、明年こそは結果の出せる一年にして参ります!(大功徳の前兆あり)また全活動家が創価執行部の異変に気付き(発迹顕本)出来る年に誓願の祈りを定めて邁進して参りますので宜しく御願い申し上げます。

最後に先生・奥様と御子息様と皆様の御健康・長寿・功徳倍増をお祈りし、本年最後のご挨拶とさせて頂きます。有難う御座いました。

 

埼玉の会館うんぬんの「出頭」命令文書らしきものを読んだけど

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年12月31日(日)10時01分31秒
編集済
  埼玉文化会館で査問するから出頭せい!という内容の命令書らしき文面をあるところにて読んだけど

あの文面のどの辺りが「宗教」なのか理解に苦しみました
まるで架空請求詐欺の文面みたいですね

どうして命令書文面が架空請求詐欺文面と「似て」しまってるのでしょう?f^^;
「悪事を自覚してるから」に他ならないでしょうね

文面自体が「他化自在天」をやりたいと主張してますよね
それでわかったのだけど
4人組の本尊は『御本尊様』ではなく「他化自在天」なんじゃないか
それでこれまで掲示板に出た話をみていくと、スッキリ理解しやすかったり

4人組は「他化自在天」を本尊としてるから、4人組に連なる人もまた「他化自在天」を本尊にしてしまうことになるように仕向け、それが「血脈」となって会員にまで浸透してしまったんですね

本尊を「他化自在天」でなく『御本尊様』に戻すのが好転するキッカケになるでしょうか
個人においても地域においても、はたまた「創価学会」においても

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

二十一世紀への対話 訳者あとがき

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年12月31日(日)08時33分29秒
  本書は、アーノルド・トインビー博士と池田大作創価学会会長の間で行なわれた対談の日本語版である。対談は通訳を介して英語で行なわれたので英語版がいわば原著になるが、編集は日本で進められたので、原著よりも邦訳版が先に出版されるということになった。英語版は Choos Life - Dialogues between Arnold J,Toynbee and Daisaku Ikeda という題名で近く発刊の運びである。また、それに続いてフランス語版、ドイツ語版、スペイン語版、中国語版なども刊行の予定と聞く。
二人の対話者については、いまさら紹介するまでもなく、アーノルド・トインビー博士は今世紀最大の歴史家・文明批評家の一人、池田大作氏は日本が生んだ偉大な宗教的・文化的リーダーである。両者の人となり、思想については、ともに数多くの著作を通じて広く知られているので、ここではふれない。また、本書の内容についても、トインビー博士自身が「序文」のなかできわめて適切に要約されており、あえて付言する必要はないと思う。
全体として、本書の作業は、実際に行なわれた対談の録音テーブ再生から始まり、リチャード・L・ゲイジ氏による編集をへて、翻訳(邦訳、英訳)という順序で進められた。原書における池田氏の発言部分の英訳は、編集者であるゲイジ氏が担当された。私たち数名からなるメンバーが担当したのは、トインビー博士の発言部分の邦訳である。この依頼を受けたのは、一九七二年五月、第一回の対談が行なわれた直後、池田氏が帰国されてまもなくのことであった。その後、第二回対談が七三年五月に行なわれ、内容はさらに充実した。
邦訳にあたって、私たちは録音テープを何度も聴き直したが、これはじつに楽しい作業であった。ともに現代を代表する両対話者の声をテープで聴くのは、心躍る思いであった。現代世界の抱えるあらゆる難問題を、縦横無尽に、よどみなく、高度な表現で論じ合い、それぞれに明快な回答を与えていく――。あるときは現代科学の最先端の問題を論じ、あるときは国際政治を論じ、またあるときは人類の歴史を何千年も遡り、あるいはまた仏教哲理の奥義にまで立ち到る――両対話者のそうした語り合う姿が、目に浮かぶのであった。
本書の原題 Choose Life  は、『旧訳聖書』の「私は生と死、および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは生を選ばなければならない。そうすれば、あなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」(申命記第三十章十九節)から引用して、トインビー博士が付けたものである。原題通りに訳せば、『生への選択』などとなったであろうが、検討の結果、日本語版としてはむしろ原題から離れて、『二十一世紀への対話』とした。また、本書中の各項目のタイトルについても、できるだけ原タイトルに近づけるよう
努力したが、ときには内容を汲んで意訳したり、別な表現を用いたものもある。たとえば、Imminent Doom は「終末論に対して」、Demise of the Local State は「地方国家解消論」、Soon No One Will Want to Be King は「王制の将来」などとした。ただし、トインビー博士の発言部分の訳については、当然のことながら、厳正を期したつもりである。むしろ、正確を期すのあまり直訳に過ぎて、日本語としての生硬さが残り、意に満たない個所もある。読者諸氏の御叱正をあおぎたい。
また本書には、訳者註は一切付していない。それによって対話の流れが損われるのを、極力避けたためである。したがって、本文中の( )内の部分も、すべて対話者自身の発言である。
翻訳上苦労したのは、やはりトインビー博士特有のいいまわしと、その基本概念を示す用語の表現の仕方だった。creative minority,rich minority,poor majority などは、それぞれ“創造的少数者”“富裕少数者”“貧困多数者”に、また challenge and response は“挑戦と応戦”にと、おおむね従来の翻訳書の訳語を踏襲したが、たとえば“究極の霊的実在”とも訳せる ultimate Spiritual Reality については、本書では“究極の精神的実在”に統一した。また nationalism は、トインビー概念では“民族主義”よりも“国家主義”に近いと思われるので後者をとったが、単に“ナショナリズム”とした個所もある。
とくに難解をきわめたのは仏教哲学に関するもの、なかんずく生命論のところであった。しかし、これについては池田氏が日本語のまま表現したのを受けて、トインビー博士もそのまま使用していることが多く、その点では、だいぶ手間が省けた。たとえば“十如是”は Junyoze(The Life Factors)、“慈悲”は Jihi(compassion,mercy)などと、原書でもローマ字で表記されている。なお、これらの仏教用語や概念に関しては、創価学会教学部主任部長の桐村泰次氏から、貴重な助言をいただいた。心からお礼申し上げる。
また、次の翻訳書ならびに著書を参考にした。あわせて謝意を表するしだいである。
『歴史の研究』(全二十五巻・経済往来社)『歴史の研究〈サマヴェル縮冊版〉』(長谷川松治訳・社会思想社)『回想録』(山口光朔、増田英夫共訳・同)『一歴史家の宗教観』『試練に立つ文明』(ともに深瀬基寛訳・同)『現代が受けている挑戦』(吉田健一訳・新潮社)『歴史の教訓』(松本重治編訳・岩波書店)『未来を生きる』『トインビーと“あなた”の対話』(ともに若泉敬・毎日新聞社)『トインビーと文明論の争点』(山本新著・勁草書房)『文明の構造と変動』(同・創文社)『トインビーの宗教観』(同編・第三文明社)『トインビー研究』(平田家就著・経済往来社)、その他。
最後に、未熟な私たちに本書の邦訳を委託してくださった両対話者、とくに池田大作氏の寛大な計らいに、深く感謝している。

   昭和五十年一月          『二十一世紀への対話』翻訳委員会
 

【下 完了】二十一世紀への対話 185

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年12月31日(日)08時29分36秒
編集済
  8 至高の人間的価値

【池田】 人間の行動の基準となる価値体系には種々のものがあります。たとえば、すべての価値は個人的な好みの問題であると主張する人がいます。また、社会体制のなかから生まれた価値の基準――財産、社会的地位、娯楽などの価値――を行動の規範とする人もいます。さらに、シュヴァイツァーが“生命への畏敬”と呼んだ概念に基づいて、貪欲の克服、愛、知識欲などを基準にすべきだという人もいます。
私は、このシュヴァイツァーの考えにも相通ずると思いますが、生命の尊厳に至上の価値をおくことを、普遍的な価値基準としなければならないと考えます。つまり、生命は尊厳なものであり、それ以上の価値はありえないという考え方です。宗教的にも、社会的にも、それ以上の価値を他に設定することは、結局、人間性への圧迫をもたらすことになるでしょう。

【トインビー】 おっしゃる通り、生命の尊厳こそ普遍的、かつ絶対的な基準です。ただし、この場合、“生命”という言葉を、宇宙の万物から分離した、あるいは半ば分離した、われわれ人間をその一種とする“生物の生命”というものに限定してはなりません。宇宙全体が、そしてそのなかの万物が、尊厳性を有するという意味で生命的な存在なのです。自然界のなかの、いわゆる無生物や無機物もまた尊厳性を有するわけです。大地にも、空気にも、水にも、岩石にも、泉にも、河川にも、そして海にも、すべて尊厳性があり、もしわれわれ人間がそれらの尊厳性を侵すならば、われわれはすでに自身の尊厳性をも侵していることになります。
私は、このことの真実性は、植物界、動物界、人間界はもちろんのこと、いわゆる無生の自然をも尊重するという古来の伝統をもつ日本人にとっては、きっと明白にわかっていることだと思います。この伝統は神道のなかに制度化されていますし、また、この伝統とともに日本人の強い美的感覚、鋭い審美眼がつちかわれてきたわけです。しかし、ほぼ百年前に西欧から近代科学技術を導入して以来、なかんずく、第二次世界大戦以後、驚異的な技術知識の増加、生産性の爆発的増大をみてからというもの、日本人も無生物的自然の尊厳を侵し始めています。
今日、人間の技術がもたらした自然の汚染に対して、世界的な反発がみられます。現在の世代は、人間が自然の尊厳を侵すことによって、結局は自らの尊厳を侵しているということを知ったわけです。私の知るかぎりでの日本の歴史、日本人の尊厳観――これは日本人の生活の特徴であり、外国人には深い感銘を与えるものですが――から考えてみますと、日本ではすでに環境汚染に対する反発がきわめて強いものになっているか、さもなければ、すぐにも強烈なものとなるのではないかと思われます。

【池田】 御指摘の通り、日本における環境汚染は深刻な社会問題となっております。環境汚染への反発は、その地域の住民の抗議運動として表面化してきていますが、まだ法的には、汚染源に対する十分な取り締まりが実施されておりません。
生物界、無生物界を含めた自然には、目に見えない“生命の糸”が、クモの巣のように張りめぐらされていて、本来は、全体として見事な調和が保たれています。人間といっても、その自然の一部であることには変わりなく、人間がその技術をもって無生の自然を傷つければ、それは人間自身を傷つけることになります。仏法では、このすべてを含んだ自然を――いな、大宇宙それ自体を――“生命”としてとらえているのです。
ところで、カントは「目的の王国においては、すべては価格をもつか、あるいは尊厳をもつかである。価格をもつものは、その代わりに、他の何ものかを等価物としておくことができる。それに反し、すべての価格を越えて尊いもの、したがって、いかなる等価物をも認めえないものは、尊厳をもつものである」と述べています。
生命が尊厳であるということは、いかなる等価物をももたないということです。何ものも、それと代替することはできないのです。いま人々は各人各様の価値基準をもつようになり、価値の多様化が叫ばれています。これは、人間が、たとえば国家主義といった狭い枠の価値観から解放された点では、望ましいことです。しかし、その価値の多様化を認めても、それを包含する共通の基盤となるべき価値観が必要なのではないでしょうか。そうした基盤がなければ、人間相互の信頼と協調は成り立たなくなってしまうからです。こうした包括的な根本の価値観をつきつめていくと、それは結局、人間としての価値であり、生命の尊厳ということになると思うのです。

【トインビー】 私はここでも、あなたの信条と仏教の生命観に共感をもちます。ただいまカントの著作の一節から引かれた、価格と尊厳の区別にも、啓発的なものがあります。価格とは相対的なものであり、価格をもつものはすべて、なんらかの等価物との交換が可能です。そこに貨幣の効用があることはいうまでもありません。
これに対して、尊厳――名誉といってもよいでしょう――は、相対的なものではなく、絶対的なものです。いかに価値あるものでも、尊厳や名誉と代替しうるものはありません。人間は、財産や社会的地位を得るために、いな、たとえ自己の生命を守るためであっても、自身の尊厳と名誉を売るようなことをすれば、他人から軽蔑されるばかりでなく、自らも自身を軽蔑することになります。尊厳や名誉の喪失は、道徳的・肉体的怯儒の代償です。尊厳は、何ものによっても代替できません。ひとたび尊厳を失ったら最後、二度と再び取り返しがつかないのです。
『新約聖書』の次の一節は、そのことを意味するものだと思います。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ伝十六章二十六節、マルコ伝八章三十六~三十七節)
人間は、自己の尊厳を売れば、それを永久に失ってしまいます。また、他の人々の尊厳を重んじなければ、自己の尊厳をも失うことになります。つまり、他人に恥ずべき行為をとらせようとするのは、それが迫害によろうと贈賄によろうと、それ自体不名誉なことなのです。そうした迫害者、ないしは誘惑者は、倫理的に不条理な圧力のもとで、相手が自己の尊厳と名誉を守ることができようとできまいと、それにはかかわりなく、自分自身が尊厳と名誉を失うのです。

【池田】 おっしゃる通りです。結局、どのような価値体系を支持するかによって、その人の、人生に対する考え方が決まってきます。したがって、確立されるべき価値体系のあり方、また、それをどう実現するかが問題です。

【トインビー】 尊厳が、他の価値とは異なり、何ものとも代替できない絶対的価値であるという命題には私も同感です。さらにこの命題から、私は次のように結論したいと思います。われわれ人間は、自らの尊厳を自覚するならば、謙虚になるべきです。たしかに人間性は尊厳ですが、それはまだ不確かなものであり、決して完全ではありません。人間が尊厳であるのは、私心がなく、利他的で、憐み深く、愛情があり、他の生物や宇宙そのものに献身的である場合に限られます。貪欲で侵略的であるかぎり、人間は尊厳ではありえません。われわれは、人間の常として、貪欲で侵略的になりやすいのですが、これは恥ずべきことです。こうしたわれわれの倫理的行為における貧困は、技術上の業績の華々しさに比べるとき、一層屈辱的となります。

【池田】 人間生命は、他にかけがえがないという意味において、それ自体、尊厳です。しかし、いま博士がおっしゃったように、その生命を真実に、そして事実上、尊厳なものとするためには、人間一人一人の努力が必要です。自らの尊厳に対しては、自身が責任を負っているというべきでありましょう。
生命が他にかけがえのない尊厳なものであるという意識は、人間が高度な意識能力をもつ存在となった当初から、すでにあったと思うのです。ところが、現実のうえでは常に互いに憎しみ合い、傷つけ合う、醜い生命の葛藤の歴史を歩んできました。詮ずるところ、自己の生命の働きを、人々を傷つけるような醜いものではなく、すべての他の生命を慈しむ、美しいものにすることによって、事実のうえで人間生命を尊厳ならしめる以外にないと考えます。

【トインビー】 これまで、人間の倫理的行為の水準は低いまま、少しも向上を示しておりません。
しかし、技術的業績の水準は急カーブで上昇し、現代におけるその速度は、記録に残っているどの時代よりも急速です。そして、その結果、われわれの技術と倫理の格差は、かつてなかったほど大きく開いています。これは屈辱的であるだけでなく、致命的ともいえるほど危険なことです。
こうした現状に対して、われわれは恥ずべきであり、かつ、この恥辱感を忘れずに、尊厳性――それがなければわれわれの生命は無価値であり、人生もまた幸福にはなりえないその尊厳性――を確立するよう、一層努力しなければなりません。人間が熟達しているのは、たしかに技術の分野ですが、そこでは人間の尊厳は確立できません。人間の尊厳の確立がなされるのは、倫理の分野以外にありません。そして、こうした倫理上の目標達成は、われわれの行動が、どれだけ貪欲性や侵略性に支配されず、どれだけ慈悲と愛を基調としているかによって評価されるのです。
 

「十界互具」とは実に「十界同時の成仏」のこと!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年12月31日(日)06時54分6秒
編集済
   おはようございます。今年最後の投稿となるのでしょうか。皆さん、ありがとうございました。

 “貪り”は「餓鬼」、“瞋り”は内に向かえば「地獄」、外に向かえば「修羅」。だが、「畜生」の概念が意外とつかみずらいものです。“愚痴”とか“癡か”とはいうのも、鬱憤(うっぷん)やるせない状況としては思い馳せられるものの、心情を現わす言葉としてはいまひとつ不鮮明です。そもそもがどういう風貌のものなのでしょうか。

 「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ、ひだるし(※空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじ ねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ、此れはこまごまとかき候事はかくとしどし・月月・日日に申して候へどもなごへの尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をくびやう(※臆病)物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけ そらをきりたるやうに候ぞ」(聖人御難事1190~1191㌻)

 「よくふかく」は餓鬼、「うたがい多き」は疑い、「物をぼえず」は“慢心”からくる修羅と言っていいのでしょうか。それからすると、「をくびょう」は“保身”から起る畜生だといえます。この四つに、「瞋り」を足せば、思惑「五鈍使」の貪、瞋、癡、慢、疑の揃い踏みとなります。

 「をくびやう」も、「物をぼへず」も、「よくふかく」も、「うたがい多き」も、「瞋り」も、奥底で求めているのはその“充足”の安心、安楽といえます。そこに“渇き”を癒すものがあるからです。「満足」すれば消え失せます。問題は、その“調和”の状態も安心、安楽に極めて似通っているということです。“調和”は、充足、満足と同じ状況です。ただ抑圧するだけでは、とどまりもしませんし、無くなりそうにもありません。

 「(※具足の)具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位(※その位)に余界あり満足の義なり、此の経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一に皆妙の一字を備えて三十二相・八十種好の仏陀なり、十界に皆己界の仏界を顕す」(開目抄209㌻)「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり 此れを思い遣(や)る時んば満足なり 満足とは成仏と云う事なり」(御義口伝720㌻)。

 「十界本有」とか「十界互具」とは、実に「十界同時の成仏」のことです。十界各別がそのままで調和の当体となって、同時に「成仏」することを意味します。頭、首、胸、手、足の「五体」がそのままの姿で同時に「成仏」するということと同じです。十界各別が何か特別な存在になることではありません。十界各別は、そのままでこそ、その機能を発揮することができる尊い存在なのです。

 ニコチンなどの“中毒症状”は、良くも悪くも、ある種の“調和”の状態だといえます。それで、身体は安定を保っています。だから、そこからなかなか脱しきれません。「喜び」があったからでしょう。“調和”の“渇き”を癒す“慈愛”が同時に必要だということです。“慈愛”が“渇き”を癒します――これが秘策と言えば、秘策でしょうか。そこに“安心”“安楽”があります。“慈愛”を感じます。そして、同時に“渇き”をもいやし、満足もする、ということでしょうか。

 「喜び」ののち、“安心”“安楽”を得る“貪り”も、「生命」の実感としては、“貪り”の“渇き”を充足させるものと同種のものであるといえるのでしょう。「煩悩即菩提」の原理と同じです。いまさらのように、仏法は深い!と感じます。
 【2017・12・31/7:37 見惑→思惑に訂正】


 

新宿

 投稿者:ロマン  投稿日:2017年12月31日(日)00時37分22秒
  ニュース見られた方いらっしゃいますか?  

さあ、年末まで丑寅勤行ですよーー

 投稿者:原田奴隷学会  投稿日:2017年12月31日(日)00時35分43秒
  ダーハラ含む査問祭りする連中は、勤行も唱題もせずに愛人宅に入り浸り優雅に豪勢な年越しをされています。
それでは、我々下っ端会員は、深々と深い祈りを続けましょう!
祈りと信ずる心が有る限り、我々は大きく境涯を開き、新時代が到来します。怠け者は笑い飛ばしていきましょう!!
 

感謝!(・∀・)

 投稿者:フロム関西  投稿日:2017年12月31日(日)00時24分15秒
編集済
  今年も一年お世話になりました!

個人的に功徳を沢山いただきました!

そして、自分の周りに目覚めた人

増えましたd(≧∀≦)ナイス☆

来年は鮭(サーモンw)がキーワードかな?
 

創価学会施設侵入の少年暴れ、警備員2人けが

 投稿者:総括の場  投稿日:2017年12月31日(日)00時16分42秒
  30日午後5時半頃、東京都新宿区信濃町の創価学会の関連施設前の路上で、
刃物を持った少年(19)が、30~40歳代の男性警備員2人ともみ合いになり、
腹や腕に軽傷を負わせた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20171230-OYT1T50072.html

 

「造反の輪」?

 投稿者:新感性  投稿日:2017年12月30日(土)23時56分38秒
  【ポスト池田探る創価学会(2)】造反の輪、じわり広がる  投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月30日(土)21時28分57秒

異なるグループとはいえ前者のグループと同列に報じられたんじゃ後者の3人を中心とした
グループも迷惑なんじゃない?
リンクも同様です。

それとも所詮はその程度の「造反の輪」なのですか?

 

ネヴァー・ギヴ・アップ

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月30日(土)22時01分38秒
  元職員のブログが更新されています。
『「9・23九州・福岡座談会」報告 ④ 完』
http://harunokoime20150831.blog.fc2.com/blog-entry-158.html
>先生は、そうした状況にならないようにするために、『対話の世紀』だと言われてきたはずなんです。政治もその方向を向くべきだと。そういう悲惨な状況が起こらないように公明党をつくり“いかに『対話』を粘り強くやっていくか”っていうところを大事にされてきたのだと思うんです。そこに信仰の根幹があると思うんです。<

全くその通り!

“私の眠りを妨げる 悪魔と戦っていた 海に叫んでも 見捨てられたの”
“でも諦めない そう 諦めないから”
“そして あなたには負けない 地面に倒れるまで何度でも起き上がるわ”
“そう 諦めない 諦めないから そして あなたには負けない”
“地面に倒れるまで何度でも起き上がるわ そう 諦めない 諦めない”
“自分で道を探すの 家に帰る道を”
『ネヴァー・ギヴ・アップ』シーア
https://www.youtube.com/watch?v=PxjaUmaD2VQ

『実名告発 創価学会』(野口裕介・滝川 清志・小平 秀一) アマゾン「ベストセラー」で絶賛発売中!!!
http://amzn.to/2fxRlFX
 

管理人様

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月30日(土)21時28分57秒
編集済
  お手数をかけてすみません。削除をお願いします。  

ようこそお起こしくださいました(^^)

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年12月30日(土)20時49分9秒
編集済
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/77984

苦しいなかがんばってる様子がよく伝わってきます

一閲覧者さんようこそお越しくださいました(^^)

自分の「足」で一歩一歩すすんでゆく
それが大切ですよね(^^)
よくわかります

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

宿坊の皆様一年間ありがとうございましたm(._.)m

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年12月30日(土)20時07分5秒
  栃木の久保田です。ヽ(^○^)ノ

今年も明日で終わりですね皆様一年間お疲れ様でした。m(._.)m

原田偽会長の大号令による査問と処分が話題になってますが、執行部の面々や手下どもは何様のつもりで居るのだヽ(^○^)ノバカ丸出しだな┐(-。-;)┌

勉強は出来るんだろうけど脳ミソ大丈夫かい?

鉛でも入ってるんじゃない?

まぁ腸も完全に腐りきってるんだろうからヽ(^○^)ノ

糞でパンパンの体を良く保っていられるよ!

谷川強姦魔はバイ菌や毒素を年中放出してるわけか!

腐りきった糞が顔や眼から滲み出てきてるから鏡を良く見ましょうねヽ(^○^)ノ

善良な人達、真面目な会員さんに査問だなんてこけおどしは今すぐやめよ(# ゜Д゜)

お前ら元々臆病なんだからヽ(^○^)ノ

これ以上やんじゃねーぞ(# ゜Д゜)クソども


 

(無題)

 投稿者:一閲覧者メール  投稿日:2017年12月30日(土)19時30分13秒
編集済
  早朝1時過ぎ、2時出の仕事に出る前に寿量品を読む時に如来というゆっくりした心の読みをもって読経していました。
自転車での1時間余りの通勤の中で、トンネルで寝ている人を見つけ、公衆トイレではリュックを忘れた人が居られて交番に届けて、放棄の為名前だけを告げ、(住処を書けば断っても必ず落とされた方に住処の連絡が知らされます。届けてあげただけでなく、過去に200万円の通帳やら30万円の仕事の道具を届けていただいたこともあります。)職場には遅刻しました。
職場では風当たりが悪く強迫観念が頭を支配しました。なので、仕事の延期は断わるつもりでいます。

忙しい為に生活が維持出来ているのみならず、パートタイマーでの2万5千円という手当てのおかげで、通常は6時前から午前中10時半までの仕事で14万円の収入です。
声楽について練習する時間だけはたっぷりあります。

今月の収入が延びたのは、母がいつも妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えていて、私自身、妙の一字を四六時中長く伸ばして引き題目を唱えながら仕事(息のみ)をしていた功徳だと思っています。

日達上人が達筆であったことに思いを馳せ、日有師化儀抄 (日達上人略解)をほんの少しだけ読んだ時に、信仰にはいついつまでにやめるとか際限をつけるのではなく、その時になって続けられなれば仕方ないということを考えた上で、あくまでも形式的にですが、昔のようにお題目を3回、4回、5回、7回と、唱えながら自転車を漕いでいます。

妙の一時の引き題目は、1回1回が勤行のつもりでいます。
声楽上、なんという字からの喉の開きが重要で妙とは開く義であり、妙の一字からの功徳の広がりが南無妙法蓮華経だと思っていますし、回数は例えば4回なら四菩薩や四波羅蜜だと思って数えてもいます。腹式呼吸など全く必要ありません。

如何に王法が賞罰を元としていようとも、26日の新聞にもあるように、生老病死の四つの苦悩をもって、我らの一身の塔を荘厳するんだという意気込みで、毎日みすぼらしい格好のままでも顔を上げて大勢の人混みの中を漕いでいます。
また福運とは女性に対してのもので、自殺願望や自分の健康を大切にしない飲食などを控えることを差しているように思います。
男性に対しては女性への感謝が必要なのではないかと座間の殺戮事件などから思うようになりました。

近頃はどのような劇の場面でも喜び悲しみなど到るところで落涙するという心の昇華を得ました。
うつ伏せになって嗚咽することすらあります。
現代社会では、縛られるだけではなく、自分というものを大切にしながら、戦争などの親の青春時代の無念などを思い、自分自身を昇華させていかなければならないというのが実感です。
私は今それに掛けています。
如何に諸天が動かなくとも、また、燈を灯す人こそ如来であるという自覚をもって釈尊と法華経と衆生の数限りない数の燈の如来という思いを懐いてもいます。
 

39.「弓矢」の絆

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年12月30日(土)19時03分38秒
  「弓矢」の絆

 春も四月という音律を聞くと、なんとなく暖かくのどかな感じをうけるものである。花びらを肩に受け、和服のお母さまに手を引かれながら、入学式へ歩みゆく小学生の姿は、なんともいえぬ絵のような抒情詩を思わせるものがある。
親のいない子供のことを思うと、あまりにも胸が痛むが・・・。
私も最近は、多忙であるが、そのあいまをぬって、できる限り、私の関係している小学校や大学に行くようにしている。
私はとくに中学生、高校生には、苦手な科目を避けないことが勉強である、また暴力だけは、勉強の、学問の世界であってはならないと忠告している。

二十歳になる浪人中の若者が、金属バットを振るって両親を殴殺 - この金属バット殺人事件は、日本全国の父母たちの心胆を寒からしめたといっても、けっして過言ではないであろう。
さる三月に開かれた初公判にも、定員の十倍近い傍聴人が長蛇の列をつくり、事件に対する関心が並々ならぬことを物語っていた。とくに最近は、教育危機が深刻化しているだけに、他人事として片づけておけない切迫感を抱いた親や教師も多かったにちがいない。

家庭内のトラブルによるこの種の事件は、外からはうかがい知れぬ入り組んだ事情があるもので、私も軽々には論じたくはない。
しかし、一連の経過を見ていると、一つのことだけは、まず間違いないといってよいと思う。それは、両親の間の亀裂が、そのまま若者の心のなかに、深い傷跡を残していったということである。
昨今のように、人の心の荒んでいる時代には、夫婦の絆こそ、子らの心を守る、最後にして最大の防波堤なのだ、との感を改めて深くしたものの一人である。


夫婦の絆といえば、ある婦人から、日蓮大聖人の御遺文集の一節の拝し方について問われたことがある。
というのは「女人は水のごとし・うつわ(器)物にしたがう・女人は矢のごとし・弓につが(番)はさる・女人はふね(舟)のごとし・かぢ(楫)のまかするによるべし、しかるに女人はをとこ(夫)・ぬす(盗)人なれば女人ぬす人となる・・・」
とあるけれど、夫婦といっても独立した人格、夫というものは妻にとって、どうしてこのような決定的な存在になるのでしょうか - とその婦人は言うのである。
「いや」 - 私は答えた - 「それは、夫婦の本当の意味の愛情というか、深い信頼感をおっしゃているのだと思う。大聖人はほかのところで『や(箭)のはしる事は弓のちから・くものゆくことはうり(竜)のちから、をとこ(夫)のしわざはめ(婦)のちからなり』と妻の果たす絶大な役割を教えられている。互いに弓のごとく、矢のごとく、それは夫婦の契りというものの、理想的なあり方を指摘していおられるのではないか」と。

 ふつう“鴛鴦(えんおう)の契り”とか“比翼の鳥、連理の枝”に譬えられる夫婦の絆の深さというものを考えるとき、私はいつも『戦争と平和』に描かれた一人の女性・ナターシャを思い起こさずにはいられない。

 生気に満ちて魅力的なこの貴族令嬢は、結婚後、華やかな社交界とはきっぱり縁を切り、ロシアの大地の匂いのする妻、母へと変貌していくのである。以前のナターシャとは別人のようであるが、彼女の日々は、どっしりとした自信に溢れている。夫・ピエールとの間の深く固い信頼の絆で支えられているからだ。
 ピエールは、ツァーリ(皇帝)の圧政に反発して、ある秘密結社に加わって運動している。そんな彼が、あるとき書斎で、友人を相手に活発な政論を戦わせている最中に、ナターシャがはいってくる- 。
「話の最中にはいって来たナターシャは、嬉しそうに夫を眺めていた。彼女は夫の言っていることを喜んでいたのではなかった。そんなことは彼女にはなんの興味もなかった。そんなことはみな、きわめて単純なことで、ずっと前から知っていることのように思われていたからである。(そんなふうに思われていたのは、彼女はそれが出てくる源 - ピエールの心をすっかり知っていたからである。)彼女はただ、彼のいきいきした、感激にみちた様子を見るのが嬉しかったのである」


 文豪トルストイの筆致は、さすがに見事な冴えを見せている。
 ナターシャの自信は、夫とあることについて同じ考えを持っているといった浅い次元のことではなく、もっともっと奥深い次元、つまり「それが出てくる源 - ピエールの心」を知り、信じているところから出てくるものである。この次元の労作業こそ、じつは人生における最重要の課題であることを、彼女は生きて知ったのだ。
 古今の文学を通じて、夫婦の絆というものを、これほど感銘深く見事に描き出した作品はまれではないかと、私は思っている。

 金属バット殺人事件に限らず、激増する中・高校生の校内暴力、家庭内暴力などを取り上げてみても、夫婦を軸とする家庭のあり方が、現代ほど問われる時代も少なくないであろう。
 もとより家庭内だけの問題として扱うにはあまりに裾野が広すぎるが、少なくともわが家だけは、砂漠のオアシス、荒野の安息所のように安心して憩うことができるよう、磐石に築き上げておきたいものである。
『主婦と暮し・昭和56年5月号』掲載
 

(無題)

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年12月30日(土)17時36分56秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/77979

コメント確認しました
僕のも消された理由はなんとなくわかるから大丈夫ですよ

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

明年も・・・

 投稿者:風林火山  投稿日:2017年12月30日(土)17時35分13秒
  「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、
是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。」
 

皆さんへ

 投稿者:うーこ  投稿日:2017年12月30日(土)17時32分10秒
  今年も一年大変お世話になりました。皆様の登校を読む事が楽しく、又色んな勉強になった年でした。年末年始無事故で過ごしてくださいね(o⌒∇⌒o)  

twitter投稿より

 投稿者:シナモンゴー  投稿日:2017年12月30日(土)16時02分39秒
編集済
  このような投稿を拝見しました。
まったくだ!ナンバー変えなきゃ!
【以下引用】
先輩が言ってました。
424円や1,118円など語呂を合わせた財務を「ふざけた財務」と言うなら、11-18や3-16、8-24などのナンバーの車は「ふざけた車」と言われ、処分対象にされなければならないのではないか?
 

南無公明党佛の初夢でつ

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年12月30日(土)15時03分10秒
  Kデー カウントダウン!(コリアンペニンシュラ=韓半島のK)。北朝鮮核施設、核ミサイルサイトへの先制攻撃実施日がKデー、それへのカウントダウンにもう入っているのだ。一番槍を務めるのは日本の開発した長距離巡航ミサイル、コードネームSOKA1。弾頭には、なんと日本の廃棄プルトニウムから抽出されたプルトニウム型原爆。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。ピョンヤンの秘密司令部をピンポイントで撃破するのだ!  

無理が通れば、道理が引っ込む

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年12月30日(土)12時46分21秒
  籠池夫妻が逮捕されたのは7月31日。もう5カ月が経つが、このまま拘置所で年越しするのだろうか。

聞くところによると大阪拘置所には新館と旧館があり、夫人が居る旧館の方はエアコンも無いそうだ。

私も真夏にエアコンが壊れてエラい目にあった事があるが、気温35度ぐらいになると、シャツを水で濡らして扇風機にかじりついていなければ、とても耐えられないレベルだった。しかもコンクリート造りの建物は、日没後の方が更に温度が高くなる。
そして冬は極寒。これはもう拷問だ。

しかも籠池夫妻の罪は詐欺罪だ。いったいどういう屁理屈をつければ詐欺で5カ月も拘留出来るのだ。
普通は逃亡や証拠隠滅の恐れが無ければ、1日で帰って来れるだろう。

こういう日本のやり方は、国際的にも再三批判されている。
先進国では日本だけ。「中世レベル」と揶揄されていて、国連拷問禁止委員会からも繰り返し批判されているが変えようとしない。トランプの言うことならなんでも聞くクセにな。

こういう事を他人事と捉え、自分は悪い事をしないから関係ないと考えるのは大間違いだ。

共謀罪などその為に作った様なものだ。
要するに政府に逆らう者を黙らせ、9条を変えたいのだ。ダーハラ創価学会の査問と同じだ。

悪い事をしなくても普通に捕まる。
戦争に反対し平和を主張しただけでも捕まるし、最悪命まで奪われるのだ。それが「治安維持法」が天下の悪法と言われた所以だ。真の創価学会員なら転向しない限り全員捕まるだろう。

牧口先生の死因は老衰と栄養失調と言われているが、牢獄の劣悪な環境がそれに拍車をかけたのは疑いないだろう。長期拘留など、拷問の一種以外の何物でもない。


さて、現在の「国税庁長官」は、あの国会で嘘をつきまくった佐川宣寿氏。
先頃の会計検査院報告で、それらが嘘だった事が証明されたが、放ったらかしだ。
後任の太田理財局長は例の「金の話はしているが、価格の話はしていない」(笑)という幼稚園児並の言い訳を押し通した。漫才のネタとしては最高だ。

「最高裁長官」は大谷直人氏。
新任長官を、現職長官の意見を聞いて首相が了承するという慣例があるので、この人物も安倍首相寄りは間違いなし。司法も曲げられる様になったらこの国は終わりだ。

「警察庁長官」は「スシ友」山口氏の逮捕を、意味不明に中止させた中村格氏が予定されている。
現代の「治安維持法」と言われる「共謀罪」の運用をこの人物が統括する事になるのだが、冗談ではない。キチ○イに刃物という諺を知らないのか。警察が特高警察に変わってしまう。

大手マスコミが相撲ではなく、モリカケはじめスパコンやリニアや空母を深掘りすれば、安倍政権などすぐに倒れると思うが、安倍自公政権は放送法4条をインチキ解釈して、それを邪魔している。

こういう時代、国民は情報を与えられるのを待つのではなく、自分から取りに行かなければ、いつまで経っても真実は見えて来ない。



 

砂漠でサーモン・フィッシング

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月30日(土)12時14分6秒
  査問て平日の昼間にやるのですね。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/77927
http://6027.teacup.com/situation/bbs/77928
http://6027.teacup.com/situation/bbs/77926
「すみません。創価学会で査問があるので有給で会社休ませて下さい」
「はあ???」
こんなやり取りが世間ではある訳ですね。?さんが呼び掛けて下さっているのでマスコミや人がたくさん来そうです。さすが信濃町! 自らビジネスチャンスを作りました。会館前で「査問グッズ」でも売り出せば儲かるかも。鮭の絵かなんか書いたりして。斜めの。Tシャツは寒いのでパーカーとか? サントリーやジョージアのように?
『砂漠でサーモン・フィッシング』という良い映画がありました。内容は全然違いますが、『東京砂漠』ならぬ「信濃町砂漠」では似たようなものか?
http://6027.teacup.com/situation/bbs/77914
平日の昼間……そこまで暇じゃないので、私なら行かない。少なくとも奴らよりはもっと価値創造できる。そのために時間を使う。我々は砂漠の緑化運動をしている。

“手を伸ばそうとしてあがいてた。”
“でも私が声をあげようとしても、誰にも聞こえていないような気がした。”
“ここにずっといたかったけど、何かが違っている気がした。”
“だから私は飛び立つこと願ったの。”
“私は羽根を広げて、飛び方を覚えるの。”
“空にたどりつけるまで、何だってするわ。”
“願い事もするし、挑戦するし、変化を起こすわ。”
“そして飛び立つの。暗闇から光へと。”
“でも私は自分が愛した人たちを忘れない。”
“リスクをおかして、挑戦するし、変化を起こすわ。
“そして飛び立つの。”
『ブレイクアウェイ』ケリー・クラークソン
https://www.youtube.com/watch?v=c-3vPxKdj6o
 

二十一世紀への対話 184

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年12月30日(土)11時45分39秒
  【池田】 そうした女性本来の、生命の尊厳を守り、育み、大事にしていくという特質は、それ自体、人類にとり、人間社会にとってきわめて普遍的な重要性をもっているといえます。
女性が狭い個人的愛から、そうした、世界へ開かれた普遍的な愛に根ざして進んでいけば、私は、それが、地道ながらもきわめて大きな、反戦平和への潮流になっていくに違いないと思います。そして、女性がこの本来的な自らの使命に生きるところに、真実の女性解放があると信ずるのです。

【トインビー】 ええ、まさにおっしゃる通りです。女性の独占欲は、女性の視野を家族への関心に限る傾向がありますが、これに反して女性の愛は、本来普遍性があるものです。なぜなら、普遍性こそが愛の本質をなすものだからです。愛とは、自己を捧げること、つまり、自己のために奪うことの逆を意味します。愛は、宇宙大とはいかないまでも、独占欲(貪欲)と同じく、限りない広がりをもっています。
かつて中国の哲学史において、人間の愛の正しい配分のあり方について、論争が繰り広げられました。孔子の立場に論拠をおく儒家の哲学者孟子は、愛の差別的配分を主張しました。孟子によれば、自分の家族に対する愛は、それ以外の人々への愛に優先させなければなりません。家族以外はすべて他人であり、外部の人間とみなされたわけです。この孟子説に反駁したのは墨子でした。彼は、人間の愛はあらゆる人々に平等に及ぼされるべきであるという立場をとりました。
こうした愛の問題は、人間生活に常につきまとう基本的な倫理的・社会的問題の一つです。しかもそれは、今日、火急の課題となっています。いまや人類が単一の家族として、ともに生きる道を体得しなければならないことは、きわめて明白です。距離が抹殺され、原子力が兵器に利用されている今日の状況下にあって、人類が集団自殺を免れる道は、それ以外になくなっているからです。まして、現代社会の動向は、技術上の諸成果が要求している情勢とは、まったく逆の方向へと人類を引き込んでおり、そのため、この愛の問題は差し迫った課題となっているのです。
すでにナショナリズムはますます偏狭さを帯び、人類はより小さな単位へと分化して、それぞれ地方国家としての主権を主張しています。また、それらの地方国家のなかでは、家族構成の規模がますます縮小されつつあります。かつて伝統的な人間の家族にあっては、一つ屋根の下に両親と子供たち、それに祖父母たちが一緒に住んでいたものです。ところが、都市化の進行につれて、家族構成は夫婦とその子供たちだけへと縮小する傾向にあります。家庭にはもはや祖父母の居場所はなく、子供は成人するにつれて親に対する義務を負わなくなってきています。
こうみてくると、家族関係に本来そなわる義務を説いた儒家の主張が、今日ほど適切となった時代は、いまだかつてないのです。同時に、普遍的な愛を義務づけようとした墨子の説は、すでに技術面での統合をみながら心情的な統合がなされていない現代世界にあって、さらに当を得た主張といえます。

【池田】 儒家の愛は、父子・君臣の関係を中心として、親疎の別を立て分け、近きから遠きへ及ぼしていくものとしています。これに対して墨子の兼愛説は、このような差別を認めず、自分を愛するように人を愛し、自分の父を愛するように人の父を愛し、自分の国を愛するように人の国を愛さなければならない、としています。
その立場の違いは別として、そこで説かれる仁愛が今日の社会において必要とされることは、博士のおっしゃる通りです。現在、個人的にみれば、最も身近な親・兄弟を愛せない人々はおろか、自分の子供への愛さえ失っている人々もいます。この風潮はまた、自分自身の生命を軽んじ、自殺や、あるいは自殺的暴挙に走る傾向とも、無関係とはいえないと思います。「自分を愛するように人を愛する」といっても、その自分への愛すらも失っている姿が、現在、しばしば見受けられます。私は、この愛を生み出すものは、自己の生命、宇宙の生命への深い理解以外にはないように思います。自己の生命への深い理解は、他の生命存在への理解と尊重を生み出します。
さらに、国際的見地から論ずれば、エゴと偏狭と、それに基づく無理解とが渦巻く現状にあって、墨子の説く普遍的愛の精神が最も当を得た主張であるとの博士の説には、まったく賛成です。利己を去って愛他に立てと主張する墨子の兼愛の説は、侵略戦争反対の論理を導きます。すなわち、他人を侵害して自利を図る窃盗行為が非難されるのと同様、強大国が弱小国を侵害し、大量の殺人を犯し、経済的損害を与える行為も非難されるべきだと説きます。この論理は、非常に近代的であると思います。ただ、墨子の説く兼愛は、全中国的規模のものでしたが、現在、これは、全世界的なものとして理解すべきでしょう。
【トインビー】 孔子は、現世代の人々と同じく、戦闘的なナショナリズムの横行する時代に生きた人です。一般には、戦国時代は孔子の死後に始まったとされていますが、じつはすでに彼の存命中に始まっていました。孔子が“家”と“国家”を類比させ、そこから、臣民は統治者に対して、子供が父親に向けるのと同じ献身の義務を感じ、実践すべきであると説いたのは、意義深いことです。中国が政治的に統一され、儒教が帝政中国の正統哲学となって以来、統治者をもって大規模な家、すなわち国家の長とする儒家の思想が、皇帝に適用されました。帝政時代の儒者の説くところによれば、皇帝は“天下万物”を含む一大家族の長であり、したがって、元来、家長に向けられていた愛と忠誠は、敷衍して皇帝にも向けられるべきであるとされたのです。
人類の歴史が進んで、現代に入ってからは、この“天下万物”はさらに地球全域と全人類を包括するものへと拡大しています。それは、かつて一八三九年までの二十一世紀間、中国の統治権下、ないし宗主権下、または文化圏内にあった――全世界の人口にまでは至らないにしろ――巨大な数の人々の範囲に、もはや限定されるものではなくなっています。
愛の対象が段階的に、つまり同心円にたとえれば、その中心たる自分から遠ざかるにつれて、漸減的に配分されるべきであるとする儒家の主張は、無差別な普遍的愛を義務づける墨子の説に比べれば、明らかに人間の本性になじみやすいものです。赤の他人を愛するよりも知己を愛することのほうが容易なのは、人間誰しもが経験的に知っていることだからです。ところが、現代における絶対の要請とは、まさにこの見知らぬ他人を愛し、その普遍的な愛を実際の行動に移すという、困難な倫理的要求を満たすことなのです。儒教の教えは、同心円の最も内側の円に比べて最も外側の円では、愛の作用が弱まるのは当然としながらも、なお愛の及ぶ領域については普遍的たるべきことを説いています。したがって、儒教も、原則的には墨子の立場をとっているといえましょう。
もう一つ意義深いことは、従来、中国社会では、絶対的な墨子思想よりも、この儒教の絡んだ相対的な墨子思想のほうが支配的であったわけですが、にもかかわらず、今日の中国が伝道的イデオロギー――すなわち、単一の同胞共産社会への人類統合をめざす共産主義思想――を取り入れたということです。共産主義は、それよりも古い伝道的宗教、すなわちキリスト教の異端的改訂版であり、キリスト教こそマルクス主義のユニバーサリズム(全人類解放説)の源泉をなすものです。
共産主義出現以前の三つの主要な伝道的宗教――仏教、キリスト教、イスラム教――の創始者たちは、いずれも全人類救済の道を説くために家族と縁を切り、生まれ故郷を離れています。この点、聖フランチェスコもイエスと同じ道を歩んでいます。彼は、イエスの例にならって修行する自由を得るため、父親と絶縁しなければなりませんでした。

【池田】 全人類への普遍的な愛は、偏狭な愛に縛られていては得られません。そして、普遍的な愛に立脚しない偏狭な愛は、それ自体としても、真の愛ではありえないでしょう。したがって、普遍的な愛を体得するためには、肉親への偏狭な愛の絆から一度離れる必要がある、そして、そこに得たものこそが、肉親などに対しても真の愛となることができるのだと思います。

【トインビー】 仏教が中国の一宗教として取り入れられた後、新儒教学派の哲学者たちは、仏陀が家族を捨てたことを儒教的倫理観のうえから痛烈に非難しました。私は、普遍的な愛だけが人類の自己救済への唯一の希望となっている、現代の人間事象の危機にあっては、“天下万物”への義務と親密な家族関係への義務を同じとみる儒家の立場は妥当なものであり、現代人はこの意味での儒教的な立場をとるべきだと思います。そしてさらに、こうした儒教の愛に対する自由解釈的な立場から一歩進んで、墨子の立場にまで至るべきだと思うのです。つまり、現代人は、段階や制限を設けない普遍的な愛への到達をめざすべきです。この墨子の道は孔子の道よりもたしかに実践しがたいものです。しかし、私には、孔子よりも墨子のほうが、現代人にとって最も適切な道を説いているように思われるのです。
旧世界の西端部では、ギリシア哲学におけるストア学派の創始者ゼノンが、人間は宇宙の一市民であることを説きました。ゼノンは、自説がすでに東アジアの先哲によって唱えられていたことは知る由もありませんでしたが、しかし、彼は事実上の墨子主義者だったわけです。

【池田】 ええ、私も、儒家の愛よりも墨子の愛のほうが、とくに現代人にとっては必要であると考えます。そこで、仏教と墨子の教えとの違いですが、私は、仏教の偉大さは、そうした普遍的な愛を起こす根源を、万人にそなわっている生命の発動に求め、この生命発動の道を説き示したことにあると思うのです。
いいかえると、普遍的愛の重要性を説いたのが墨子であったのに対し、いかにすれば万人がその普遍的愛を自らの内に起こすことができるかを示したのが仏教です。そして、釈迦が時間・空間のへだたりを越えて、多くの人々から崇められてきたゆえんは、釈迦自身、そうした普遍的愛を体現化し、そうした一生を生きたがゆえに、その人格の光がいまなお人々の心を照らし続けているのだと思います。
こうした自らの実践・体現化によって示していくところに、たんに理論を教える哲学と異なる、宗教者の偉大さ、強さがあるわけです。それは、博士があげられた、キリストやマホメット、また聖フランチェスコなどの場合にも、等しくいえることだと思います。
 

貯金箱

 投稿者:体長1.3mの巨大猫  投稿日:2017年12月30日(土)11時38分6秒
編集済
  大般涅槃經卷第四 四相品第七之一に云く

我涅槃後無量百歳。四道聖人悉復涅槃。
正法滅後於像法中。當有比丘。
似像持律少讀誦經。貪嗜飲食長養其身。
身所被服麁陋醜惡。形容憔悴無有威德。
放畜牛羊擔負薪草。頭鬚髮爪悉皆長利。
雖服袈裟猶如獵師。細視徐行如猫伺鼠。
常唱是言我得羅漢。多諸病苦眠臥糞穢。
外現賢善内懷貪嫉。如受瘂法婆羅門等。
實非沙門現沙門像。邪見熾盛誹謗正法。



我れ涅槃の後無量百歳、四道の聖人悉く復た涅槃せん。
正法滅して後像法の中に於て、当に比丘有るべし。
持律に似像して少く経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、
身に被服する所麁陋醜悪、形容憔悴威德有ること無し。
牛羊を放畜し薪草を担負し、頭鬚髮爪悉く皆長利なり。
袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し、
常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと。諸の病苦多くして糞穢に眠臥す。
外には賢善を現し内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。
実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん。



池田先生の「立正安国論講義」より

この経文は、まったく現代の宗教界の実態を浮き彫りにしてあまりあるものがある。
今日において、最も悪らつなものは、宗教界を装う宗教事業家、すなわち宗教屋である。
日本全国の寺々には、お布施をもらうための寺であり、
日本全国の宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的である。

自分は生仏であるとか、生神様であるとか、上行菩薩であるとか、無辺行菩薩であるとか、
ひどいのになると日蓮再来とかいいだして人々をまよわせ、
また姿は、あたかも宗教家であるかのような格好をして教義には眛く、
都合主義の教義をこしらえ、信者から金をしぼりとる様は、
まさに「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し
袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し」
の文そのままではないか。

しかもまた、自分はさも聖人のごとく、見せかけ、心の中では貧欲のかたまりであり、
善人をうらみ、嫉妬し迫害するのは、
まことに「外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」偽善者であろう。
少し教学について突っ込むと「唖法を受けたる婆羅門」
すなわち人間の言葉を忘れる修行をしたもののごとく、だまりこくって返事をしない。
これは、かつての小樽問答における身延派の代表のあの醜態ぶりを見れば明らかである。
これこそ、真実を教えず、否、知らずして、
甘現で人をあやつることのみにたけた詐欺漢であろう。
そのうえ金をしぼりとるのでは、追剥に等しいではないか。
これ「沙門に非ずして沙門の像を現し邪見熾盛」の者であり、
されば「正法を誹謗」する挙に出るのである。



 

リヴィン・オン・ア・プレイヤー

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年12月30日(土)11時16分44秒
  2.0さん、わざわざありがとうございます。批判ではないが、今や殆どを占める学会二世の人に考えてみて欲しい。
1966年「丙午(ひのえうま)」生まれの私は、中学卒業式での校長スピーチが忘れられない。父兄に対して「よくぞ勇気を持って産んで下さった」と言ったのです。
そんなたいそうなことか??? 俺たちが生まれたことが???
何度も聞かされたことでしたが、60年に一度の午年に生まれた女性は災いを起こすとして、出産を避ける伝統がこの国(安倍よ美しいか?)にはあった。だから私の同級生は他の年と比べて極端に少ない。マイク・タイソンもそうに違いない。
「そんな迷信を信じるなんて! 信じられない!」=「そんな宗教を信じるなんて! 信じられない!」でした。

私たちの親の世代と我々の世代とは全然違う。父はラジオの『赤胴鈴之助』で育ったが、私が『帰って来たウルトラマン』を見るためにカラーのテレビを買ってくれた。そして今の子供たちには生まれた時からインターネットがあり、自分がメディアに登場する。2003年に『鉄腕アトム』が実際には生まれなかったが、「♪ラララ科学の子」だ。
スティービー・ワンダーじゃないが、「迷信なんて信じられないよ」。
https://www.youtube.com/watch?v=mo6LRLWUMwU

祈りが叶う??? そんな「うまい話」があるか??? バカにするな!!!

そこで上から教えられたように「体験」と称して「現証」が語られるが、1979年4月に頂点を極めた広宣流布のお陰でこの国は「一億総中流」となり、今や癌の多くは治る時代となり、功徳が「分かりにくい」時代となった。この「分かりにくい」≒「無明」で、現代人は多少のことでは感動・歓喜しない。それを「現証」と言われてもねぇ……となる。
片や、罰も「分かりにくい」。宗門問題以降、「体ななめ」(太ちゃんさんの河合師範指導参照)で総罰がたくさん出ているが、文明が底上げしてくれているお陰で罰もさほど痛くなく、痒く感じている程度か。クラスの『夏の日の1993年』が流行ったこの年は極端な冷夏で「♪水際のエンジェル」なんか「♪その素肌」をさらすことなんか無かった。
https://www.youtube.com/watch?v=O4SGLJmreWM
米が不作でタイ米を大量に輸入して、この国は難なく食つなぐことが出来たが、この年は天明の大飢饉か天保の大飢饉クラスの不作だそうで、世が世なら多くの人が餓死していたのでした。

「おとぎ話のように聞こえるかも知れないが、(法華経は)実際にある《法則》である」と、晩年の池田先生はよく言われていました。
ガリレオ以来、全ての宗教が科学の前に敗れ去っていきました。しかし、日蓮仏法は違う!!! 「現証」を裏付ける「文証」「理証」がある。
池田先生が言われていたように、「科学が仏法に“近づいて来ている”」のです。
そのことを知らなければならない。知らなければ語れない。現代人に仏法を、功徳を、宿命転換を「ホンマや!!!」と言わせることが出来ません。

「勝利とは“文証・理証・現証で勝利”すること」と池田先生は言われていました。
現証だけでは片手落ちなのです。三証の三角関数で三角法を使って仏法を証明するのです。池田先生のスピーチを分析するとこの文証・理証・現証しか語られていません。
しかし、実は文証・理証については既に完璧に存在します。だから、勉強すればそれを身につけることは出来ます。

そうすれば、あとは現証・実証だけでいいのです。ここで「現証にはしかず」です。当然、現証・実証ほど本人にとって歓喜するものはありません。だから単純に現証・実証を求めればいいのです。求めさせてあげればいいのです。実感する功徳の歓喜があれば、打ち出しなんかなくても放っておいても折伏に行くようになります。(『脈動』参照)
だから池田先生は幹部に「皆を喜ばすことだよ」「(頭数なんか増やしても仕方がない)題目をあげて功徳を受ける人が増えないといけないんだよ」と言われていました。これを信じて、そのままに進めばいいのです。池田先生のご指導はシンプルです。(それをバ患部がややこしくして無明を強化して迷わせて広布を破壊している。やはり魔なのです。)

宿坊では多くの人が文証・理証について教えて下さっています。そして現証も。
だから自信、確信を持って、陽気に2018年もいきましょう!

“昔々の話 といってもそこまで昔ではないけど・・・”
“トミーは 港で働いていたんだけど組合がストライキで仕事が無くて・・・”
“彼は運に見放されてたんだ それは大変だった とてもキツかった”
“ジーナは一日中 食堂で働いてた 自分の男の為に働いてたんだ”
“稼いだ金を家に持って帰るんだ 愛の為に そう 愛の為に”
“ジーナは言うんだ 私達は 今あるものに しがみつくしかないわ 大して違わないでしょ 上手くいっても いかなくても”
“私達は二人一緒にいる それで十分でしょ (失敗してもいいから) やってみましょうよ”
“私達は まだ道半ばで 祈りながら生きてるわ”
“私の手を握ってよ そしたら きっとうまくいく 誓うわ”
“祈りながら生きるの 祈りながら生きるの 祈りながら生きるのよ
“私たちはしがみつくしかない 準備ができていようがいまいが”
“すべては 成功する時が来るまで 戦う為に生きてるのよ”
“祈りながら生きるの”
『リヴィン・オン・ア・プレイヤー』ボン・ジョヴィ
https://www.youtube.com/watch?v=lDK9QqIzhwk
トミーとジーナのように“祈りながら生きるの”2018年もよろしくお願いします。

『凡夫即身成仏論』オンデマンド (ペーパーバック) ? 2017/5/17 松戸行雄 (著)
「人間主義の日蓮本仏論」への進化・深化   絶賛発売中!!!
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72980
 

相撲協会評議委員会議長は元公明党議員

 投稿者:JACK  投稿日:2017年12月30日(土)10時57分6秒
  池坊保子氏は、2012年に政界を引退した、元公明党議員ではありますが、創価学会員ではありません。  

私も

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年12月30日(土)10時52分24秒
編集済
  大きく目の覚める・・覚醒と境涯革命の一年でした・・

来年はさらに大きく・・自分の使命と大きな覚醒をしたい

悪と戦うことで、大生命力と宇宙を動かす祈りができる・・

間違いありません・

来年も宿坊の皆様とともに・・・悪撲滅、会員救済、独自の布教推進を・・・

宿坊、万歳!
 

余りにも・・

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年12月30日(土)10時48分1秒
  会員をバカにしすぎ・・・

この貯金箱

   ↓
http://6027.teacup.com/situation/bbs/77961

日顕宗よりも、ある面、酷すぎでは・・

10口を推奨してやがる。

完全に無視すべき・・

財務をやれば、幸福を積む ????????????

選挙を戦えば福運がつく  ????????????

アホ患部たちによって、学会がアホになりつつある(涙・涙・・)

選挙戦っていれば、財務をしていれば勤行抜かしても、少ない題目でも

宿命転換できる、大福運を積むことができるという、誤った信仰に・・・
 

今年も大功徳を頂きました。

 投稿者:八風  投稿日:2017年12月30日(土)10時42分2秒
編集済
  「悪を罰しない人間は悪をなす」と。

今年一年、「先生奥様ありがとうございました。」勇気凛々と悪との戦いが出来て
満足でした。宿坊に来て早三年近く。こんなすがすがしい年末を迎えることは
なかったです。

皆さま、よいお年を! そして来年も自身革命の年にしていきます。ではでは。
 

大福運箱で~、来年も100万円供養目標に頑張ろう?

 投稿者:原田奴隷学会  投稿日:2017年12月30日(土)10時28分1秒
  紙製の貯金箱?
500円玉限定で十口10万円貯めれるんだって!
アキヤーは使えませんね五口しかやらないからねー
ダーハラは、愛人二号五号の非嫡出子にカネかかるから、随分前からやってません。本職の大半も仏壇の中で信心してるから、財務やらないと公言してはばかりません。
やっぱ、下っ端会員の我々にこんなものをよこして、「池田先生のために財務しましょー」ってやるんですね。なんかコジキ学会みたい(呆)
 

宮川さんのFacebookの代理投稿

 投稿者:ドン・キホーテ  投稿日:2017年12月30日(土)09時45分40秒
  ーー緊急告知・その4.ーー
( 拡散希望 )

2017年、除名申請者審理に立ち会われた方より、メールを頂戴したので、御紹介させていただきたい。

「 当日は、面白い体験を致しました 」

との言葉で始まる文面には、
大聖人が時の権力者を

「 わずかの小島の主 」

と、仰せになられた御姿を思い起こした。

偉くもないのに、偉ぶった勘違い幹部共、

宗教貴族として、ロクな仕事もせずに、会員の財務で喰ってる奴等と違い、

社会人として、働いている人の都合も考えず、出頭せよだの、処分だの、弁明だの、云々。

極悪を極悪と破折せよ、とは、日蓮大聖人以来の仏法存続の要件である。

それを、極悪原田執行部の最極悪を、正直に極悪と言ったから除名する、などとは、


全く、「 蛍火が日月をわらひ.蟻塚が華山を下し.井江が河海をあなづり.

烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし.わらふなるべし 」所業である。

その勘違い幹部共による、
面白い査問の公開をさせて頂く。

ーー以 下  転  送ーー

当日は、相手は査問委員長含め5名で行われました。

ビデオカメラを回され、必ず弁護士が立ち会います。

最初から除名が決まっている査問ですので、

呼び出しに応じて、
ノコノコ行く必要はないかと私的には思いました。

まるで演出の如く、
誰が何を話す(指摘)のかが決まっている内容になっています。

質問は弁護士が45分位で、
あとは幹部が、
恐れ多くも、
池田先生の名を語り、

「 組織に迷惑を掛けた事を反省しなさい 」などど 、
クソ偉そうに、

上から目線の指導が入り終了となります。

形は査問ですが、形式は完全に裁判官と被告人になります。(当然こちらの弁護士はいません)

*弁護士同伴しても良いのですが、私は単独で参りました。

私は、
○○文化に呼び出されたのですが、終了後、

「 先生の慈悲と平和、平等の世界とは真逆の、

こんな腐れ切った学会に残りたくない 」

と思う程、
気持ちが悪いものでした。

ハッキリ言ってヘドが出ました。

そして、査問から二週間で、
書面が届き、

「貴殿を創価学会から除名する」と判決文が明記され(笑い)、

以下、その理由がダラダラと書かれていました。

あえて録音したり、
(録音を禁止する権限は、奴等には有りません。奴等も録音しています)

幹部共をおちょくって、やろうかと言う方以外は、わざわざ、行ってやる必要はないと感じました。

特に、女性、婦人にはお勧め出来るものではありません。
(バカがうつります)

気の弱い方は、信心を壊されてウツになる可能性があります。
そんな、柔(やわ)な女性はいないでしょうが。

しかし、
それくらいバカはバカなりの準備はしておりますし、
魔の強い査問です。

池田先生が会員の為に作って下さった、創価学会の会館で、

会員の査問、

除名をしているのです。

それから、その後は、陰湿な迫害が始まります。

除名通知が発効された時点で、

組織を挙げて、関係者に恫喝が入ります。

この動きは、かなりの電光石火で、こちらも動きが連動しています。

「○○○は創価学会から除名をされたので、

今後一切の付き合いをしてはならない。

これは創価学会の決定だから 」と、しっかり付け加えます。

それと、除名された人間とのメールのやり取り等の提出を求められます。
*法的には提出する必要は有りません。

恐怖心の前に、修羅場未経験の人は、
心を折られてしまう様です。

参考になればと思い、送らせて頂きました。

ーー以  上ーーー

「 自身の魂の解放には、
少々の痛みを伴いますが、

これも、自身の境涯革命の為と、腹を決めて下さい 」

との激励も添えられていました。


当に、地球上に人間として生まれ、鎌倉時代には御本仏.日蓮大聖人様と共に、愚痴を言いながらも戦い、

今又、
化儀の広宣流布の時に、偉大なる師匠、池田先生の直弟子となる事が出来た。

龍ノ口の法難迄は、
大聖人お一人が受けた難であった。

しかし、
大聖人佐渡流罪以降、
今度は、

師に代わって、弟子が難を受ける時であった。

同じく、
昭和54年~平成22年(2010年)迄は、

弟子を守る為に
先生お一人が、難を受けて戦って下さった。

そして今度は、先生の大恩に報いさせて頂く為に、弟子が難を喜んで受ける時である。

大聖人当時も、
弾圧は厳しく、

「かまくら(鎌倉)にも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907頁)

と。

仏法的には、勝ちは決まっていても、世間的留難は自身の信心で乗り越えて行く以外にはない。

最後は、弱き自身との戦いである。

世間法や国法次元の戦いであるように見えても、仏法の戦いである。

戦う戦場は修羅闘諍の娑婆世界であっても、

我が一念の中には、
御本尊様と、先生を懐き、大歓喜の師弟共戦不敗の戦さである。

 「 古徳のことばにも

心地を九識にもち

修行をば六識にせよと・

をしへ給う・

ことわりにもや候らん 」
(1506頁)

心には偉大なる不滅不敗の妙法を懐き、

一念には、
師と共に、仏法故に、
この身を捨つる覚悟に寸分の迷いなく、

歓喜の中の大歓喜の生命で師弟不二の王道を歩む。

二編の御書を拝したい。

「 構えて構えて所領を惜しみ.妻子を顧りみ.

又人を憑(たの)みて・あやぶむ事無かれ、

但、偏(ひとえ)に思い切るべし、

今年の世間を鏡とせよ、

若干(そこばく)の人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは

此の事にあはん為なりけり 」

(1451頁)


この覚悟を常に持ちつつ、
次の御書を拝したい。


「 法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし、

現世安穏・後生善処とは是なり、

ただ世間の留難来たるとも・
とりあへ給うべからず、

賢人・聖人も此の事はのがれず、

ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、

苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と、

うち唱へ居させ給へ、

これあに自受法楽にあらずや、

いよいよ強盛の信力を致し給へ 」(1143頁)

悠々と堂々と、女房と、又は、亭主と、酒うち飲みて、

と。

大正義の、先生直結の我々の勝利は、決まっている。

しかし、その仏天・諸天の加護、働きに、頼る事なき、覚悟と決意を持って進む事である。

激動の2017年もあと2日で終わる。

4日後には、師が満90歳をお迎え遊ばされる。

そして、自他共に、

信心が、

師弟が、

魂が、試される年である。

我が師匠が、54年以降、内部に今も巣食う反逆者に依って断念せざるを得なかった、

一人一人の大歓喜の生命の解放を、弟子が成し遂げる年である。

油断なく、最高最良の年を締めくくり、誠の弟子としての金字塔を我が生命に打ち立てん年を大歓喜と共に、迎えられん事を。

  常唱院  日護  拝.
 

え?マジ?

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年12月30日(土)08時59分37秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/77947

>相撲協会の評議委員会の議長って元公明党の議員さんじゃないですか^^;<

え?マジ?

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

新年号に思う。

 投稿者:コンペー  投稿日:2017年12月30日(土)08時01分46秒
  聖教新聞の新年号が届いた。

配達員の皆様ありがとうございます。
学会の中で一番立派なのは、無冠の友の方々だと思います。そこそこ幹部でも配達はやってない方々もいますし。もっと大事にすべきです。

新年号の一面。あまりに希望がない。笑
先生の卒寿のタイトルの方がいいのでは…
卒寿、関連は4日号にしましたか?随筆と一緒に。輝くような励ましの言葉がなくなっています。どこに行ってしまったのか?

まぁ、 乞うご期待!




 

「即身成仏」とは 3完

 投稿者:体長1.3mの巨大猫  投稿日:2017年12月30日(土)07時31分29秒
編集済
  日蓮大聖人は即身成仏と一生成仏について次のように仰せである。

三世諸仏総勘文教相廃立には
「十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて
一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す
名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」


また、十如是事には
「されば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、
是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、
是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、
かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして
即身成仏とはいはるるなり、

譬えば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し
春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く
此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして
我が身が三身即一の仏となりぬるなり。

此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、
上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、
中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、
下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば
臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く
只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて
本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば
皆寂光の極楽にて日来賎と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、

秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、
此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に
諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり」


この御文では、我が身が三身即一の本覚の如来であると信じて観ずれば、
上中下根の相違はあっても、一生のうちに本覚の如来を顕現して即身成仏できる、
と仰せられている。

以上の二文からも明らかなように、
天台大師が今生の生涯での成仏を十住の〝初住〟までに限定し、
伝教大師も同じく〝初住位〟とし、
かつ、成仏の達成を利根のなかの上中下の程度に応じて、
一生成仏、二生成仏、三生成仏までとしたのに対し、
日蓮大聖人は六即位の第二名字即位において上中下の機根の相違にかかわらず
一生の間に即身成仏できる、とされたのである。

つまり、日蓮大聖人の仏法においてこそ、即身成仏と一生成仏とが両立し
統一されたのである。



上:体1.3mの巨大猫
下:パラスとケンタウロス(オリジナル)
 

「即身成仏」とは 2

 投稿者:体長1.3mの巨大猫  投稿日:2017年12月30日(土)07時09分24秒
編集済
  日本天台宗の祖、伝教大師最澄は法華秀句巻下で、
「即身成仏」という言葉を冠した即身成仏化導勝という章を、
法華経の十の勝れている点のうちの第八として立てている。

明知。能化龍女。偈云我闡大乘教。度脱苦衆生者。
已顯眞實内證大乘。不是未顯眞實前三中之權因之大乘。
何以故。能化龍女。無歴劫行。所化衆生。無歴劫行。
能化所化。倶無歴劫。妙法經力。即身成佛。
上品利根。一生成佛。中品利根。二生成佛。下品利根。三生成佛。
見普賢菩薩。入菩薩正位。得旋陀羅尼。是則分眞證。


「明らかに知んぬ、能化の竜女、偈に我闡大乗教度脱苦衆生と云うは、
已顕真実の内証の大乗にして、是れ未顕真実の前三が中の権因の大乗にあらざることを。
何を以っての故に。能化の竜女、歴劫の行無く、所化の衆生、歴劫の行無し。
能化所化、倶に歴劫無し。妙法の経力を以って即身に成仏し、
上品の利根は一生に成仏し、中品の利根は二生に成仏す。下品の利根は三生に成仏す。
普賢菩薩を見て菩薩の正位に入り、旋陀羅尼を得る。是れ即ち分真の証なり」

と説いている。

これは、提婆達多品で竜女が
「我れは大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」
と誓った偈文を釈したものである。
まず、偈文のなかの大乗の教えというのは、未顕真実の権大乗の教えではなく、
すでに真実を顕した仏陀自身の内なる悟りである実大乗の教えを意味していると述べている。
その理由は能化の竜女に歴劫の修行がないし、所化の衆生にも歴劫の修行はなく、
能化所化ともに歴劫の修行がないにもかかわらず、妙法を説く経の力によって、
その身体のままで成仏しているからであると説き、
次に、その即身成仏のなかにも上中下の三種類の利根によって相違があり、

上の部類の利根は一生の間に成仏し、
中の部類の利根は二度の生涯のなかで成仏し、
下の部類の利根は三度の生涯の間に成仏するとして、
三生成仏までを即身成仏の範囲としている。

また、即身成仏の内容として、
普賢菩薩を見て菩薩の正しい位に入り「旋陀羅尼」、
すなわち空理に達する智慧の力を得ることとし、
その位は天台宗での修行の位である六即位のうち第五の分身即にあたるとしている。

更に、伝教大師はこの文の直後に法華経の結経・普賢経の文を引用している。

不入三昧。但誦持故。專心修習。
心心相次。不離大乘。一日至三七日。
得見普賢。有重障者。七七日後。然後得見。
復有重者。一生得見。
復有重者。二生得見。
復有重者。三生得見。


「三昧に入らざれども、但だ誦持するが故に、心を専らにして修習し、
心心相次いで、大乗を離れざること、一日より三七日に至れば、
普賢を見ることを得。
重き障有る者は、七七日の後、然る後に見ることを得。
復た重きもの有る者は、一生に見ることを得。
復た重きもの有る者は、二生に見ることを得。
復た重きもの有る者は、三生に見ることを得」


この経文では、たとえ三昧に入らなくても、
大乗すなわち法華経を受持し読誦して専心に修行しつづけると、
一日から二十一日に至る間に普賢菩薩を見ることができるのであり、
重い障害のある者は四十九日の後に見ることができ、
更に重い者は一生、あるいは二生、あるいは三生の間に見ることができる、
と述べている。



 

(無題)

 投稿者:末端信者  投稿日:2017年12月30日(土)06時04分36秒
  学会の肩書を付けた、殆どの人間が、
信心が無いので、傲慢で、横柄で、横着です。

このままだといづれ、
宗門みたいに疲弊して、先生が言われた様に、邪宗と化してしまうのでしょうか?

ある地区で御書学の日に、知り合いと地区部長の二人だけだったりとか、

また別の地区で、座談会を開くと、
地区部長、地区婦人部長夫婦と、そこの従業員一人の三人だけだったそうです。

これでは、子供も付いて来ません。

地区の統合、支部の統合と確実に衰退しています。

秋谷、原田の執行部、及び方面幹部と地域幹部の師弟違背の結果です。厳罰は必定です。
でも、当人たちは、信心が無いから、解らないでしょう?

支部や地区の責任者の方々も、同罪にならないよう、
池田先生の指導を良く勉強すべきだと思います。

「悪知識には親近してはならない。いくら信心していても、野心があったり、我見がある
疑似信仰者、疑似幹部には、親近してはならないのである。」

「悪い人間に利用されるような、愚かな誠実であってはならない。
善悪を見抜く、光る智慧がなければならない。」

また、
「極めて残念なことであるが、
歴史の事実は事実として、きちんと語り伝えておかなければならない。
恥ずべき事実を隠すことは、恥ずべき行為をさらに重ねることになるからである」

そして、
『牧口先生は、組織は上からではなく、下から変革していくのだ、と訴えておられた。
公布を阻む動きに対しては、勇気をもって声をあげることだ。
「おかしい」と思ったら、どんな人間に対しても、厳然と言っていくのである。
おとなしくする必要はない。
言わないのは臆病であり、場合によっては、悪につながってしまうからだ。』
 

<削除>

 投稿者:<削除>  投稿日:2017年12月30日(土)05時41分53秒
編集済
  <削除>  

「即身成仏」とは 1

 投稿者:体長1.3mの巨大猫  投稿日:2017年12月30日(土)05時25分51秒
編集済
  即身成仏の法門は、法華経提婆達多品第十二の竜女の成仏に起源を有している。
竜女の成仏に関して、天台大師智顗は法華文句巻八下において次のように釈している。

第七龍女現成明證復二。
一者獻珠表得圓解。圓珠表其修得圓因。
奉佛是將因剋果。佛受疾者獲果速也。
此即一念坐道場。成佛不虚也。
二正示因圓果滿。
胎經云。魔梵釋女皆不捨身不受身。悉於現身得成佛故。
偈言。法性如大海。不説有是非。凡夫賢聖人。
平等無高下。唯在心垢滅。取證如反掌。


第七に竜女、現に成じて明証するに復二あり。
一には珠を献じて円解を得るを表す。円珠は其の円因を修得するを表す。
仏に奉るは是れ因を将って果を剋するなり。
仏の受けたもうこと疾きとは果を獲ること速やかなるなり。
此れ即ち一念に道場に坐して成仏すること虚しからざるなり。
二には正しく因円果満を示す。
胎経に云く「魔梵釈女は皆身を捨てず身を受けずして、悉く現身に於いて成仏することを得」と。
故に偈に言く「法性は大海の如く、是非有りと説かず。凡夫賢聖人、
平等にして高下無し、唯心垢を滅するに在り、証を取ること掌を反すが如し」と


ここで天台大師は、宝珠が竜女の手にあるのは円教における因としての修行を表しているとし、
その宝珠を竜女が仏に奉ったことは因をもって果を獲得することを意味し、
竜女の手から仏の手に移るのが速やかであることは
仏果を得ることの速やかさを表している、としている。
そして、仏果を得ることの速やかさとは、
その肉身のままで仏となることを意味する文証として
「胎経」にある「現身に於いて成仏すること」を引用している。

また、妙楽大師の法華文句記巻八の四には

正示圓果中。云龍女作佛者。
問。為不捨分段即成佛耶。
若不即身成佛此龍女成佛。及胎經偈云何通耶。
答。今龍女文從權而説。
以證圓經成佛速疾。若實行不疾權行徒引。
是則權實義等理不徒然故胎經偈從實得説。
若實得者從六根淨得無生忍。
應物所好容起神變。現身成佛及證圓經。
既證無生豈不能知本無捨受何妨捨此往彼。


正しく円果を示す中に、竜女作仏を云う。
問う、分段を捨てずして即成仏と為すや。
若し即身成仏にあらずば、此の竜女成仏及び胎経偈、云何が通ぜんや。
答う、今、竜女の文、権に従って説く。
円経の成仏速疾なるを証するを以って、若し実行疾せずば権行徒に引く。
是れ則ち権実義等理徒に然らざる故に胎経偈実得に従うを説く。
若し実得とは、六根浄に従って無生忍を得。
物の好む所に応じて神変を起こし、現身成仏及び円経を証するを容る。
既に無生を証す、豈本捨受無く、何が此れを捨て彼に往くを妨げるを知り能わざらんや


とあり、ここでは竜女成仏について
「即身成仏」と呼んだり「現身成仏」と称したりしているが、
法華経提婆達多品第十二にも天台大師智顗の法華文句にもあらわれなかった
「即身成仏」という言葉を使っていることが注目される。


 

即身成仏って何?

 投稿者:自由の凡夫  投稿日:2017年12月30日(土)04時16分57秒
  「思考・概念」に対する査問・処分について その②

査問する側(創価本部)の「生命現象体」に、査問される側(会員)の「生命現象体」の多くを査問・処分されて現象化しているこの時期に

地球で、同時期に起きている自然現象(生命現象も含む)や人為的現象が観測や観察されていれば、関係性を後世の人々が検証することだろ

う。(意識を含む)

宗教的なものにおける貴重な証拠になるかもしれない。「絶対的現象・現実」の生命感覚を知らない輩のすること。

以前に投稿したとおり、『「思考・概念」に対する査問・処分について』を書いたはずである。



(以下は一部抜粋)

「救済」という視点から言えば、私たちのいる「相対的現象・現実」の多種多様な会員への執行部のアプローチは疑問です。

執行部の方々は、組織をまとめていく大変さは理解できますが、意見の言うものは「査問」「処分」等の安易な策で対応してしまう。

掲示板の皆様が訴えられている様に、生命の感覚が希薄になり、悪の働き作用に転じている。

「自我機能」の人に見られる、「体感・体験」の無い 「愚考」「愚行」になっている。追従する方も同様です。
 

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