タールもニコチンも含まな...

2017年12月31日

ごあいさつ2017→2018 附:「検索できないネットに意味あるんですか?」


 2017年中もいろいろとお世話になりありがとうございました。
 2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今年、拙著『本棚の中のニッポン』がオープンアクセス化されました。

 笠間書院版
 http://kasamashoin.jp/2017/11/pdf_24.html
 日文研オープンアクセス版
 http://id.nii.ac.jp/1368/00006806/

 やっとこのフェーズまで、このステージまで来たな、という感じでおります。ここまで来れば届けられる先がぐっとひろがるでしょう。
 前々から漠然と、そんなふうになったらいいねえ、みたいな夢想レベルではおったのですが、下記のような2点の刺激的な記事がありまして。

・天野絵里子. 「人文学がもっと読まれるためにできること」. 『人文情報学月報』. 2017, 67(前編).
 https://www.dhii.jp/DHM/dhm67-1
・天野絵里子. 「CA1907 - 動向レビュー:欧州における単行書のオープンアクセス」. 『カレントアウェアネス』. No.333, 2017年9月20日.
 http://current.ndl.go.jp/ca1907

 特に1つめのやつは昼寝してるところを叩き起こされたような思いがする文章で、実際これを読んですぐに編集の岡田さんに「どうしたらオープン化できますかね」みたいに相談したのを、Oさんが結果的に実現してくれはった、みたいな感じになったので、えっと、あれです、『本棚の中のニッポン』をオープンアクセス化したのは、↑天野さんと岡田さんであって、あたしではないです。あたしはただ意思表示しただけです、まあ、意思表示をしたからできたことではあるんでしょうけど。(岡田さんには岡田さんで別の想いがあったと記憶していますが)
 だからというわけではないんですが、このオープンアクセス化がカレントアウェアネス(http://current.ndl.go.jp/node/35073)に載ったのを見た時には、ちょっと違和感を感じたのが正直なところです。なんていうんだろう、こういうことが”まだ”ニュースになるんだ、という感じ。本音では、書籍のオープンアクセス化なんかとっとと陳腐化したらいいじゃん、くらいに思います、別にそれが唯一の最終解なわけでもないんだし。それは、うちとこが自前の出版物のオープンアクセス化(http://publications.nichibun.ac.jp/ja/)を、太古の昔むかし、「オープンアクセス」どころか「機関リポジトリ」という言葉すらいまだ人口に膾炙していなかったころから平然とやってたから、たいしたこととも思ってない、ということかもしれないですが。

 自著がオープンアクセス化して嬉しい&便利なことは何か、というのは、おおむね天野さんの2記事に尽くされているとは思うのですが、極私的に強調して言えば、
 (1)共有がしやすいこと
 (2)Googleで本文がヒットして見つかること
 の2点だと思っています。
 無料かどうかというのはその次の次くらいかなと。

 (1)について自分の身に寄せて具体的に言うと、大学の授業で教材として格段に使いやすくなる、という感じです。PDFを、必要な章だけ切り取って、メールで送ったりクラウドに置いといたりして、はい、じゃあこれ読んで、いついつまでに課題提出ね、レポート提出ね、とポンッと渡せる。いちいちスキャンしたり許諾取ったりしなくて済む。はい、本書はシンプルなPDFですし、図書館業界以外の人に読んでもらえるようにわりと噛んでふくめるようなものの書き方してるので、司書科目でもそうでなくても簡単便利に使っていただけますよ。(【PR】)

 とは思いつつも、実を言うとこのPDFというやつが、いまどきの学生さんには結局扱いづらい、届きづらいんじゃないかなという懸念も一方であるわけです。
 だって、学生さんスマホファーストだから。
 ここ数年講師やらせてもらってて、10年前にハーバードで見かけた授業にノートパソコン持ってくるような学生がほとんどいなくて、日本の学生さんたちはいつになったらノートパソコンをデフォルトで持ち込むようなご時世になるんだろう、って思ってたら、なんてことはない、とっくにスマホ使ってその場でうにょうにょしてはったっていうだけの話でした。
 あたしもレジュメをクラウドで学生さんに共有してもらうのに、これまでは独自サイトにレジュメを載せてそのURLを教える、ということをやっていたのですが、あ、スマホでじゃなきゃダメなんだ、と気付いたので今年からは、URLじゃなくQRコードを配り、レジュメもA4に6コマじゃなく、PDF1枚1コマにして、かつ、スマホ対応の大学e-classサービスに乗り換えました。確かに、大学e-classに乗り換える、それに適したファイル形式に変換する、自分でその使い方に慣れる、というのはどれも手間がかかるし不便ではありますが、「コンテンツ」を届けたい・共有したいというのがそもそもの大目的なわけなんで、相手=「ユーザ」の「デバイス」に適合しない「プラットフォーム」や「メディア」なんぞを選択してる場合じゃないだろう、というあれです。しかも送り手側の便利不便とか主義趣味によって採ったり忌避したりとか、そんなダサいことしてる場合ではなかったという。
 余談ですが、最近『図書新聞』さん(2018年1月1日号)に寄稿させていただいた書評(『ポストデジタル時代の公共図書館』)でも、じゃあこの本をデジタルで学生教材とするにはどうしたらいいのか?という問題提起を追記しました。「(その)解が現在の姿としての図書館とはまったく似ても似つかぬ仕組みに期待できるのならば、私としてはそれはそれで一向に構わない」というオチも、煽り半分の本心半分です。ユーザに届かないプラットフォームを(それが出版ビジネスであれ旧来型図書館であれ)後生大事に守ってる場合じゃない。
 という意味で言うと、egamidayさん理系分野の大学の現場から遠く離れてかなり久しく把握できていないのですが、リポジトリや電子ジャーナルのPDFっていったいどこまで有効なんだろう、海外出版サイトでは、e-pubかなんかで出すのがもう当たり前なのかな。

 いやでも正直そんなことより、(2)の「Googleで本文ヒットする」が最高だと思いますね。
 (1)なんか最終紙で配ったってたいして効果に差が生じるわけじゃないんだけど、(2)のできるできないの差は格段にヤバい、なんつったって「Googleで本文ヒットする」ってことは、イコール、こんな本読むつもりもなかったような人の目にもとまって届く、ということですから、届く範囲がぶっちぎってるだろうと。
 ヒットしてアクセスが大事だろうと。
 今年の上半期のほうでいくつか登壇させていただいた時に、うちとこの画像データベースをGoogleでヒットするようにリニューアルしたら何がどう変わったか、的なことをざっくり報告しました。

 「デジタルアーカイブの「Googleやさしい」は、実際どこまで効果ありなのか」
 http://egamiday3.seesaa.net/article/446484829.html

 うちとこの画像データベースのレガシーなのはまだまだGoogleきびしいなのですが、新しくリリースするのはできるだけGoogleやさしいのがデフォっぽくなってくれてて、今後に期待という感じです。(例:近世期絵入百科事典データベース http://dbserver.nichibun.ac.jp/EHJ/index.html)
 それから数日前には、Googleでヒットするようにコンテンツをhtmlでupする、という15年くらい前にやった仕事がヒットしたという例をツイッターで拝読して、まあ、良かったなあと。15年経ってその効果が変わらないということは、ネット環境のあり方というものももうしばらく同じ状態で続くと見ていいんだろうから、当面のあいだは同じ姿勢でやっていって問題無さそうだな、という確信を得た事例でもありました。

 これはもちろん、Googleという一巨大私企業を信奉し心酔してるというわけではなく、当の「ユーザ」が日常的に目にしている「ポータル」なり情報流通の「メインストリーム」がどこにあるのか、そこに送り手側がちゃんとリリースできてるのか、という問題であると。
 例えばそのポータル/メインストリームのひとつとして、世界規模のコンテンツカタログではOCLCのWorldCatというものがあるわけで、そこに日本の書籍情報がろくに載ってない、早稲田と国会のしかない、NACSISのこれからが熟議されてるのは漏れ聞こえるもののそこにOCLC搭載の話はどうも出てこないらしい、そんなこんなでいつしかハーバードから帰国して早や10年が立とうとしてる、そんな状態に今年ついに業を煮やして、ていうか単純にキレて、日文研の所蔵・書誌情報をWorldCatに直接流し込む、という直接グーで殴りに行く暴挙を企てて、いま現在オハイオだかヨーロッパのどこかで機械的に登録作業してくれてるところだと思うので、もうまもなくしたら、そうなります。ILLもやります。やれるかどうか(体力的に)、どうころぶかはわかんないですけど、あかんならあかんで、とりあえずやってみて何がどうあかんかを知るしかない。
 前言撤回するようであれですが、もうね、デジタルアーカイブなんかどんなもんだっていいんですよ、ネットでアクセスさえできるようになっていさえすれば、どうにかこうにか届けられるでしょう。でも紙の本というメディアに載ったコンテンツは当面の間は残念ながらそうもいかない、どうやらまだまだしばらくは、著作権が切れていない資料を紙メディアで届けるしかない状態が続くようなので、それへのアクセス可能化の道筋をなんとか掘ろうとしてる、うちとこにはこんな紙がありますよ、紙でも良かったらお役に立てませんか、という御用聞きに海外まで出向く、というイメージで考えてます。ヒットしてアクセス、をここでは紙で保証しようと。

 OCLCのILLには”IFM”という制度があって、要するにお金のやりとりのための相殺制度なんですが、これに直接加入することで海外からの依頼受付のハードルを下げよう、というのが本件の目論見のひとつです。
 ただ、どんなILL制度も結局は同じことなんですが、だからといってその制度以外の図書館からの依頼を拒絶するわけではないです、国内であれ海外であれ、公共図書館であれ病院図書館、企業図書館、私設図書館であれ、うちとこの蔵書に御用があるとおっしゃるのであれば、それがたとえ”一定の制度”外からのノックノックであったにせよ、お話をうかがったうえで相手の事情とこちらの事情をすりあわせて可能な策を見つけていく。
 ユーザさんのニーズと事情が百者百様であるのと同じように、相手館の事情も百者百様であるのは当たり前なんで、組織の枠を越えて事情の壁を克服する、というのが我々の専門職としての役目でしょう。
 というのがこの業界の共通認識だろうと、てっきり思っていたのですが。

 #公共・大学図書館間の相互貸借等 に関するメモ - Togetter
 https://togetter.com/li/1169003

 ↑今年一番がっかりした、というのが正直な印象です。あ、公共側も大学側もその程度のことしかやってないし考えてないんだ、っていう。うちとこだと受付も依頼も、私設だろうが海外だろうが非図書館だろうが、なんとかこねくり回し交渉し頭を下げてゲットまたはギブするというのを、ほぼ毎日やってるので、まさか公共-大学間すらろくにつながってないとは思わないじゃないですか。
 そもそもNACSIS-ILLやその相殺も、OCLCのIFMもですが、その仕組みを構築することによって枠内での効率化・省力化をはかろうと本来はしてたはずなんだけども、その結果として仕組み外の対応のハードルが相対的に上がってしまい、何を勘違いしたかそれを排除の理由にしているというのは、仕組みというものの本末転倒。仕組みだけならバイトでいいのであって、そもそもはその仕組み外の対応をさらに交渉や協力でどうケアするかこそが、専門職の責務だろうと思うんです、ごくごくざっくりとこの問題のことを言えば。

 仕組みそのものを守ることが目的なわけじゃないだろうと。
 何かを為した結果、何が得られるのか/届けられるのか、が問題なのであって。仕組みはその効率化の一手段でしかない。

 それは、どんな仕組みだって同じだと思います。
 書籍の出版販売という仕組みから大幅に足を踏み外して、オープンアクセス化しちゃいました、もちろんそれはあたしがその仕組みで食べてるわけじゃないという前提があるわけで、これについては「仕組みが目的」な立場の人だってもちろんいるわけなんですが、あたしはその立場ではない(その仕組みにおいては”ユーザ”側)なので、意思表示だけで言えばオープンアクセス化しちゃえばいいのに的なことを平気で言う。次また同じかたちでの情報発信をするとしたら、”書籍→オープンアクセス化”よりは”オープン→書籍化”のほうだろうなと思います。
 かといって機関リポジトリシステムにも限界があって、いやそれだと学生さんがスマホで読めないよ、ってなっちゃうと大幅に加工するとか別の仕組みで公開するとかいう、違う方法も考えないといけない。独自サイトがダメなら、大学サイトで、あるいは結局紙で配る方が届けやすいというなら、それでもまったく異存はない。
 そしてそういうのを解決してくれる仕組みが図書館ではないんだったら、図書館という仕組みを変えていくか、あるいはそれに固執する必要はまったくない。
 先に紹介した「Googleやさしい」のブログ記事では、Googleという仕組みでヒットしさえすれば万事解決ということを書いていたかというと、実はそうでもなくで、それもあるけどそうでもないパターンもあって、という話でしたので、よろしければご一読ください。

 というような、資料・情報を届ける百花繚乱な仕組み群たちが複雑に絡み合い、スパゲッティみたいなベン図の中に立ちすくんでいて、いったい自分はいまどの仕組みの内側にいるのか、あるいは外側なのかどっちなのかもわからなくなる。というのが、いまの我々の情報環境なんだとしたら、どの仕組みを採るのが正解か/不正解かなんてことをブイブイ言っても、もはやあんま意味ないんちゃうかなと。
 けど、ただ確かに言えることは、「ある仕組みに固執しようとすること」「その仕組みの枠を越えようとしないこと」を”怠惰”と言うのだな、ということです。

 そして、この「仕組み」を「メディア」「プラットフォーム」に置き換えても、「ユーザ像」「利用の仕方」に置き換えても同じことでが言える。どのメディア/プラットフォーム/ユーザ像/利用の仕方をひとつ採用すれば正解、などということはない、ていうことなんじゃないかなと思うんです。
 
 例えばの横軸。アーカイブサミットをはじめデジタルアーカイブの論議が熱い昨今ですが、いろんな人がいろんな分野/業種の立場でいろんな種類の資料のことを言ってて、問題解決の段階は層になって折り重なり、議論の方向性は大樹の枝のように末節に分かれていく。時にお互いの議論が噛み合わなくも見えますが、あたしはむしろ互いの議論が噛み合ってない状態の方が、なあなあのシャンシャンの忖度な議論よりはよっぽど健全だしナチュラルな姿だろう、って思います(その噛み合ってなさの客観的な姿と由来をお互いがちゃんと認識できてればの話ですが)。でもその、めいめいの層、ばらばらの末節が噛み合わないことをおそれることなく、いったん一堂に集まった人らのてんでばらばらなおでこををガチンとくっつけ合わせて、糠床の下の方からひっかき回すように議論とその空気をぐるりとリフレッシュさせて、そのうえで職場に持ち帰ってまた再出発してもらおう、ていうのがアーカイブサミットなりなんなりのああいうお祭り感の効用なわけなんじゃないかなって思いますね。だからあれをやった結果いよよ自説に凝り固まったり、自分野/自業界の活動の正当性だけを力説して溜飲下げしたりしたところで、それで幸せになるのは一部の人の一時のことだけだろうから、まああんまり意味ないんじゃないかなって思いますね。

 縦軸、つまり時間経過とともにどう変わってきた&いくだろうか、ということですが、えーとそうですね、先に例を挙げたように、コンテンツが直接Googleでヒットしてくれることの効用はどうやら15年経っても変わらず継続してるみたいなので、当面その方針を採用するという姿勢でいいんじゃないかと。
 デジタルアーカイブのような資料共有とヒット&アクセスがセットになった仕組みも、その基本的なあり方は継続しそうに思います。が、そこにオプショナルに追加されたがる個々の機能になると、その出入りはこれまで激しかったし、ということはこれからも激しく変わるんだろうな、と見てとれます。例えばIIIFなんかだとどうやらもうちょい手前段階で働く概念のようなので、個々の機能よりは長続きするのかなという感じですが。

 ポータル機能(ジャパンサーチのような)をもったものが待望されている、というのも、これも15年くらいは変わってないように思いますが、ただじゃあそのポータルは具体的にどんな姿であってほしいのか、ていうのはガラッと変わってる気がします。
 こないだ学生さんからの質問で「昔のインターネットはサーチエンジンも無しにどうやって使ってたんですか、検索ができなかったらインターネットに意味あるんですか」みたいなことを問われたので、来年3月でサービス終了すると噂のYahoo!の「カテゴリ」ページを示して(あれも数年ぶりくらいに探そうとしたらどこにあるかさっぱり見つからなかった)、こういうディレクトリ型というのがあって、リンクをたどって探してたんだよ、って話をしたわけですよ。そしたらもう、学生さんの反応としては”失笑”でしたね。残念ながらそりゃそうだ、としか言えない。
 当時ポータル機能の代表格だったディレクトリ型のYahoo!カテゴリが、15年経ったら失笑なわけです。いまもてはやされてるものもそのうち古寂びていくことでしょう、機能も仕組みもメディアも利用方法も。だったらそこに固執するのは長期スパンでも短期スパンでも結局は悪手というか眉唾ものなんじゃないかなと思いますね。
 シンプルにというか、更新容易なように、ベン図のどの位置に立ってる人にもリーチしやすいようフレキシブルに、という感じで。
 ってことは、何かを構築する、盛り付ける、というよりも、地味に足固めする、パイ生地を練る、ほうが近いのかもしれない。

 というのが、いまから15年前に極私的にひとつの節目を迎え、15年後にはさらに大きな人生の節目を迎えることになる、いま現時点でのなんとなくの考えでした。

 これをもって、2017→2018のご挨拶にかえさせていただきます。
 ご挨拶ができさえすればそれでいいわけであって、”年賀状”というメディアに固執することをせず不採用、という感じで。

posted by egamiday3 at 11:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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