コミュニケーションにおける超越と闇 國分功一郎+千葉雅也
ムラ的コミュニケーションの規範化と言葉の価値低下
コミュニケーションの定義について
言葉による説得
言葉:曖昧でメタフォリカル・隠喩的(見えていない何か)
↓ インターネット・新自由主義的な経済体制の台頭によって、イメージ変換
ノリ・ムラ社会的なもの
エビデンスによる説得(エビデンス主義・エビデンシャリズム)
エビデンス:ある基準から見て一義的なもの(誰からにも見えるもの)
この対比から見て、エビデンシャリズムの強まりとは、メタファーなき時代に向かっているということでもある。
メタファー:目の前に現れているものが、見えていない何かを示す
明るみの規範と「心の闇」
見えていないもの=「心の闇」(無意識なもの)が必要
ハンナ・アーレント「革命について」(ロベスピエール批判をしている箇所)
「心の特性は闇を必要とするところにある。」
「どんなに心の奥深くで感じられた動機であろうと、いったん引きずり出されると破壊される。」
つまり、動機を公の光の下に曝け出そうとするとすれば、誰もが偽善者になる。
(就職活動を例に挙げると、面接を受けている学生たちというのは、ロベスピエールの前に立つ革命家のようなものではないか!)
完全なる信頼を目指してすべてをエビデントに説明させようとすると、人間社会は根本的に崩壊してしまう。
だからこそ、「心の闇」(不合理なもの)を育むことがコミュニケーションの根本でしょう。
その文脈で考えると、コミュ障的と自認する人は「心の闇」としての無意識が存続しようとするがための抵抗的ポジションに立っている人なのではないか。
言葉の力と貴族的なもの
言葉の力は、人によって明確な能力差が出る。 対して、エビデンスは民主的なもの、科学とはデモクラシーである。
→「ネットに無意識が書き込まれている」というのも、今の時代の民主主義的状況の帰結である。
万人に平等にメディア環境が与えられた結果、既成の体制に基づいて権力を思うがままにしてきたエスタブリッシュメント(支配階級)への抵抗として、無意識ダダ漏れという民主主義の徹底状態になっている。
「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族制を肯定することにつながる。
全員で貴族になろう。楽しみ方を知っていて、暇になっても困らない人間になろう。
信頼や納得にはどうしても偏った判断が働く。その偏りについて煎じ詰めて考えるならば、人における貴族的なものを考えるざるをえなくなる。
垂直性と水平性、あるいは横断性
貴族的なものとは、心の中のある種の反省作用・深みがある。
※オープンダイアローグを取り上げる。
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水平性(みんなで集まって話をする。)と垂直性(内なる声、内省)、この2つのバランスが大事。
ピア(貴族?)の目だけになってしまった、規範が空席になってしまったため、現代の特に若者たちが承認をめぐる争いに巻き込まれている。
規範とは?
内なる声、超越的なもの、精神における貴族的なもの、言葉の力など
ハイデガーによる退屈の三形式
第一形式:なにかに退屈させられている状態(忙しい)
第二形式:なにか(暇つぶし)に際して退屈する状態
第三形式:なんとなく退屈な状態(内なる声)
「なんとなく退屈だ」という内なる声を否定することなく、それをやり過ごす。
水平のコミュニケーションを活用しながら、「内なる声」として現れる超越と付き合うことが出来る。
ガタリは「垂直性(おしつけ)」と「水平性(よこならび)」の両方を超えるものとして、「横断性」を構想していたのだろう。
垂直性と水平性両方の斜めの次元を考えなくてはならない。
権威主義なき権威
立憲主義(上からの原理)↔民主主義(下からの原理)
憲法(民主主義を制限するストッパー)で守らなければならない一線を見張る
上からの力(権威)をどういうかたちで担保するか。
問題は、そうした規範的階級(権威?)が何によって支えられるのかということ。
貴族的なるものの再発明を"旧来の既得権益の継承(権威主義?)"とは別の形でどうやって考えられるのか。
常に超越的なものの発生を考えることが、権威主義なき権威を考えるための必要な見方ではないか。
これは自分たちでつくったものだし、維持してきたものだというかたち(上からの押し付けではないかたち)で権威が維持されるとき、それは権威主義なき権威となる。
ネオリベ的主体と行為のコミュニズム
コミュニケーションの圧力がネオリベラリズム(新自由主義)との関係で高まっている。
コミュニケーションの消費的ー生産者として生きることを強いられている。
本質的に教育とはコミュニケーションなのだろうか。
教師の「一緒にやってみよう」という呼びかけである種の集団的主体ができあがる。コミュニケーションではなくて、一緒に主体形成することが大切だと思うし、教育はそういうものなのではないか。今の世の中はかつてないほどに能動/受動の図式が強くなっている。ドゥルーズが言う「一緒にやる」はコミュニケーションではないし、能動でも受動でもない。ある種の中動態的なプロセスで開始することへと誘う言葉だと思います。
自分の実存の私的所有が非常に高まっている時代であるため、別個の主体間のコミュニケーションというイメージが強くなってきている。
本来は自分の身体や言葉の純粋な私的保有なんてできない。しかし、意志という概念を使って行為を私的所有物と見なすのが現代の感覚なわけです。
この時代状況を踏まえると自他がシンクロしていくような世界観は、いささか「侵略的」だと思う人もでてくるのではないか。
今コミュニケーションで苦しむというのはどういうことか・・・
一方で、行為を私的所有するネオリベ的主体としてもうまく振舞えなければ、
ネオリベ的主体:「私の私秘的なところ(=「心の闇」)には、先生、立ち入らないで」
他方では行為のコミュニズム(共同)に身を投じることもできないというダブルバインドがあるのではないでしょうか。
(きちんと「心の闇」を持った人たちが紡ぎ出す行為のコミュニズムのようなイメージ・・・)
原理なき判断の再発明
繰り返すと、エビデンス主義はある意味で民主主義の徹底である。つまり、誰にでも理解できる公正な原理。しかし、制度的な公正さが必ずしも実質的な公正さにつながるとは限らないため、そういう制度的な公正さを担保しているだけだは駄目だというべきです。ではなにで埋め合わせをするかというと、ケース・バイ・ケースの特異性に反応する原理なき判断(貴族的判断)。原理なき判断は、既得権益的な押し付けでもあったが、それがいったん崩壊した後で、改めて原理なき判断というものを再発明する必要がある。
新たな人倫の潜勢力
最近、イギリスではハード・レフトのジェレミー・コービン率いる労働党が選挙で大躍進しました。この勝敗をジジェクが分析していた。
右派が下品になり、左派は言葉狩りのポリティカリー・コレクトを基準にして攻撃を加えるばかりで、少しも議論を組み立てられない。コービンが受け入れられたのは、このどうしようもない対立に入らず、ディーセンシー(節度・品位)を保ちながら選挙戦を戦ったからだというんです。ジジェクはここでヘーゲルのいう「人倫」に言及する。人倫とは、はっきりと言うべきことや口に出してはいけないことを規定している暗黙のルールやマナーのことです。実はこういうものこそが社会において革新的な力を持つ。 結局、長期的には人倫なんだと思います。
別のコミュニケーション。例えば、人倫、礼、また貴族的なもの・・・。これらは社会を変革する力になる。コミュニケーション・ポピュリズム(大衆主義)に対して別のコミュニケーションをどう発明するかという話になったと思う。