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「日本有線大賞」は終わっても「紅白歌合戦」は生き延びる単純な理由

マスの時代はとっくに終わっている

年の瀬の風物詩だった「日本有線大賞」(TBS)が第50回の節目とともに終了した。そもそも大型企画としてのテレビ音楽番組は、視聴者の趣向や視聴手段が変化するなか、すでに「オワコン」と見る向きも多かった。しかし一方で、最盛期ほどではないにせよ、同じく年末恒例の紅白歌合戦は一定の存在感を維持している。

本当のところどうなのだろう。テレビ音楽番組はやはりオワコンで、姿を消していく運命なのか。電通出身でメディアビジネスに詳しい関西大学の三浦文夫教授に聞いた。

 

「マス」の象徴だった紅白歌合戦

かつて大晦日には、家族揃ってNHK「紅白歌合戦」を観るのが日本の冬の風物詩でした。

昭和47(1972)年に、同番組は80.6%(関東地区)という驚異的な視聴率(番組史上第2位)を稼ぎ出しています。出演者には、美空ひばり、森進一など当時誰もが知る国民的歌手がズラリ。同年のシングルレコード・セールスをみても、小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」69.5万枚、天地真理「ひとりじゃないの」60.1万枚をはじめ、紅白出場組が上位を占めています。

1970年代前半は、テレビも音楽も「中心部」(あるいはメジャーな存在)がハッキリしていた時代であり、紅白歌合戦はその年の頂点を極めた歌手たちの、いわば祭典でした。そうした中心部を支えていたのが、大きな塊のオーディエンス、すなわち「マス」だったのです。

そうしたマスがメジャーを支える構造は、インターネット、とりわけYouTubeの登場によって解体され、断片化されていきます。その影響をもろに受けた音楽産業、テレビ産業の構造にも大きな変化が起こりました。その変化を考える前に、紅白歌合戦が史上第2位の視聴率を記録した年のことをもう一度ふり返っておきたいと思います。

テレビ神奈川と音楽産業の「周縁部」

1972年4月、横浜に新たな独立系放送局「テレビ神奈川(tvk)」が誕生し、音楽番組「ヤング・インパルス」がスタートしました。

当時の民放の音楽番組といえば、フジテレビ系列の「夜のヒットスタジオ」(1968年11月放送開始)に代表される芸能界中心の歌謡バラエティが定番でした。そこでヤング・インパルスは、後発番組としての存在価値を見出すためにターゲットを若者にしぼり、当時はまだアンダーグラウンドだったフォークやロックに焦点を当てたのです。

RCサクセション、井上陽水、泉谷しげる、荒井由実(松任谷由美)、シュガーベイブ(山下達郎)、宇崎竜童、キャロル(矢沢永吉)、細野晴臣など、放送当時は無名ながら、その後の日本の音楽シーンを牽引していくアーティストたちが数多く出演しました。

他の民放の音楽番組では、原曲を「テレビサイズ」と呼ばれる1曲2分30秒程度に短縮して演奏されるのがふつうでしたが、ヤング・インパルスはライブハウス風のセットを組み、20〜30分におよぶ生ステージを提供しました。そのあたりが、通常テレビに出演しないタイプのアーティストと若い世代の視聴者に支持されたわけです。

このヤング・インパルスの例は、私なりに解釈するなら、歌謡バラエティという中心部とは異なるサブカルチャー的な周縁部から、新たな音楽文化が生まれたことを示しています。続く80年代、皆さんもよくご存知のように、ヤング・インパルスの出演者たちは中心部に進出していくのですが、同時にパンク、ニューウェーブ、テクノといった新たな周縁部が生じていきます。

中心部が周縁部を刺激し、周縁部が中心部にとって代わる動きを生み出し、それがまた新たに周縁部を刺激する。当時はそうしたある種の「循環」が機能していたのです。