2017-12-30
■道具としての数学 

おれは数学が嫌いだ。もちろん苦手でもある。高校程度の数学は全く解らない。この話をするとよく驚かれるが、本当のことである。
どうして数学が嫌いなのか。決して「よく知らない」わけではない。数学そのものは人類の産んだ最高の道具の一つだと考えている。だけど好きになれない、というのが本当のところか。
数学は素晴らしい道具であるが、道具として使いこなしてる人は人類の1%もいないのではないかと時々思う。僕くらい普段から数式に接していても、仕事や生活の中で因数分解が必要な状況というのはめったにない。いや、一度もなかったかもしれない。一度くらいはあったかな。
しかし「因数分解」という概念は極めて重要で、「因数分解」という言葉を使うことはよくある。これもまた数学の道具としての便利さなのかもしれない。
僕が数学を嫌いになったのは、まさしくこの因数分解がきっかけである。
実を言うと、それまでは数学が比較的好きだった。
パズルを解くような、物語を読み進めるような、そんな数学の魅力に惹きつけられていた。
ところがあるとき、突然、因数分解という概念に出会った。
僕はそれまでの数学のように、パズルのように解けばできるものだと思っていた。
しかし実際には因数分解は「たすきがけ」という超絶技巧で解かなければならない。その瞬間、俺は醒めた。なんだそりゃ、パズルじゃねえのかよ。そこから学校の数学というものが、どうも胡散臭い、インチキなものに思えてきた。球の体積とか、円錐の体積とか、どうも中学の数学はインチキや誤魔化しが多い。積分の知識がなければ説明できない概念を公式だけ覚えさせるというのはどう考えても間違っているように僕は思う。
もちろんこれは教え方に問題がある。
教科書の作り方がおかしいのだ。
球の体積を求める必要性があったことは、これまでの人生で一度もない。表面積については、もしかしたらあったかもしれない。しかしそれを暗記しておく必要は全く無い。必要に応じて図書館なりで調べればいいはずだ。今ならネットがある。公式を調べる前に球の表面積が求められてもおかしくないだろう。
試しにGoogleで「直径10の球の表面積」を検索したら、案の定、すぐに答えが出てきた。100πだ。
僕が受けた数学教育の問題は、明らかに、「詳細な説明を省略して結論だけ教える」という教え方にある。それでは数学というのは思考のための道具ではなくて試験のための道具に成り下がってしまう。馬鹿馬鹿しい話だ。
要は、数学という道具の素晴らしさを学校で数学を教えるまさにその瞬間に台無しにしている。多くの人はこの茶番劇に失望するか、そもそも興味を持たず、多くの人が数学を嫌いになる。
理系だけど数学が嫌い、という人は意外と多いのではないかと思う。
数学というのがどうも理系の道具というよりも、胡散臭い宗教めいたものに見えるのは、学校における数学の見せ方の問題もあるだろう。
今年一番印象的だったのは、この数学に対する見方が変わったことだ。
ABC予想を解くために京都大学の望月先生が開発した宇宙際タイヒミューラー理論(IUT理論)、それを中高生向けに解説するスライドを制作しろという命令が川上会長(当時)から下った時、なんで数学が嫌いと公言している自分にその役目が回ってきたのかわからなかった。
そもそも、IUT理論は発表されて5年かかってようやく世界で10人くらいのトップ数学者がその概要を理解していると言われているような難解な理論で、もちろん僕にわかるわけがない。
しかし仕事だから仕方がない。色々下調べをしたが、調べれば調べるほどなにがなんだかわからない。困り果てたまま会議に行くと、東工大の加藤先生が極めて丁寧に、IUT理論の骨子を教えてくださった。
天啓が降りるというのはこのことだろうか。もしくはAha体験とはこういうことだろうか。
そういえば、僕は本物の数学者の話を聞くのはこれが初めてだった。
田舎の中学あたりで、ガキ相手に偉ぶってるチンピラとは格が違う。本物の数学者は、全く数学が嫌いな僕にさえも、実に魅力的に最新の数学理論を語ってくれたのである。
その内容は、難しいというよりもむしろ面白いと感じるようなもので、数というものに潜む神秘の魅力へといざなってくれるような素晴らしいものだった。
数学に魅力がある、ということは薄々分かっていた。ときたま別冊ニュートンの数学関連の本を買って眺めることはあった。
けれども日頃道具として使う数学は、専ら代数幾何学で、僕はこの道具だけを使ってたいていの仕事をしてきた。代数幾何学は極めて便利でかつ美しい。代数幾何学に関しては小学校の頃から使っているので、日本人における箸、欧米人におけるナイフとフォークくらいは使いこなしている。僕は箸を持つのが上手くないから、たぶん箸よりも使いこなしていると言えるだろう。
代数幾何学は便利で強力で美しい。そしてコンピュータと密接な関係がある。代数学を意味するalgebraと、アルゴリズムという言葉はともにバグダッドの数学者、アル・フワー・リズミーに由来している。
さて、道具としての数学についてもう少し考えてみよう。
数学は道具であり、その形態は言語である。その意味でもコンピュータのプログラミング言語に似ている。
人工言語によって思考を整理する、という様式で最も普及した言語の一つとして数学を捉えることが出来る。
しかし数学は道具として使うのがとても難しい。数学自体が自己言及的であり、数学そのもののの世界の魅力と、道具としての数学の魅力が混同され、本物の数学者は実は道具として数学を意識しておらず、数学のそのものが持つ内在する世界にしか興味がないため、道具としての数学を人に教えるのに向いていないのではないかと思う。
微分積分といった概念は、ニュートンやライプニッツによってもともと道具として発明された。
ニュートンは物理に使うため、ライプニッツは哲学的な問いに答えるため、それぞれ数学を道具として使った。
身近なところで道具として用いられている数学は統計である。偏差値とか、移動平均とか。むかし、「統計学が最強の学問である」という本があったが、統計という道具しか知らなければ、それが最強に思えるのも仕方ないと思う。しかし実際にはもっと便利な道具が数学の世界には山ほどある。
「統計学が最強」であるとするならば、おそらく「微積分は最強」とも言えるし「代数学は最強」とも言える。もちろんある意味では「IUT理論は最強」であるのは間違いない。要は専門分野が違うだけなのでもっと視野を広くしていろんな道具を使えたほうがいい。
たとえば、自動車で移動したほうがいい場合もあれば、自転車や徒歩のほうがいい場所もある。電車や飛行機で移動すべき場合もあるだろう。
ハサミとカッター、ノリとセロハンテープなど、人は必要に応じて使う道具を切り替えるのに、なぜかこの選択肢に数学が入っている人はほとんどいない。
たとえば単純な掛け算すらしない人が少なくない。
ローンを組む時に、実際の金利がいくらになるか考える人が少ないからこそ、消費者金融は儲かり、多重債務者が生まれることになるのだろう。
これはやっぱり数学の教え方、捉え方がまずいのではないかと思う。
実際、英語が使えるよりも数学が使えるほうが人生において役立つことが多い。
僕は英語で不自由したことはほとんどないが、英語を勉強しようと思ったことは一度もない。
数学を道具として使いにくい理由のひとつが、数学の持つ閉鎖性である。
知らない人が見たら読み方さえわからない記号(主にギリシャ文字)が大量に出現する。しかも、ジャンルによって同じ記号でも使われ方が異なったり、違う記号でも同じ意味だったりして混乱する。
ギリシャ文字、大文字ならまだいいが小文字はかき分けることも見分けることも困難である。ζとかιとかς とかσとか、普段数学に接していない人が見たらノイローゼになりそうだ。
そして数学の最大の問題点は、道具として使いたければ、自分で計算しなければならないということである。
つまりその理論の背景や土台の「全て」を理解し、適用できなければならない。
よくこれで数千年間も数学は発展してこれたものだ。
コンピュータに例えれば、あらゆるプログラマーが論理回路から組み立てないとプログラムが書けないという状態に等しい。
さて、今日、我々にはコンピュータがある。
コンピュータというのは、恐るべき道具だ。
数学的知識がゼロであっても、写真を撮り、圧縮して、通信回線に乗せて電送したり、GPSから位置情報を得て地図を見たりできる。
実際にはその裏側では、ハフマン符号化、離散コサイン変換、スライド辞書法、相対性理論、デジタル積分解析、バーンシュタイン基底関数といった数学的手法が駆使されているが、それを使っている人間はそうした背景を全く意識することなく使うことが出来る。
R言語を使うと、具体的な数式の表現を全く知らなくても、数学を道具として使い、統計解析ができる。控えめに言ってもすごいことだと思う。
こう考えると、もっと数学を便利に使う方法があるはずだが、プログラムというのは基本的に具体的な問いやニーズを解決するためのもので、「こういう道具があるからこんなふうに使える」というわけにはなかなかいかない。
こういうときに大事になってくるのは、「それはオモチャになるか」ということではないか、と個人的には考えている。
「オモチャになる」というのは、要は「それで遊べるか」ということだ。
ハフマン符号化をオモチャにする、という話はあまり聞いたことが無い。基底変換もそうだ。しかし基底変換を上手く使えばゲームが作れる。ゲームはオモチャなので、「基底変換はオモチャになる」と考えることが出来る。
秋葉原プログラミング教室でゲームの開発をメインに教えているのも、それが単に「子供の興味を引くから」ではなく、「オモチャになるから」である。数学的な道具をオモチャとして使えるようになれば、その子は、数学を道具としても使えるようになるはずだ。
たいがいの大人は、オモチャの扱いが下手である。
それは好奇心だとか純粋に楽しむ心だとかと引き換えに社会に適合してきたためで、大人そのものの責任ではない。
だから大人にプログラミングを教えても、それをオモチャとして扱える人は極端に少ない。
成功しているサラリーマンや起業家、研究者に共通している点をひとつ挙げるとすれば、「常にオモチャを探してる」ところだ。根っこの方にちゃんと子供の部分を残しているのである。
役に立つかどうかわからないけど買ってみよう、Amazon Echo買ってみよう、うーん、役に立たないな、じゃあ自分でスキルをプログラミングしてみるか・・・そういうふうに考えられる人だけが時代に適合できる。
IUT理論を通じて、わからないなりにわかったのは、少なくとも望月先生は「数学をオモチャにできてる」んじゃないかな、ということだ。
ガロア群や対称性といった「道具」を用いて、まさしく絶対にハマらないパズルのピースをピッタリはめる、というのはオモチャ的な発想がないとできないだろう。
その意味ではAIはオモチャになる。むしろオモチャとして最適である。
あらゆる重要な発明は、最初は「オモチャ」「役立たず」と言われてきた。たとえば電話がそうだ。日本初の個人用コンピュータであるTK-80も、開発したNECですら「なんに使うのかわからないガラクタ」だと思って売っていた。多くの日本人はそれを「オモチャ」として買った。Roombaだって最初はオモチャに見えた。
数学をオモチャ化するのに、AIはコンピュータ以上に重要な役割を果たすんじゃないか。
そんな予感がしている。
数学を誰でもオモチャとして扱えるようになれば、誰でも数学を道具として使えるようになる。
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