ピンクについて語るときに私たちの語ること 川上未映子+名久井直子+堀越英美

川上 この9月に「早稲田文学増刊 女性号」(早稲田文学会、2017)を発売して以来、とても大きな反響をいただきました。雑誌のコンセプトや構成、個々の作品に対してもそうなんですが、こちらで想定していた以上に大きい反響があったのが表紙、それもピンクを使ったことに関する賛否両論さまざまな反応だったんですね。
 好意的な反応が圧倒的に多かったんですが、でも、「みんないいって言ってるからピンクでよかった」ということでもないと思って。色ひとつの選択をとっても大きな反応があったこと。それを起点に、「女性号」責任編集のわたしと、デザインの名久井直子さん、執筆者で、『女の子は本当にピンクが好きなのか』(Pヴァイン、2016)をお書きになった堀越さんと、ピンクにまつわるいろんな気持ちを話してみたくて、今日は集まっていただきました。

「女性=ピンク」って、単純?
堀越 わたしがたぶんいちばん読者に近い立場だと思うので、まずおうかがいしたいんですけど、このデザインになるまではどういう経緯があったんでしょう。というのは、たぶん読んでいらっしゃるかたの中には、「どっかのおっさんが勝手に決めたんじゃないか」みたいな疑問をお持ちのかたもいるんじゃないかと(笑)。

――実際にそういう感想もありましたね。表紙にピンクが使われていて、女の子のイラストが描いてあることに、「女性を騙そうとしている悪意」とか、「おっさん」の存在、「広告代理店的な発想」が透けて見える、というような。

川上 おっさん? 「川上未映子責任編集」と書いてあるのに?……って、あっ、もしかして「川上未映子=おっさん」ということなのかしら。それならある意味クリティカル……(笑)。

名久井 (笑)。「責任編集」って感じが、作り手以外には伝わりづらいのかもしれないですね。
反響はわたしもすごく感じていて。どの本もそうですけど、出版される前の情報って目次と書影しかないので、いちばん見た目に対して「良い」とか「悪い」って評価がされやすいんですよね。「女性号」の書影が発表されたときにも、たくさん表紙に対する感想があったんですが、たとえば「なんにも考えてない」とか、「うわ、ピンクだ」みたいな反応もすごくあって。自分のデザインにそこまでそういう反応が来るのがはじめてだったので、正直とても驚いたんですよね。
わたし個人も女性で人間で、今回「女性号」で、裏表紙に参加者として名前を入れさせてもらっています。わたしの「これが好き」という気持ちやいいと思うものの感覚、個人的な好き嫌いというより、最終的には「みんな自由にやろう」みたいな気持ちなんですけど、そういうのが通用しない世界があるんだと思って、すごく衝撃を受けました。

堀越 いままでの「早稲田文学」のデザインとはまったく違う路線だったこともあって、余計に「「女性号」でなんでピンクなんだ」って気持ちになったひともいるのかもしれないですね。

川上 使われているのがピンク以外の色だったら、おそらくまた違った反応でしたよね。

堀越 たぶん、たとえば水色だったら、同じデザインでもこういろいろとは言われてないと思います。

川上 この号が、わたしが責任編集じゃなくて、たとえば公的な何かを代表するものだったら、それこそ隙をなくしてツッコまれないようにピンクを使わない、という方法もあったかもしれないですね。
 今回の「女性号」はその成立過程もふくめて、ひとりの人間による責任編集号なので、その人間がピンクを色として好ましく思っていること、「女性号」にふさわしいと思っていることを表明することも、「女性号」の意味に沿うことなんじゃないかと考えました。名久井さんには打ち合わせのとき、表紙は魚座さんに絵を描いていただきたい、そして色は、わたしが決めてもいいならピンク、それもペールピンクがいいです、という案を伝えて、預かってもらいましたね。

名久井 そうでしたね。ちょっと脱線すると、ピンクもそうだけど、魚座さんに描いてもらった表紙の絵についての反応もあったんですが、それについては、実はデザインをしている段階で、川上さんたちと長いメールのやりとりをした上で、みんな「よし」と思ってこれになっているんですね。

川上 女性にも色々な人がいるので、表紙のイラストにかんしては「キキララ」みたいなものはどうだろう、という話もしましたね。キキララはふたりとも女の子という説があるんですが、ああいう曖昧な感じで、髪の毛が短い子と長い子、あるいはスカートを履いている子とズボンを履いている子、みたいに、男女どっちともとれるふたりを出すのはどうだろう、という意見もだしました。それはPC的な配慮というわけではなく、わたしのイメージしている女性号に近づく感じがしたからなんですけど。
 名久井さんはその提案に、「魚座さんもわたしも今回はひとりの作家としてこれに参加しているわけだから、このテーマを投げたときに魚座さんから出てくるものを載せるものなんじゃないか」という丁寧な回答をくださって。
 それを聞いて「本当にそのとおりだ」と思いました。わたしはいつも自分の名前で本をつくる立場で、最初に自分の作品があって、表紙はその作品世界を体現するもの、という思い込みがあったんです。表紙や装丁は責任編集とか著者のパッケージ、とても極端に言ってしまえば「中身の要約」っていう思い込みがどこかにあった。だけど今回は違うんだってことを、名久井さんに教えてもらいました。

堀越 独立した作品としての表紙、デザインということですね。

川上 そうなんです。もともと魚座さんにお願いしたのも、彼女の描いた作品をウェブで見ていて、ぜひ今回作家として参加してもらいたいと思ったからなのに。
 この業界で仕事をするわたしでさえそんな思い込みがあって、「女性号」にも適用してしまうぐらいだから、もしかしたら一般の読者にならもっと、今回の表紙のすべてがオピニオンや理念を代表するものだと受け止められる可能性は高いですよね。ただ、制作側の気持ちとしては、表紙の絵は魚座さんが今回のテーマをもとに描いてくれた作品で、装丁もこのテーマで作家としての名久井さんがデザインしてくれたもの。だからどちらも個人の作品である、という気持ちでいます。

名久井 「女性号」のことを考えたときに、難しい言葉では言えないんですけど、「女性だからといって鬱屈していることもなく、人間としてのびのびしていきたい」っていう大きな目標のもと、いま女性が頑張っている、しかも過去の頑張りからしたらかなりいろいろ達成されていて、さらにのびのびしたいところだと思ったんです。だから単純には、「もっとのびのびしたい」っていう気持ちがあって(笑)。

川上 この女の子も、「ほんなら、本でも読むか」みたいなポーズでね。

名久井 キキララ的な「男女どちらにも見える」ということより、さらに自由にしていたいというか。いま女のひとはスカートもズボンも履けますよね。わたしはスカートが大好きなので365日スカートだけど、どちらにせよ、いまは自由に選べることが当たり前じゃないですか。でもきっと昔の女性は、ズボン履くのも抵抗があったりしたでしょうし。

川上 昔は女性の服にポケットもなかったですからね。

名久井 それを考えると、今、朝起きて、ズボンを履いてもスカートを履いてもいいって、すごく自由なことだと思っていて。だから、いちいち説明はしないけれど、この女の子が履いているスカートはその日自分で選んだスカートで、今日は森の中でスカートを履いてた日なんだ、っていうことでいいと思っていて。

――表紙でいうともうひとつ、テーマは女性、書き手も制作もみんな女性、当然フェミニズムについても考えよう、というとき、「女の子が森の中でおやすみの日に本を読んでる」という表紙に対して、もっと攻撃的なイメージでなくていいのか、という意見もありました。

川上 女性が80人以上も集まって一冊を作ることに理由がいるんでしょうね。怒りでも抵抗でもいいんだけど、わかりやすい物語がないと、女たちが集まってなにをしようとしてるのか理解できないということですよね。「あなたたち、爆弾作らなくていいの?」みたいな。

堀越 でも女の子と爆弾とか戦車っていうのも、すでに完成されたイメージですよね。

名久井 映画のすばらしさとは関係なく、『マッドマックス』的な、マッチョな女性が出てきて、かっこよく凛々しく夕日に立ってても、「それでいいのか?」という感じもする。

川上 たぶん、今回の表紙に疑問を持ってくださった方々にとっては、「女性号」で「ピンク」っていうのが、何も考えていない、すごく単純な選択に見えたのかもしれません。
 ただ、読んだ後で、はじめに持った印象っていうのがどれだけ変わるかっていうのも作品の力だと思います。ピンクにかんする感想は、読む前のものが多くて、中身がある程度浸透したいまはどうだろう? と思っても、ピンクについての話は、ほとんど出てこないんです。読んだあとに、どんなふうにでもいいから、ピンクの印象や質に変化があればいいな、と思っています。

戦いかたはひとつじゃない
名久井 「のびのびと」とは言いましたけど、実際にやりたいことの中では精査をしていて。今日、色の見本帳を持ってきたんです。「女性号」のピンクはふつうの印刷では出ない、特色のピンクなんですね。普通の印刷よりちょっと高いの(笑)。これはパントーン社の色見本帳だけど、ほかの会社にもインキの種類はあるし、色って世の中にはいっぱいあるんですよね。わたしはピンクがけっこう好きだから、この見本帳もピンクが減ってるんですけど、こういうたくさんの色の中から「このピンクだ」と思える色を選んで作りました。堀越さんの本の中にも、女性の眼のほうが男性に比べて、フューシャピンクだとかパールピンクだとか、たくさんのピンクを見分けられるってお話がありましたよね。「女性号にピンクなんて」と批判する人が、どれぐらいそのピンクの見分けがついているのか、という疑問はあります。
 話を戻すと、実際の制作の過程では、「女性だからピンク」みたいなことではなく、自分のいいと思ったもの、もしくは川上さんの提案に対してのピンク、っていう答えを出していて、そこにいわゆる「おっさん」や「広告代理店」的な発想はなかったし、実際にそんな人達はいなかった(笑)。

川上 女性が仕事を認められたり、イニシアチブを取って行動しているときに、後ろに「男性権力者」の存在がないと納得できない心情を持った人って、いつも一定数いますからね。で、そんなふうに女性の能力が軽視されることに対して──つまり性差別的なあれこれにふだん敏感であると自覚している人たちも、そういうミソジニーとは無縁ではない。これには性別も関係ありません。
 それにしても女性号の表紙に使っただけで、「代理店」とか「おっさん」のような、存在しない背景を想像させる「ピンク」って、あらためて特殊な文脈をもっているんだなと痛感しますね。

堀越 ピンクに対する反発は、アメリカでももちろんありました。最初は50年代にピンク色とともに女の子を家庭に押し込めようとした風潮があったことへの反動です。70年代のウーマンリブ全盛期は、あるデパートの女の子向けの衣料売り場からピンクが消えたりするぐらいの影響がありました。その後、いちどその揺り戻しで80年代ごろに徐々にまたピンクが増えてくるんだけど、90年代には「女の子向けはともかく、大人の女性向けマーケティングではピンクを使ってはいけない」という風潮があって。『Don’t Think Pink』(邦題『女性に選ばれるマーケティングの法則』、リサ・ジョンソン、アンドレア・ラーニド、飯岡美紀訳、ダイヤモンド社、2005)に詳しく書かれています。
最近はまた、「フェミニストだからってピンクを嫌わないといけない理由もないよね」っていう揺り戻しが来ていると思います。そのムーブメントの象徴とも言える、『バッド・フェミニスト』(ロクサーヌ・ゲイ、野中モモ訳、亜紀書房、2017)で、ゲイがわざわざ「わたしはピンクが好きだ」と言うのは、わざわざ言わないといけないぐらい、ピンクに対する逆の抑圧があったっていうことだと思うんですよ。だけど、今回「女性号」に寄せられた反応を見て、日本だと世間的に女=ピンクの固定観念がまだゆるぎなくて、議論がそこまで行ってなかったのかもしれない、と思いましたね。

川上 そうですね。見た限りでは、ロジカルに、「戦い方としてまずいのではないか」という反応というよりは、アレルギー的に「女でピンクはダメ」みたいな反応が多かったですね。あるいは「わたしの考える戦い方と違うからダメ」というようなものでしょうか。

堀越 最近になってようやく「ダサピンク」と言われるムーヴメントがTwitterを中心にあったことも、影響していると思います。あとは、自分の話になるんですが、わたしはつい最近まで、派遣の仕事で教育機関のWEBサイトの管理をしていたんですね。で、女子高生に向けた告知のデザイン案を持って行くと「この色じゃだめ、ピンクを使って」と言われちゃう。とにかくピンクで盛って、ボタンもピンクで、薄いピンクの背景に濃いピンクのボタンにしてちょうだい、と(笑)。

川上 いわゆる「ダサピンク」ですね。

堀越 そう、とはいえ、それを言うのはおじさんじゃなく年配の女性なんですよね。女性でも「女の子を惹きつけるならピンク」という意識はすごくある。そういう、抑圧というほどでもないけれど固定観念を感じる機会は幅広くあって、その中で息苦しさを感じるひとも結構いると思うんです。そういうひとたちがこのピンクを見て、おしゃれとかおしゃれじゃないとかを抜きに「うわっ」てなっちゃったのかもしれない。

名久井 信号のような感じですよね。「あっ、ピンク来ちゃった、警告」みたいな。

堀越 そうそう。最近旅館で「おひつ」が女のひとの方に寄せられることをめぐった議論がありましたけど、近いものがあるかもしれません。「ほら、固定観念が来た」みたいな。

名久井 そういうのって日常にいっぱいひそんでいますよね。お酒を飲まない男性と一緒にいて、わたしだけがお酒を頼むと、来たお酒が男性の方に置かれたり。お酒だけじゃなく、おひつとか焼肉のトングとか、そういうことがいっぱいあります。
それはだんだん直っていきそうな感じはするけど、ピンクについて言うと、たくさん色があって、ほかの色と同じように、ピンクもある程度の幅を占めている。だけど、ピンクだけがいま女性にとって不自由になっている。それが、デザイナーとしてすごくつらいなと思って。わたしはどの色も好きなわけですよ。ピンクももちろん好きだけど、紫もブルーも、白も黒も好きで、だけどピンクだけ不自由。

川上 呪われていますよね。

名久井 うん、その勝手に呪われてしまっていることが、わたしの中ではもうのびのびではなく、厳しい状況です。男の子も、小さいときから青を着せられることが多いと思うけれど、それで男性が青に不自由になっているという感覚、「男の色を青にしやがって」みたいな声は、思ってるかたはいるかもしれないけれど、ほとんど上がってこないですよね。でもピンクは、「女子のもの/だから女子のものにしたくない」みたいな揺り戻しをすごく感じます。
たとえばトイレの男女マークの、ズボンの青とスカートの赤を変えるとしたら、混乱が生じるし、少なくとも急には難しい。そういう、仕方のない世界もあると思うんですけど、でも、命や生理的なことに関わらないところで、自由がないことに気づきたいというのがあるんですよね。「そうやってピンクが云々言ってるのは、ぜんぜん自由な状態じゃないよ」という感じがする。

川上 どの色についても、ひとそれぞれ好き嫌いはあるし、場合によっては注意しなければならない文脈がある。でも、基本的には、ほかの色と同じように、ピンクを能動的に使うこと、好きという気持ちは誰かを傷つけるわけじゃないし、ピンク自体は悪じゃないですよね。
 出産でも子育てでも、あるいは職業でも、それこそ女性ということでも、世間一般のイメージや物語があるわけですよね。「自分の人生を生きる」って、そこから自分のものをどう奪回するかという話じゃないですか。「これはわたしの一回きりの人生で、百の千の万の例なんていうのは関係がない」と言えるかどうかは重要ですよね。ピンクだってそれと同じ問題で、今回の表紙には、「このピンクと、あのピンクは違うのだ」という表明の意味がひとつ、ありましたよね。

堀越 わたしは、「女性号」にピンクが使われたことに対して批判はあってもよいと思うんですよ。それに対して川上さんがこうやっておっしゃる、で、これがWEBに出るってことでまた議論があるじゃないですか。それ自体はすごくよいことだと思うんです。

名久井 考えるきっかけになれば。

堀越 そう、「じゃあピンクってなんなんだろう?」みたいな話が、たぶん国内では今まであまりされてこなかった。最近「ダサピンク」ってことばや概念がTwitterで出てきて、ようやく「なんで女性向けはみんなピンクになるんだろう?」という話ができてきたところだと思うんです。なので、どんどん話せばいいんじゃないかなって。ピンクというだけで反射的に「嫌だ」と思うひとも、「なぜわたしは嫌だと思ってしまうのか」と考えていければよいと思うんですよね。わたしも、自分の子どもがピンクのものばかり欲しがるのに対して「嫌だ!」って気持ちになって、そこから「なんでわたしはこんなに嫌がっているのかな?」と考えていって、『女の子は本当にピンクが好きなのか』につながりました。

川上 うん、いろんな場所で、「わたしはこう思う」「いや、それはどうよ」みたいな議論や会話がどんどん増えるのは本当にいいことですよね。今回「ちょっとピンクはないんじゃないの」って思ったひとたちも、ピンクを選んだわたしたちも、「女性だからって安易に押し付けてくれるな」という気持ちがあるはず。だから、「女性号」を作ることを、その気持ちを通すためのひとつの戦いと仮定するならば、ピンクを使う戦いかたもあればピンクを使わない戦いかたもあるということで、そのふたつは共存できると思うんですよね。もちろん「女性号」というテーマで特集を組むことそのものにも、言えることだと思います。

名久井 それでどんどんピンクが自由になればいいですよね。

川上 そう思います。ピンク幻想とか女性幻想から自由になりたい、押し付けや抑圧から自由になりたいって気持ちは共有しているはずだから。「それぞれの闘いかた、好きの表明、表象のしかたに寛容になっていきたいものですなあ」って思います。

堀越 なぜおじさん口調(笑)。

川上 (笑)。なんでも一回で最高の結果を出さないといけない、一回でぜんぶひっくり返さなきゃ認めない、みたいな空気が、なんともしんどいよね。

名久井 「女性号」で、山崎まどかさんが「一回女性が転んでもいい」みたいなことを書かれてたのが印象的でした。転ぶじゃないですか。いろいろと、ものをつくったりしてても。

川上 転ぶどころか、崖から落ちて複雑骨折が、通常運転やで。

名久井 「あのときは転んでました」とかあえて言うことはしないけど、これまでもいっぱい転んできた。いまはインターネットがあるから、転んでいるひとを見る機会も多くて、そこで「あっ転んだ転んだ、ばーかばーか」みたいに揶揄されてることが、すごいつらいというか、「でもわたしは全力で走ってるから、転ぶよ」って思ってて。そういう揶揄をするひとに、「じゃああなたは全力で転ぶほど走ってるのか? 走ってるひとを見てるだけじゃないのか?」って聞きたくなってしまう。だってみんな、「次はもっとよくなりたい」っていう気持ちがあるじゃないですか。

川上 うん。今回の「女性号」も、これが女性をテーマにした号の唯一のかたちじゃないし、これは無数にある「特集」の中の、ひとつなわけで。

名久井 つくってるときからそれを、よく話してたよね。

堀越 わたしも間違えたら指摘してもらいたいですが、言い方は優しくしていただけるとありがたいですね(笑)。

名久井 そう、言いかたの問題もすごくあって。「いやだ」と言うひとでも、そのひとが死ねばいいとは思っていないだろうし、「どうしていやなのか」を話したらもっとよくなる、話したいって思うのに、遠くから石を投げられるみたいな感じになるのがつらいんですよね。

ちょっとずつ変わっていく
名久井 でも好意的な反応もたくさん見ました。インスタグラムにたくさん上がってて。「かわいい」って言って、「いいね!」もしてくださって。すごく嬉しかった。

堀越 それがすごいよいことだと思って。この表紙にしたことで、いままで「早稲田文学」を手に取ったことのないひとも手に取ってるわけじゃないですか。本屋さんで見かけて「なんだろう、これ」みたいな感じで読まれたかたもいると思う。

川上 女性号の宣伝でインスタをはじめたんだけど、みんなコスメが好きなんですよ。わたしも好きだし、だからコスメ・コスメ・文学、文学・コスメ・文学、みたいな感じで打順を組んでアップしてた(笑)。そしたら「文芸誌って、なんなんですか。ふつうに売ってるんですか」みたいな人が買ってくれて、感想くれたりね。男性からも、たくさん感想もらったり。
 あと、驚いたのが、書店の、女性の自己啓発棚があるじゃないですか、それこそ表紙がピンクばかりの。そこに「女性号」が面出し陳列されているのをどなたかが写真を上げてくださっていて。「30歳までにやらなきゃいけない○○なこと」みたいなのを読もうと思って手を伸ばした方が、「みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。/私にはそこの所がみえない」とかに出会うのかと思うと、うれしくて悶えるよ。(※石垣りん「唱歌」より。「女性号」巻頭に掲載)

名久井 普段手に取らないひとが間違って手に取って、短い文章だから短歌を読んじゃったりして、ハッとしてくれたらもう最高です。

堀越 わたしも「早稲田文学」で、けっこうエゴサじゃないですけどサーチしてるんです、自分が叩かれてるんじゃないかと思ってちょっと心配で(笑)。だけどそれよりも、「リビングに置いて、家事のあいまに読んでます」というツイートに胸打たれましたね。ふだん家事や育児で忙しくて文学から離れてるけど、「これはわたしのための本なんじゃないか」というイメージを持って、手にとって「むっちゃ沁みる……」と思ったひと、たぶんいっぱいいらっしゃると思うんですよね。かく言うわたしも実はそうで、この中で文学部出身女子として、すごいネガティブなこと書いてるんだけど(笑)(「女の子が文学部に入るべきでない5つの理由」)、やっぱり子どもを産んで家庭や仕事に追われると、到底文学どころじゃなくなって。A・A・ミルンの原作が好きだからディズニーの「クマのプーさん」は邪道だ、という美意識は育児に邪魔なんです。ディズニーのプーさんマグをいただいて、「ディズニーなんか……」と言って捨てられないじゃないですか。

川上 埋まっていきます、自分で選んでいないもので。

堀越 だから「いったんそういう美意識は頭から外に出そう」と思って、あまり文学は読まなくなってたんです。でも書かせていただいたことで、見本誌を読んで、「沁みるやん……」って思って。

川上 そんなん言われたら、こっちが沁みるやん……(涙)。
 でも堀越さんのご著書をはじめ、Twitterなどで発信されていることって、本当にいろんなひとを勇気づけてると思います。文章も視点もいつも切れ味がすばらしいし、ひとつのものごとに対して、「堀越さんだったらどう思うかな」みたいなこと、よく考えます。実はmixiのころから拝読していて。

堀越 ありがとうございます。そういえば昔、「あしあと」見たら「え、川上未映子さん!?」ってなったことがありました(笑)。

川上 いろんなことに対して、「こういう見方ができるんだな」って、いつも学ばせてもらっているんです。子育ての先輩でもあるから、「いま堀越さんが闘っているものは、いずれわたしも行く道や、待っとけよPTA!」みたいな(笑)
 ちょっと脱線しますけど、以前堀越さんは男の子を育ててみたかったっておっしゃっていて。もしよかったら、せっかくなのでそのことについてお聞きしたいなって思っていまして……

堀越 上の子の妊娠中に、「男の子だったらいいな」って思ったのは、子どもに自分みたいな苦労をさせたくなかったからですね。男の子だったら、たとえば虫が好きだったら「虫博士」のままで育てられる。だけど女の子ってそういう訳にいかないじゃないですか。虫ばかり好きなわけにいかないというか。いまとなっては安直な考えだったなと思いますが、また別の意味で、男の子を育ててみたかったとは思っていますね。

川上 息子って、母親からしたら二重に他者ですよね。

堀越 ですし、これからは、いままでの男性像とはまた違うものが求められていくじゃないですか。そこを考えてみたかったんですね。

川上 そうか……わたしも新しい男性像について考えるとき、子どもたちの常識をどう形成していくかが、本当に大切だと思っているんですが、でも、肝心の公的な環境が、昭和と変わらないんですよ。親や社会の意識の大部分がそうだから、小さい子でもその意識がすりこまれていて、「女は弱いんだよ」というようなことを理解するまえに、暗記してくるんです。うんざりしますよ。

堀越 平たく言うと、その苦労をしてみたかったのかも。自分はいまそれを考えないで子育てやってるから、その壁にぶち当たって考えてみたかった。

川上 逆に女の子に、「フェアであれ」とか「女の子らしさに縛られる必要はない」とか……つまりもともとがこれだけアンフェアな環境で「人としての強さ」を、自覚させるだけでなく、主張させる方向も、それはそれで難しくないですか? けっこう自然にできるものですか。男児に「平等であれ」「男だからといって偉そうにするな」と教えるより、女児の場合は、乗り越えないといけないものが多いでしょう。抑圧の数もレベルも、男児の比じゃないから。

堀越 女子教育にまつわる本を書いていながら、自分はちっとも教育的なことができていないんです。うちの場合、わたしに威厳がなさすぎてナメられてるから(笑)、ほっとくとすごい強気なんですよ。わたしの方が言い負かされてるところがあって。

川上 素晴らしい。上のお子さま、パワーポイントとか作ってましたよね。おっしゃることも本当に聡明で。

堀越 いま小学校で習うんですよ。で、公文をやめたいと言ってたので、「やめたいってことをプレゼンしてみて、お母さんを納得させたらやめてもいいよ」と言ったら、公文でいくらお金が飛ぶか、みたいなプレゼンを作ってきた(笑)。

名久井 すごい。堀越さんにもう一回教育されたい(笑)。うちは田舎なんだけど、東京に出るときも親と大喧嘩してきて。鬱屈してたんですけど、『女の子は~』で組み立てるおもちゃが出てる話を読むと、本当に時代が進んでいるんだな、と思って。いまもまだ途上なんだけど、すごく感動しましたね。

川上 あれは本当に家庭に一冊ですよ。

名久井 うん。自分の人生にそのまま重なるわけじゃないんだけど、「ああ、こういうふうになってくんだ女の子は」っていうことがわかって、とても勉強になりました。

川上 これって絶対、女性学の必須図書だよね。わたし、めうろだったのが……。

名久井 めうろ?

川上 目からウロコ(笑)。村上春樹さんの、あの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985)に、「まっとうなピンク」っていう表現が出てくるんですよね。こういう読みの可能性をひらく表現を、ああいうふうに入れておけるのが彼の素晴らしいところだなとあらためて唸りました。正直、「あのまっとうなピンク」のポエムのところ、記憶から抜けていて。堀越さんのこのご指摘によってあの小説における「ピンクの太った女の子」の解釈が、まったく違うものになる。

名久井 わたしのめうろ(笑)は『アナと雪の女王』の結末について。わたしはあの結末、ものすごく嫌だったんですね。やっぱりものを作るほうの目で観ちゃうから、「なんでエルサはあんなすごいお城を作れる技術があるのに、わざわざ平たい氷を作らなきゃいけないんだ」という憤りがあった。平たい氷なんて、誰でも作れるわけじゃん、お金をかければ(笑)。でも、堀越さんの本を読んで、ああそういうことだったのか、って。本当にずっと何年も腹が立っていたんだけど(笑)、「あ、幸せだったんだ」と腑に落ちました。

堀越 最近の女性リーダー論的なものをふまえてディズニーが作ると、ああいう結末になるんですよね。なにも考えず作ったわけじゃなく、そのときどきのジェンダー議論がちゃんと取り入れられている。

川上 あの本を出してから、変わったことってありましたか?

堀越 この本に対して、「誰もがレゴや知育玩具を与えられてるわけじゃない」という指摘があって、「たしかにそうだ」と気付かされるところがありました。自分が、地方の公立中学から高校・大学に進学して、お仕事をさせてもらっていることで、「誰でも勉強すればやりたいことができるんだ」と思っていたところがあったな、と。

川上 そもそもその機会が与えられてない子たちもいる。

堀越 そうそう、女性差別の視点からだけだと、つい「能力のある女性が活躍できる世の中がいい」というふうに考えてしまうけど、それだけじゃなくて、メリトクラシーというか、「能力がなかったら差別に甘んじていろ」というのもまた違うよな、ということを最近考えてます。

川上 全部をひっくるめて、同じ俎上で論じて決定打を出すってやっぱり難しいことですよね。ぜひそれを、べつの機会で、お書きになってほしいです。『女の子は〜』があって、その次があって、その書き手がどのような思考の軌跡を辿ってきたかわかるのが、時間をかけることの素晴らしさだから。ぜひ読みたいです、本当に。

堀越 ありがとうございます。「女性号」もそうですよね。これを読んで、また新しいひとが新しいことを始める、たとえば「わたしが考える女性号」だったり。そしたらちょっとずつ変わっていくことがあると思います。

名久井 「女性号」を読んで、いろいろな作品の中にすごく沁みるものがあること、それってそのひとが「知らなかったこと」だと思うんですよ。はっきり言えないけど自分のなかでもやもやしていたものが、「これだった」とわかる、その「何かがわかる」ということがすごくて。
さっきの職業とか能力の話でも、それは偏差値がハイスペックなひとだけが就く職業じゃなくて、いまはインターネットもあるし、だんだんみんな考えられてきてるから、たとえばコーヒーを淹れる仕事でも「豆を選ぶ目を持っている」とか、それぞれの仕事の中でいろんな引き出しがあって、「お店屋さんの女の子」というだけじゃない、同じ職業に見えるけど、よりよいポジションや働き方みたいなものが、無数に世の中にあるんだってことがわかってきた。だからそういう意味で、これまでより女の子の世界はすごく広がってきてるなあって思っていて。わからなかったものがちょっとずつわかるっていうのが「進化」なんだなあと、ふつうのことなんだけど、思います。

川上 すごく優等生的な意見になるんだけど、「いまは途中である」っていうのは、平等な真理ですよね。間違えても転んでも、次にやっていくしかないですからね。

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「早稲田文学増刊 女性号」
発行:早稲田文学会 発売:筑摩書房
2017年9月21日刊行
定価:2200円+税
「早稲田文学」編集室もくじページ: http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/