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今、私は「赤い楯 下巻」広瀬隆 著 集英社 刊 という本を読んでいる、と先日も書きましたがまた、書きたくなったことが出てきたので書きたいと思います。それはフランスの歴史上、英雄とされているド・ゴール元フランス大統領についてです。

このド・ゴールは日本でも有名でやはり英雄と言われていますが、私が今まで書いてきた政治の文同様にこの話も嘘だったようです。ではまずは以下にド・ゴールについて書いてある箇所をこの「赤い楯」から、ではなく、「詳説 世界史」山川出版社 刊 2011年版 から一部抜粋したいと思います。

(抜粋開始)

(前略)フランス第3共和制は崩壊し、ペタン政府が成立してドイツに降伏した。フランスの北半はドイツに占領され、南半をペタン率いるヴィシー政府が統治した。しかし、ド・ゴールらは降伏を拒否し、ロンドンに亡命政府(自由フランス政府)を組織して抗戦をよびかけ、フランス国内にもやがてレジスタンス(対独抵抗運動)がおこった。(後略)

(抜粋終わり)

赤い楯13これは第2次大戦中のフランスにおけるドイツとの戦いの様子を書いたものですがこれを読むと、いかにもド・ゴールがヒットラー率いるナチス・ドイツに頑張って抵抗して、自由フランス政府をつくってドイツに抵抗を続けた、かのように書かれています。また、この「自由フランス政府」という名称もいかにも何か、自由な、正義な感じがします。ではこの日本でもフランスでも英雄視されているド・ゴール率いる自由フランス政府が何をしたか、について書いてある箇所を「赤い楯 下巻」から引用したいと思います。

(引用開始)

(前略)そこに至るまでの過程を遡ってみよう。自由フランス赤い楯6のド・ゴールたちは、北アフリカで一体何をしてきたのだろうか。自由フランスは、ユダヤ人問題を語るときにだけ登場する。ナチスを倒すレジスタンスの姿を描けばそれで美化されてきたのである。しかし第2次大戦中の1941年から42年にかけて巨費がアルジェリアに投資され、サハラ砂漠鉄道が完成したとき、原住民を砂漠で奴隷として使ったのが自由フランスなのである。両者は同時代の出来事である。戦後は、それがさらに悪どい商人と結び合っていった。

首都アルジェから東へ200キロのセティフでアルジェリア人が反乱を起こした時、ド・ゴールの軍勢は外人部隊に対して、「アラブ人男子の姿を見たら全員射殺せよ」という命令を下し、実際には男に限らず、女と子供まで含む5万人ものアラブ人が虐殺されたのである。カチンの森の虐殺など比較にならない大虐殺であったが、終戦直後、1945年の出来事であるこれを皮切りに、北アフリカ全土で終戦からの10年間、同じように虐殺につぐ虐殺が繰り返され、アラブ人の抵抗に関してだけはテロと呼ぶ、狂気のフランス・ジャーナリズムの腐り切った時代が続いてきた。現代のド・ゴール主義の復活は、1990年11月にド・ゴール生誕100周年を祝う国家的な現象にまで発展してきた。

実際には、フランスにはジャーナリズムなど存在しないのである。フランス人のテロ団が現地の警察と組んで、'アラブ人との友好を求めるフランス人'まで殺害し続けた。しかしここに、遂にアラブ人の怒りが爆発する日を赤い楯14迎えた。1954年11月1日の万聖節の夜、アルジェ南東のオーレス山地で蜂起がはじまると、戦闘は全土に広まっていった。フランス国家「ラ・マルセイエーズ」を歌うことを拒否するアラブ人の子供たちが、北アフリカ全土に誕生してきたのだ。やがて火の手は、モロッコにまで広がってゆき、これに対してフランス軍はある地区で6万を超える部族民を皆殺しにするなど、ますます弾圧を強めていった。捕虜に対する拷問は、自由フランス軍が'ナチスの開発した電気ショック'を使用したことによって、自らナチスを非難する資格を失っていった。秘密警察を育てたフランス内務省にアルジェリア局が創設されたのは、1905年という昔のことであった。相手がアラブ人だというだけで殺す権利を神から与えられた彼らは、'アラブ人に対する水晶の夜'を繰り返した。(後略)

(引用終わり)

これは当時のフランスの財閥がアルジェリアの石油利権に群がり、その結果起こった顛末が書かれているのです。その財閥の名を挙げると、「ラザール・フレール」、「アルジェリア信用銀行」、「アルジェリア商会」、「アルジェリア液化メタン」など他にも多数あり、またこういった財閥、銀行群はフランス家ロスチャイルドと一族となっているとも著者の広瀬氏は記しています。つまりこういった財閥・銀行群が'カネ儲け'するためにド・ゴールの自由フランス軍を利用したということです。

上述の引用文を読めば、ド・ゴールは英雄などではなく、戦争屋、虐殺者といった類の人間だったということです。では次にこの戦争屋としてのド・ゴールの戦後の動向について、「20世紀のファウスト 下巻」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 に記してあったので以下に引用したいと思います。

(引用開始)

赤い楯12(前略)ハリマンとガルブレイズは各国主脳に礼を言ってまわった。しかし、ド・ゴールを完全に無視した。ド・ゴールはヒトラー軍の侵攻を前にして、一目散にイギリスへ逃亡してきた。ハリマンはチャーチルを動かし、自由フランス政府代表という名目だけの名をド・ゴールに与えた。そして大戦後アイゼンハワーと同じように「英雄」に仕立ててやった。核実験の実験禁止協定でも実務的な協議を重ねてきた。しかしハリマンは「不都合で、不名誉で、かつ裏切りでさえある」と、ド・ゴールを許せなかったのだ。(後略)

(引用終わり)

これはアメリカのジョン・F・ケネディが暗殺された後に行われた葬儀の一場面を記したものですが、少し前まで私がこの「20世紀のファウスト」を引用して記していたアヴェレル・ハリマンのド・ゴールに対しての印象を記しています。

ここでド・ゴールについて注目したいのは、前述した「自由フランス政府(軍)」を実際にド・ゴールは指揮していたのではなく、一目散にイギリスに逃亡したということです。このことからド・ゴールは英雄ではなく、ナチス・ドイツとフランスを守るために戦ったのではないことが明らかになります。しかも、ハリマンがチャーチルを動かし、「自由フランス政府代表」という名目だけの名をド・ゴールに与えた、すなわちド・ゴールはイギリスに一目散に逃亡したにもかかわらず、その名をもらった、ということを考えれば、何かロスチャイルドと繋がっている感がします。先日記したようにチャーチルはユダヤ人であり、ロスチャイルド一族の人間です。

では次にド・ゴールが具体的にしたことが書いてある箇所を同じ「20世紀のファウスト 下巻」から以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1960年2月13日、サハラ砂漠でフランスは核実験を行った。フランスのエリゼ宮殿のベッドの中で寝ていたド・ゴール大統領は、メスメル国防相の電話で目を覚ました。「おはようございます。将軍、原爆の実験は2、3分前に無事成功しました。」

フランスはこの瞬間に、米、ソ、英に次いで4番目の核保有国となった。ド・ゴールはすぐにフランス原子力委員会に祝電を手書きした。「この瞬間、フランスはより強大となり、フランスの誇りは高められた。心底より謝意を表す」

同じ1960年、イスラエルで核施設ディモナの完成が近づいていた。パリのユダヤ王の一人、エドモンド・ド・ロスチャイルドとニューヨークのエイブラハム・フェインバーグ(トルーマン、ケネディに大口の献金をした実業家)の二人が中心となり、ディモナのために資金集めをしていた。ヴィクター・ロスチャイルドも他のユダヤ資本家たちとともに金を出していた。イスラエルの国家予算だけではディモナの完成ができなかったからだ。この年の5月、ド・ゴールはイスラエルからの要請を受けて原子炉とウランの供給に着手するが、その一方で不安を感じていた。ド・ゴールの「回想録」見ることにしよう。

「ベングリオン(私の注:当時のイスラエルの首相)は現代でもっとも偉大な政治家の一人だ。勇気溢れる戦士であり、闘志である。首相には最初に会った瞬間から共感し、尊敬の念を抱いた。(中略)とりわけ、ベルシェバ近くの施設へのわが国の協力を中止した。この施設はウランからプルトニウムを取り出すもので、ある晴れた日突然、この施設で核兵器が完成していないとも限らなかった。」

これは表向きのド・ゴールの姿である。フランス企業はウラン鉱石と発注済みの原子炉部品を納入した。しかし、フランスとイスラエルには密約があった。「フランスは外国による査察を要求しない。イスラエルは原子炉の存在を公表し、ディモナの工事を進めるが、フランス政府は公式の支援を行わない・・・・・」。要するに、「沈黙」のうちにすべてを行おうとしたのだ。こうしてイスラエルの核施設は完成に近づきつつあった。アメリカはフランスとイスラエル両国からこの事実を知らされてはいなかった。

(中略)

1963年、ケネディは部分的核実験禁止条約をソヴィエト、イギリスと結ぶため、ハリマンをパリとモスクワに送り込んだ。ハリマンはド・ゴールを説得し続けた。だがド・ゴールは応じなかった。ケネディはド・ゴールに「核実験禁止条約に加入するように」との親書を送っている。ド・ゴールは「米、英ソと同じ力を備えるのをやめるわけにはいかない」と、ケネディの親書に答えるかたちでパリで宣言した。(後略)

(引用終わり)

つまりド・ゴールは戦後、核実験を行い、フランスを核保有国にし、さらにはイスラエルの核施設の建設にも協力したということです。

では、ここでこの「20世紀のファウスト 」にド・ゴールの正体について記した箇所があったので以下に記します。

(引用開始)

(前略)アイゼンハワー大統領の時代、イスラエルは核兵器製造に情熱を燃やすようになっていた。アメリカに在住するユダヤ人たちが盛んにアイゼンハワー政権内部に入っていった。一方でエドモン・ド・ロスチャイルドがイスラエル建国のために尽力した。それは同時に、イスラエルが中東諸国と戦うための武器を調達するということでもあった。

隠れユダヤ人ド・ゴールが大統領として登場してくるのは歴史の必然であった。それはフランスのユダヤ王ギ・ド・ロスチャイルドの力によった。ギは1950年にユダヤ財団の理事長に就任し、エドモンとともにイスラエル防衛のためにド・ゴールを働かせた。ユダヤ人の兵器商ダッソーが仲介に入った。こうして爆撃機がイスラエルに輸出された。そして核兵器も・・・・・。

ド・ゴールは心変わりし、イスラエルへの武器供与を止めると言った。しかし、殺されかけた。ほんの少しだけ、運がよかっただけのことである。(後略)

(引用終わり)

鬼塚氏によれば、ド・ゴールはユダヤ人(隠れユダヤ人)ということになります(私はそれを書き記した文言をまだ確認出来ていませんが)。

赤い楯16では、ここでド・ゴールについてまとめたいと思います。

第2次大戦中、ナチス・ドイツ軍がフランスに攻めてきた。ド・ゴールは一目散にイギリスに逃げた。しかし実際に戦線で戦っている「自由フランス軍(政府)」の代表という地位をチャーチルから与えられた。しかしそれを与えるように指示したのは、ユダヤ王ロスチャイルドと当時強い絆で結ばれたアヴェレル・ハリマン。そして戦後形だけの英雄に仕立てられた。

戦後はロスチャイルド・フランス家のギ・ド・ロスチャイルドによって大統領に仕立てられ、イスラエルの核施設建設などイスラエルのために働かせられる。また、フランスの核実験を成功させ、ケネディの強い説得があったにもかかわらず、核実験禁止条約には批准しなかった。

そして政権末期に心変わりし、最後の最後にやっと改心したのか、「イスラエルへの武器供与を止める」と言った。だから殺されかけた。だが運が良かったために生涯'核反対'を貫いたケネディのように死なずに済んだ。

といったところでしょう。英雄では全くもってなかったわけです。

そして最後に強調しておきたいのは、ロスチャイルドが裏で暗躍して大量虐殺された国は、私が書いたこの文ではアルジェリアです。前回ロスチャイルドが裏で暗躍して大量虐殺されたことについて私が書いた文は、それはイランでした。前々回のそれはウクライナでした。たった私の書いた直近の文3つだけで3カ国もの国民が大虐殺されたこととが分かったということです。