大安心というもの。
2017年6月17日
「不安常住」って確かにそうかもしれないけれども、常にいつでも意識しているのではしんどいばかり。
お釈迦様も人生当たり前のそこの処に気が付いたまでと言う森田正馬。 でも、それは本当かとこの頃、思う。
本書中にも実際、悟ってしまえば解脱すると書かれてある箇所がある。
禅仏教でも 悟ればそれで由ともしていない。

また、森田療法の本を書いた作家の帚木氏のそれのように、重篤な病に苛まれた 詩人の境涯を描いて、森田療法と対照させて、半ば そんな 生きざまを美化している風な著作もある。 病床にあっても尚且つ、不安と戦いながら生きたという有り様もどうなのかと思う。
でも、苦難にめげずというのは尊いけれども、実際はそんな不安だらけの人生、毎日を誰も望まないだろう。 自分はそう思う。不安常住だという。確かにそうかもしれないが、ここで、神経症でない人たちも世の中には沢山いる。
彼らは、病的な不安感情に苛まれてはいない。

そんな処で、「安心について書かれた本や著作がないことにも想いが及ぶ。」
amazon の中を検索してみると、安心についての、それも肯定的な著作は皆無。

あるのは、不安や苦痛をどうにかしようといった本ばかり。 森田正馬自身も、「健康の定義は難しい」と書いている。

諺に苦あれば楽ありという。これはでも、相対的な言葉や見方。本書も神経疾患の本なので、神経質症状や状態に基をおいての論旨展開となっている。どうにかしようというそのことも相対的な範疇から出ていない。

長らく不安神経症を通ってきた自分だが、相対的な更なる上の処に本質的な何かがありそうに思う。(少し飛躍するけど) だから自分はヤスパースの限界状況、有限性を超えるか認めた処に「安心」があるのだと思う。
誰だって、健やかで、安らいで生きていきたいではないか。
そのためには、人それぞれ各人の工夫がいる。

森田も結局は、医家なので、疾患から出発する論調になってしまうのだろう。不安神経症も病状であって、これで、そうはならない人も大勢いる。人や、物事は本当に相対の域を出ないのだろうか。自分はでもそればかりとも思えない。

森田も書けないでいるけれども、治ってしまうと病気であったことなど忘れてしまうという、点である。
そこではもう、安心な状態といえるのではないか。 森田療法の本も一通り学んできてもう、どうでもよくなってしまった。 敢えて読んでいると、こうした自らも通ってきた疾患のことも 病識的に思ってしまうこともあって、それではいくらか、まずい。

「疾患を基として健康を見る、思う」のでは どっか、まずいような気もする。
そこら辺を凌駕して、ふっと実存や希望をいざなってくれるのがヤスパースの超越者の哲学になっている。 この辺については、文庫の ヤスパースの「哲学入門」に行かざるを得ない。
安心や健康を基として出発すれば 他の凡そ何事か素晴らしいことができそうである。でも、これも私のレビューです。

補足

森田正馬は症状が主観的なものであると言っている。 関連して気が付いたことだが 森田療法にも矛盾があって、悟れば直るともある。でも、その悟り自体も主観の域を出ない質のものである。治す = ということが 治療ともとれるけれども 本人が直ったと言うことになるそこでも客観がないわけである。
盛田ではその辺をも自力で 治るとして、それを自然療法と自ら言っている。
だとしたら、森田療法自体が 療法と言って憚らないでいること自体も客観のない怪しげなものにもなってくる。
でも悟り自体、自分本人自ら治ってしまうという 所謂、がいぶからの医術が 意味ないのではないかとの疑問も生じてくる。
 ひょっとしたら、森田神経質に限ったことだが、症状で起こる疾患自体も哲学的な悩みから発展したものというに過ぎなくて 哲学的煩悶ともいえるのであるとすると、病気ではないということになる。本レビューで 健康といったことにふれたのもそれである。
心身症的な症状については 池見酉次郎の心療内科があるのだけど いかんせん、文献が少ないし池見さんの著作も極めて少ない。
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