【平成】今上天皇の逸話・和むエピソードまとめ

平成時代の今上天皇についての逸話・和むエピソードをまとめました。本名は明仁。1933年(昭和8年)12月23日生まれ。在位期間は1989年(昭和64年)1月7日から今に至ります。昭和天皇の第一皇男子。温厚な立ち振る舞いや国民に真摯に向き合う姿には敬服します。

更新日: 2016年05月29日

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muremureさん

今上(きんじょう)天皇という表現について

現在在位している天皇陛下を指す。
仮に現在の今上天皇(明仁)が崩御された場合「平成天皇」と呼ばれることになる。

ここでは平成時代の今上天皇(明仁)について記述します。

今上陛下の略歴

2015年3月現在81歳

本名は明仁。
1933年(昭和8年)12月23日生まれ。
在位期間は1989年(昭和64年)1月7日から今に至ります。
昭和天皇の第一皇男子。
母は香淳皇后。
御称号は継宮(つぐのみや)。
お印は榮(えい、桐の別名)。



写真は2009年7月10日、リッチモンド・オリンピックオーバル訪問時の今上天皇。

1933年(昭和8年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。
1952年(昭和27年)に18歳で成年して皇太子となり、1989年(昭和64年)に昭和天皇の崩御を受け践祚、皇位を継承した。
この間、1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し、浩宮徳仁親王(現・皇太子)、礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女がある。

2014年3月現在、80歳である。高齢であるものの、公務・宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。
年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行う。


魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。

今上天皇の和むエピソード

1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王

幼少時は豆腐料理を好物とした。

慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間塞ぎ込んだ。
その後、「これからは、黙ってこんなことはしないでね」と抗議した。

学習院初等科時代に、色黒だったことから蚊取り線香の素焼きの香炉を想起させたため「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。

学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。

1952年(昭和27年)、立太子後、市民の歓呼に応える

愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファ・ロメオを運転したこともある。このほかホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。

軽井沢で学友のアルファ・ロメオをドライブした際には、護衛としてパトカーに乗車した警察官が随伴したが、警察官のパトカーはアルファ・ロメオに比べ性能が劣っていたため、ついていくのに必死の思いであったという。

学生時代(学習院高等科3年の試験終了日)学友である橋本明(龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、
学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。
「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。

新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を、
「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。
このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。

高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、
洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、
当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、
銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。

もちろん、連れ出した学友が警察と皇室関係者にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
これが有名な『銀ブラ事件』である。

戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。
またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。

1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。
大型客船内には日本人向け遊具で碁盤と碁石も積まれていた。
船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。
特に麻雀は一等船客対抗麻雀大会に参加し日本式のみならず中国式の麻雀も楽しんだ。
クイーン・エリザベス号に乗り換えてのアメリカからイギリスへの旅路では朝海浩一郎公使や報道陣と公使持参の牌でサザンプトンに着くまで熱中したという。
この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。

1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。
しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。

1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。
宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。
しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではないためお妃候補としてマークされることはなかった。
徐々に皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると判ると、皇室内外から猛反対を受けた。

最終的に1958年(昭和33年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。

「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。

昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。

「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答を拒否するのが普通である。
ただし、皇太子時代に一度、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を好きな番組に挙げた事がある。

1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。
これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。

冬、私(幼少の秋篠宮)がペットにしていたテンジクネズミを池で泳ぐかと思って泳がしました。
そうしたら心臓マヒを起こして死んでしまいました。ちょうどその時父(今上帝。当時皇太子)がそこを通りかかりました。
「何をしているんだ?」と「泳がしたら死んじゃった」と私が言ったのです。そうしたら次の瞬間わたしは池に放り込まれていました。(笑う)
ええ、次の瞬間、私がテンジクネズミのようでした。

秋篠宮殿下が幼少期のエピソードとして語った。

1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて、皇太子妃に対して「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」と発言。
この発言は報道陣の爆笑を誘った。

1989年(昭和64年)1月7日即位。

昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。
また、皇居のある千代田区には住民税を納めている。

多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。
あるミュージシャンとの会話でデーモン閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティを務めるラジオ番組で紹介されたことがある。

登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。

1992年(平成4年)に、アメリカ合衆国第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。
特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北をジョークにするなどして話題を呼んだ。

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