序-”オイラーの手紙”とは?
レオンハルト(またはレオナード)・オイラーについては、本HPの
Power of Physics
で既に紹介済ですので、流体力学に興味がない方でも一読いただければ幸いです。
さて、最も多産な科学者といわれた天才オイラーは50代になっても日々忙しく研究に没頭していました。(既に片方の目は見えなくなっていたようです)
ある日、レオポルド3世であるアルンハルト・デッサウ公から娘に何かわかりやすい科学教育をしてもらえないかと依頼されます。そこでオイラーはこれを大変な名誉として受け止め、公の要望に答えるべく公女宛の書簡の形で当時の様々な科学の問題とその原理を次々に解説して見事にその責務を果たしていきます。
その中には有名なデカルトはもちろんニュートン、ウォルフのモナド論やその他の科学者、当時はそう呼ばず自然哲学者や哲学者(形而上学者)の間に流布していたオカルト論についても言及しています。
手紙は、1760年4月19日、手紙1から始まって1762年5月12日、手紙119に最後の1つを加えた膨大な量で、421ページもあります。
(また英語訳には書いた時期も内容も異なるものがもう一つ存在します。調査中。)
それはそうと、オイラーは1年余に渡り手紙を執筆しています。それだけでもオイラーがいかに科学入門編の執筆に力を入れていたのかがわかります。というより、これはむしろ入門編という範疇を超えています。では一体何故でしょうか?当時既にヨーロッパには大学が存在し、さまざまな研究が行われていましたが、それは王族、貴族を中心としたごく限られた裕福な人々のためのものでした。一般の人々はまだオカルトと呼ばれる迷信の中で生きていたのであり、科学とは程遠い生活をしていたのでした。
オイラーは大きさや距離の概念に始まり、音楽の音階について、万有引力の説明にしても、数式をほぼ使用していません。そうすることで、”いつか”、この書簡が庶民に対し科学の啓蒙を果たすことを、オイラーは期待して執筆に力を入れたのではないでしょうか?
しかしここで一つ疑問が生じます。彼の書簡が印刷され書籍として出版されたのは事実です。しかも当時の一般市民の間で多く読まれたとウェブ上で同じことが繰り返し紹介されています。しかし、ファラデーが生きた18世紀末~19世紀でも、まだ書物は大変高価で且つ貴重なものであり、1冊作るのにも莫大な費用がかかるものでした。(ここで、なぜファラデーの名前を出したかは彼の伝記を呼んだ方ならハハーン!と思うことでしょう。)
あの当時、一般庶民が書物を手にする機会はほぼなく、庶民が教育を受ける制度などなかったため文字を読める人も少なかったのです。まして400ページを超える内容の書物など論外でしょう。手紙1のみでさえ読んで理解できたかどうか怪しいものです。
やはり”いつか”なのです。
よって、科学教育のために上流階級や学者の間で購入(または製作依頼)したり、回し読みされたことは十分あったはずですので、そういう意味ではヨーロッパ中に広まったといえるでしょう。内容の吟味は常に必要です。
オイラーが期待した”いつか”の日は、日本では約150年後の20世紀になってようやく実現しました。手紙の内容は今日では当たり前であったり、誤っていたりすることもありますが、当時の最高の知識をもったオイラーの生き生きとした解説は、数式を使用していないために少々くどいところもありますが、あたかも目の前で講義をしていただいているような錯覚に陥ることがあります。
そんなすばらしい手紙-18世紀の科学入門編-をご紹介したいと思います。
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