意識の謎や不思議を扱った新書としては、下條信輔の『サブリミナル・マインド』(中公新書)、『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書)という非常に面白い本がありましたが、その下條信輔の研究室にいたこともある著者が、意識に関する研究の最先端を紹介し、さらに意識の謎を解くための方向性を示した本。
 下條信輔の本が人間の経験するマクロ的な現象から意識の謎を探ったのに対して、この本では、著者が脳神経科学者ということもあって、脳やシナプスといったミクロ的な面からアプローチがなされています。
 紹介される実験や理論はやや難しいものも多いのですが、その筆致は非常に「熱く」、科学の最先端における人間のドラマといったものも感じさせ、読ませる力があります。

 目次は以下の通り。
第1章 意識の不思議
第2章 脳に意識の幻を追って
第3章 実験的意識研究の切り札 操作実験
第4章 意識の自然則とどう向き合うか
第5章 意識は情報か、アルゴリズムか
終章 脳の意識と機械の意識
 
 AIが発達し、人間を追い越す、あるいは、もはや追い越していると言われている昨今ですが、果たしてAIが意識を持つようになるのか? というとそれはなかなか難しい問題でしょう。
 「意識があるのか?ないのか?」というのは外からは観測しがたいものですし、そもそも何をもって「意識がある」と判定できるのかというのも簡単に決められることではないからです。

 しかし、人間には意識があります。他人の顔を見れば「顔を見ている」という感覚がありますし、音楽を聞けば「音を聞いてる」という感覚があります。
 一方で、最近のデジカメやスマホのカメラには顔を認識する機能がありますが、デジカメに「顔を見ている」感覚があるかというと否定的に考える人が多いでしょう。
 この「顔を見ている」「音を聞いている」といった感覚をクオリアといいいます。人間の脳も基本的には複雑な電気回路にすぎないはずなのですが、デジカメにはクオリアは発生せず、人間の脳には発生する。これがクオリア問題、そして意識の問題の難しさです。

 この本では人間の五感の中の、特に視覚に重点を置いて話が進められています。
 私たちは「ありのままの世界」を見ているように感じているかもしれませんが、実際には視覚から得られた情報を脳が補ったり補正したりしています。錯視図形などは脳が勝手に視覚を補ってしまっていることを示す例です。
 そして、ときに「見ているはずなのに見ている感覚がない」ということもあります。2つの図形を片方の目でそれぞれ見るようにすると、両方見ているはずなのに片方の図形の模様しか見えないことがあるのです(19pの図1-4参照)。これを両眼視野闘争といいます。また、脳腫瘍の治療の為に第一次視覚野を切除された患者で、本人には見えている意識がないのに近くにある対象物を無理やり答えさせてみるとかなりの正解率で当ててしまうということが報告されています(17p)。どうやらクオリアなき視覚というのも存在するようなのです。

 DNAの二重らせん構造を発見し、意識の科学の黎明期にも貢献したフランシス・クリックは「あなたはニューロンの塊にすぎない」という言葉を残していますが(23p)、意識の源にもニューロン活動があります。
 このニューロンの活動については研究も進み、人間の脳が基本的には複雑な電気回路であることが突き止められました。しかし、その電気回路になぜか意識が宿るのです。

 では、脳のどこに意識は宿るのでしょうか? その問題にチャレンジしたのが著者の恩師でもロゴセシスです。
 第2章では、このロゴセシスの実験をはじめとしてさまざまな話題が盛り込まれており、ついていくのが大変な部分もあるのですが、冒頭に置かれた「良い実験」、「普通の実験」、「悪い実験」の話をはじめとして、興味深い話題が多いです。
 ここでいう「悪い実験」とはいかなる実験結果が出ようとも仮説に影響を与えない実験、「普通の実験」とは狙い通りの結果が出れば大きなインパクトが出る実験(だからこそ狙い通りの結果を出さねばというプレッシャーもあり、研究不正につながりやすい)、「良い実験」とは結果のいかんにかかわらず重大な知見をもたらす実験です(54-61p)。

 ロゴセシスの実験とはサルに両眼視野闘争を経験させ、その最中にニューロン活動を計測しようというものです。
 ロゴセシスはサルが画面上の一点を見つめられるようにすることから訓練を始め、3年かけて一匹のサルが近く報告を続けられるまでにこぎつけました。そして、サルに両眼視野闘争を経験させることに成功したのです。
 
 視覚の視覚対象の形を処理する経路は、第一次視覚野→第二次視覚野→第三次視覚野→第四次視覚野→IT(下則頭葉皮質)となっています。第一次視覚野では明点・暗点だったものが処理が進むに連れてそれが線分になり、さらに簡単な図形になって、さらには図形アルファベットと呼ばれる基本的な部品(顔や手などを特別に認識)として認識されます(86-90p)。
 ロゴセシスはサルに両眼視野闘争を経験させると、ITの8割を超えるニューロンが活動することを突き止めました。ただ、ITといえども両眼視野闘争をとは関係なく発火しているニューロンもあり、ITでも意識と無意識は共存しているらしいのです(95-99p)。
 その後、ロゴセシスはマックス・プランク研究所とマサチューセッツ工科大学からオファーを受けますが、サルの脳の動きをより詳細に研究するためのサル用のfMIRを開発を受け入れることを条件にマックス・プランク研究所を選び、fMIRとニューロンの同時計測に成功しました(113-114p)。

 こうした研究などを経て、現在ではNCC(「固有の感覚意識体験を生じさせるのに十分な最小限の神経活動と神経メカニズム」(117p))が探求されています。
 これには、例えば網膜なども含まれるように思えますが、夢の存在を考えると、網膜抜きの視覚体験というものも存在します。脳のどこかにNCCを担う場所があると考えられるのです。

 第3章でも引き続き、意識の宿る場を探す実験が紹介されています。
 まずはTMS(経頭蓋磁気刺激)と呼ばれる方法です。これは強力な電磁石によって頭蓋の上から脳に磁場を加え、そこから発生する電流でニューロンを直接刺激するものです。著者も経験したことがあるそうですが、この刺激を受けると本人の意志とは関係なく腕が肩よりも高く上がったそうです(130-132p)。
 このTMSを使って下條信輔らは、視覚刺激が未来を先取りしているという奇妙な現象を発見しました(132-134p)。

 ここで登場するのが有名なベンジャミン・リベットの実験です(下條信輔翻訳の『マインド・タイム』で詳しく紹介されている)。
 リベットはまず、開頭中の患者の脳に対し直接電気刺激を与える実験を行いました。この実験では刺激が0.5秒以上続かないと知覚されないことを明らかなり、それ以下の時間では知覚されなことがわかりました。さらに、リベットは脳への直接の電気刺激と皮膚刺激を同時に行う実験をしました。脳への電気刺激は0.5秒持続しないと知覚されないので、皮膚刺激のほうが早く知覚されそうなものですが、驚くべきことに両者は同時に知覚されました。どうやら皮膚刺激のほうも0.5秒遅れて知覚されており、しかもいざ近くが発生したときにはその近くのタイミングは遡って知覚されているようなのです(135-138p)。

 野球のピッチャーが投げる160キロのボールは0.4秒で打者に到達します。もし知覚に0.5秒の時間が必要なら、その球は誰も打てないはずです(気づいたときにはキャッチャーミットに収まっている)。しかし、160キロのボールを打つ打者は存在します。これをどう考えればいいのでしょうか?
 バッターのスイングは打者が球を意識する前から始まっています。そして、無意識のうちに動き出したバットが球を捉えます。ここでのインパクトも0.5秒遅れて経験されているはずですが、前出の遡った知覚によって一連の動作はスムーズに体験されるのです。

 リベットは動作は無意識のうちに始まるといっても、それを途中で止めることもできるということから自由意志を擁護しようとしましたが、そのドタキャンがいつ準備されているかということを考えると、これら一連の実験は自由意志を否定しかねないものです(リベットが自由意志を否定していないにも関わらず、「リベットの実験=自由意志の否定」と書いてある本があってずっと疑問に思ってきましたが、今回この本を読んで納得できました)。
  
 この本ではこの自由意志の否定を補強する実験として、2つの顔写真を見せて1枚を選択させて被験者に渡し選んだ理由を述べてもらう作業で、選択した写真を渡す瞬間に選ばなかったほうの写真をすり替えても被験者は気づかずに選んだ理由を滔々と語りだしてしまうというものを紹介しています(147-149p)。
 「脳が、自由意志という「壮大な錯覚」をわれわれに見せている」(149p)のです。

  このあと、3章では「オプトジェネティクス」と呼ばれる実験手法と、著者らはその手法を使ってマウスに対して行った実験とその結果が紹介されているのですが、かなり専門的なのでここでが割愛します(内容は難しいですが、実験アイディアを盗まれすっぱ抜かれそうになったエピソードなどは興味深いです)。

 第4章では、もしNCCが突き止められたとして、それで意識の謎が解けるのか? という問題がとり上げられています。    
 しかし、その答えは否です。目の前のリンゴに対してあるニューロン群が発火することが確かめられても、リンゴを見た「あの感じ」がなぜその神経回路から立ち上がってくるかはわからないからです。

 哲学者のデイヴィッド・チャーマーズはサーモスタットにも意識は宿ると主張しました(182p)。これは荒唐無稽な主張にも思えますが、主観と客観の間には大きな隔たりがあり、意識について何もわかっていない現在では、この主張を簡単に退けることもできないのです。

 これを突破する一つの方法は、「意識の自然則」を見つけることです。あらゆる科学の基盤には万有引力の法則や光速度不変の原理のような自然則があります。
 この自然則について、まだまだ探求は始まったばかりなのですが、この第4章の後半では自然則を見出すためのさまざまなアイディア、そして機械が意識を持つのか否かという問題が紹介されています。

 第5章は、「意識は情報か、アルゴリズムか」と題し、意識とは何かという問題が改めて追求されています。
 まず、意識を情報と考える見方ですが、ここでは複数の情報が統合されることで、個々の情報の和を超える情報が手に入ることがあることがポイントになります。センサーは隣のセンサーのことを気にしませんが、脳では複数のニューロンの情報が統合されています。そして、この統合が意識を生み出すというのです。

 しかし、著者は情報はそれだけでは意味を持たず、解釈されることが必要なことから、意識を情報と捉える見方に否定的です。
 著者が意識の自然則の客観的対象として提案するのは、情報としてのニューロンの発火ではなく、その情報を処理・解釈する「神経アルゴリズム」です。

 著者は脳の中に一種の仮想現実があると考えます。現実世界の一部分が脳の中だけで再現される夢はそのもっとも特徴的な例です。また、夢以外でも241pの錯視図形などを見れば、脳が「見え方」をつくりあげていることがわかります。他にも、あるはずのない手が痛む「幻肢」など、脳が外の世界を認識し、身体を動かすために、ある種のシミュレータを動かしていることが推定できます。

 このあと、生成モデルや逆誤差伝播法について説明があるのですが、ここも自分に噛み砕いて説明する能力がないので、詳しくは本書を見てください。
 視覚というと、網膜で捉えられたものがだんだんとリアルな形へと処理されていくと考えられがちですが、どうやら記号的な表現から低次の表現をつくりだす機能もあるようで、この実際に見たものと記号の誤差の計算と修正が脳の中で行われているというのです。
 
 このモデルはリベットの見つけた「意識の遅れ」の問題もうまく説明します。生成モデルの神経アルゴリズムでは、生成誤差(生成過程の結果と感覚入力との間の誤差)が最小になるまで繰り返し計算されます。そして、その計算が終わるまでその結果を意識からブロックする仕組みがあると想定されるのです(277p)。
 バッターはピッチャーが投げた瞬間にそのボールに反応します。しかし、そのボールの正確な姿は処理しきれていません。とりあえずの刺激に体は反応しますが、その正確な姿は修正を受けた後に遅れて登場するのです(278-279p)。

 終章では意識を機械に移植できるのか? という問題がとり上げられています。そして終章の中のコラム「意識の自然則最高」の中で、著者は次のように述べています。
 神経アルゴリズムとしての生成モデルは、世界を取り込む鏡のようなものと考えられる。表面の見てくれだけでなく、その因果的関係性を含めて取り込む鏡だ。その取り込みが生じたときに、取り込んだなりの感覚意識体験が生じるのではないだろうか。(中略)
 意識の自然則の一般形は、この「取り込む」にあるのだろうと筆者は考えている。必ずしも、地球型の中枢神経の形をとっていなくとも、何かが何かの因果的関係性を取り込んだとき、そこには、取り込んだものの感覚体験=クオリアが生じるのではないだろうか。
 だとすれば、自動運転車などには、すでに意識が生じていることになる。各種センサー情報をとおして、外界の因果的関係性を取り込み、事故回避などの自らの行動に反映させているからだ。(303-304p)

 必ずしもわかりやすい本ではないですし、自分に脳科学などの知識があまりないこともあって、このまとめも不十分なものだと思います。また、専門家が見れば、やや「勇み足」に思える部分もあるのかもしれません。
 それでも、意識の謎を解くために積み重ねられた実験や研究の巧妙さや大胆さと、その実験や研究を踏み台にして、さらに探求を進めようとする著者の熱意が伝わってくる本です。若い人の中にはわからないなりにも読み通して、この本の熱に「やられてしまう」人もいるのではないかと思います。この本はそういう「エネルギー」を持っています。

脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦 (中公新書)
渡辺 正峰
4121024605