これまでマスメディアやインターネットなどで、「東京電力福島第一原発事故によって飛散した放射性物質の影響で、福島の子どもたちに甲状腺がんがたくさん発生している」という主旨の言説が繰り返されてきた。しかし一方で、2016年度の県民健康調査検討委員会の中間とりまとめ報告(注1)、さらに2013年のUNSCEAR(原子放射線に関する国連科学委員会)とそれに続く白書(2017年現在で3報)をはじめ国際的な専門機関は、「福島第一原発事故後に放射線による影響で子どもに甲状腺がんが増えているとは考えられない」と公表している。(参考:「福島における甲状腺がんをめぐる議論を考える――福島の子どもをほんとうに守るために」)
(注1)県民健康調査による中間とりまとめ(平成28年3月福島県民健康調査検討委員会)。なお、その後明らかになったデータによっても、検討委員会はこの見解を変更していない。
事故後の福島に科学者として関わってきた東京大学名誉教授・早野龍五氏と、福島県立医科大学准教授・緑川早苗氏に、福島県における甲状腺検査のこれまでとこれからについて伺った。緑川医師は、福島県で甲状腺検査が開始された2011年10月から現在に至るまで、日々検査の現場に立ち続けている臨床医である。(対談2017年7月、執筆同年12月)
はじめに
2011年10月、福島県は、福島第一原発事故後の県民健康調査の一環として、事故当時18歳以下および2011年内に生まれた方約38万人を対象に、甲状腺のスクリーニング(その検査の対象となる疾患、この場合は甲状腺がんの症状や兆候は出現していない=病気にかかっていない人を対象にした検査)を開始した。検査の目的は当初「県民の不安の解消」と「県民の心身の健康を見守ること」とされていた。
1986年のチェルノブイリ原発事故の後、数千人の子どもたちが「甲状腺がん」と診断されて手術を受けた。日本人を含む世界中の医師が現地に入って検査と治療に当たったこともあり、世界中で「チェルノブイリ原発事故の後、子どもに甲状腺がんが増えている」というセンセーショナルな報道も繰り返された。その印象は人々の心に深く残り、福島第一原発事故の後、子どもの甲状腺がんを不安視する声が多くあがった。検査の要望を受け、福島県は甲状腺検査開始に踏み切った。
県が検査を委託した福島県立医科大学では、高度な設備や技術とともに、受診者の個人情報を守るための厳しい体制を整えて甲状腺検査を行っている。もし原発事故直後の段階で福島県が公式に甲状腺検査を始めなかったとすれば、甲状腺がんについて不安を抱えた多くの人々は、各自さまざまな民間の施設で個別に甲状腺検査を受けていた可能性も高い。元来甲状腺の専門医は少ないため、このような状況に陥ったとすれば、基準の不確かな検査や治療が行われたばかりか、子どもの個人情報の保護が十分に担保されなかったおそれもある。
「検査をはじめない」という選択肢はなかった
早野 2011年3月11日、先生はどこで何をしておられたか、覚えていらっしゃいますか。
緑川 秋葉原で間脳下垂体腫瘍学会に参加していました。交通機関も混乱しておりましたし、福島にはとても帰れる状況ではなく、「私はもう子どもには会えないのかもしれないな」と思いました。その後運よく帰宅することはできました。24時間くらいかかりましたけれど。
福島に帰ってからしばらくの間は、原発事故によって一体どんな影響があるのか、これから何が起こるのか、と不安な日々を過ごしていました。ただ、福島に住む一人の母親としては、「もし子どもがたくさん被曝してしまったのなら、チェルノブイリ原発事故のときと同じようなことになってしまうのかな」と、漠然と危惧はしておりました。そんななかでしたから、「甲状腺検査を手伝うように」と言われたときにも、正直なところ「それはやらなくちゃいけない」と思いました。
このときに言われた「甲状腺検査を手伝う」というのは、要するに「プローベ(=プローブ。超音波検査用の医療器具)を握れ」ということでした。検査開始当初は、プローベを握る人(超音波機器を使った検査の技術と知識を持つ医療従事者)がとにかく足りなかったんです。
検査開始当初の検査会場は公共施設で、エコー機(超音波検査機器)も6台しかありませんでした。6台のエコー機で、毎日500人から1000人を対象に超音波検査をしていました。もう、公民館にあふれるほどの方々が、毎日検査を受けに来られていました。
早野 あの当時の社会の状況を考えれば、県にとって「甲状腺検査をしない」という選択肢はなかったでしょうね。しかし実際には、そもそも福島で、初期被曝線量が非常に高いという子どもは見つかっていなかった。とりわけ、飯舘と川俣のデータは住民登録されている子どもの約30%を測定しています。(注2)。検査に従事されはじめた当初、そういった情報はすでにご存知でしたか。
(注2)Kim et al, Internal thyroid doses to Fukushima residents-estimation and issues remaining, J. Radiat. Res. 57 (Suppl 1): i118-i126, 2016
(注2の論文より)飯舘村、川俣村、いわき市で測定された1080名の子どもの甲状腺線量測定結果
(ただし、上掲図表中横軸の数値を甲状腺等価線量に換算した場合、0.2μSv/時が、1歳児の甲状腺等価線量100mSvに相当する)
緑川 毎日検査の現場でプローベを握りながら、一方で放射線を専門とされる先生方から放射線のことを学んでいました。そして、少しずつ「どうやら、それほどたくさんの被曝をした人はいないようだ」ということがわかってきました。同時に、「じゃあ、甲状腺の検査をする意味はどこにあるの?」という疑問も湧いてきました。
早野 ああ、そうだったのですね。それほど被曝をしなかったらしいということもご存知で、そういった疑問まで抱えられながら、日々プローベを握られていた。
緑川 甲状腺検査を始めるということ自体は決まっていました。そして検査会場には毎日、不安を抱えたたくさんの住民の方々が、「この子の甲状腺を検査してほしい」と受診に来られるんです。プローベをあてようとすると、多くのお子さんたちは怖がって泣き叫びます。私は、そうやって泣いた子を押さえて検査をしていました。
お母さんたちには、「お子さんをこんなに泣かせながら無理やり検査をするのはよくありませんから、せめていったん外に出て、気分転換して、お子さんの気持ちが落ち着いたら検査を再開しましょうか」と声をかけるようにしていました。
でも、お母さんたちは必死です。「いいえ、泣かせてもいいから、押さえつけてもいいから、今すぐ検査してください!」とおっしゃる。
そんなやりとりを、毎日していました。そして「本当に、この子たちにこんなに辛い思いをさせなければいけないようなことなのだろうか」という思いがふくらんでいきました。
この検査はなんのために行われているのか
2011年10月から2014年3月までに実施された甲状腺検査を「先行検査」と呼ぶ。チェルノブイリ原発事故後甲状腺がんが増加するまでに相当年数がかかったという知見から、この時期の甲状腺の状態は、原発事故とそれによる放射線被曝の影響を考慮する必要がない状態であると考えられる(ベースライン)。一方、2巡目(受診者にとっては2回目)以降の甲状腺検査を「本格検査」と呼ぶ。
福島県県民健康調査における甲状腺検査は、県民の不安を解消するという目的とともに
「先行検査と本格検査との結果を比較することにより、甲状腺の状態への放射線影響を把握するための調査」という側面を持つとも考えられている。
緑川 「福島の子どもの甲状腺に、放射線による影響はありません」と科学的に言えるようになることには大切な意味があると思っています。
一方で私たち臨床医は、日々患者さんと向きあいながら仕事をしています。この検査でも、現場で毎日子どもたちやお母さんたちと向き合うことが私の仕事でした。そして、検査やその結果についての過剰な心理的負担を減らすことが私の役割だと考えていました。
早野 過剰な心理的負担を減らすためには、検査やその結果について丁寧な説明をする必要がありますね。しかし、当初先生は1日に1000人近くのお子さんを検査しておられた。毎日1000人近いお子さんたちやお母さんたち、お一人おひとりに対して、そういったことを行うのは非常に難しいことだったのではないでしょうか。
緑川 はい、非常に難しいことでした。しかも、一次検査(超音波検査)の結果は、判定委員会を通して後日確定するという流れになっておりますので、そもそも検査の場で結果についての詳しい説明をすることはできません。また、プローベを握る人たち各自が説明をするということにしてしまうと、すべての場面で全員が適切な対応をすることができるとも限りませんので、かえってよくない効果が出てしまう可能性も考えられました。そういったさまざまな状況から、「検査をしてすぐにその場で受診者に説明することは控えましょう」という方針がありました。
検査を受ける子どもたちやお母さんたちのご心配やご不安を思うと、心苦しかったです。せめて、「この検査がそもそもどんなものなのか」、また「検査の結果をどう受けとめればいいのか」、そういった基本的なことを、しっかり説明できる機会が欲しかった。それは、当時の私にとって、切実な願いでした。
2013年になって、検査会場ですぐにというのではなく、「別途きちんと場を設けて説明会を開きましょう」ということになりました。そこでさっそく、まずはお母さんたち向けの出張説明会を始めました。
早野氏
子どもたちは甲状腺検査の目的を知らない
福島での甲状腺検査の一時検査結果はA、B、C判定に分類される。このうち二次検査が不要とされるA判定がさらに2つに分類されている。A1は「嚢胞(のうほう)や結節が認められないもの」、A2は「5.0mm以下の結節や20.0mm以下の嚢胞を認めたもの」である。
「嚢胞」とは比較的一般に多く見られる液体が溜まった袋状のもので、検査結果には「検査所見」として記載はされるものの、がん化することはない。成長期の子どもでは嚢胞が出たり消えたりしやすいため、検査を受けた時期によって判定が変わることもある。2012年後半、「嚢胞」という初めて見る言葉を不安視する声もあり、一部誤解を招くような情報も錯綜し、混乱した時期もあった。
なお、5.0mm以下の結節についての二次検査(精密検査)は控え、次回検査(これは、「現時点ではとくに精密検査や治療の必要がない」という意味である。福島県では、現在定期的に甲状腺検査を行っているため、こういった表現になる)としている。また、中に一部細胞がともなう(「充実部分をともなう」という)嚢胞は「結節」(細胞のかたまり)として扱う。ただし、この場合は含まれた細胞の大きさではなく、液体を含んだ嚢胞そのものの大きさで判定するため、A2あるいはB(5.1mm以上の結節や20.1mm以上の嚢胞)の判定となっても実際には問題がない場合が多い。
早野 通常病院を受診される方は、なんらかの症状が出たからいらっしゃるわけですね。そして甲状腺がんについていえば、そういった方の数はあまり多くない。これまでに無症状の子どもに対する甲状腺の大規模なスクリーニングはされていませんから、やってみてどれほど見つかるかはそもそもあまり予想できそうもありません。もしかしたらもう少し少なく見積もられた方もいらっしゃったかもしれません。
ところが、実際に先行検査をしてみると、かなり多くの甲状腺がんないしがんの疑いがある方が見つかった。そしてそれが発表されるたびに新聞やテレビが大きくそのことを報道しました。この時期、先生はどんなお仕事をされていたのでしょうか。
緑川 精密検査(二次検査)をお勧めすることになっているB判定の方は、先行検査で2000人以上おられました。ですが、実際に甲状腺がんと診断されたのはこのうちの5.6%でした。つまり、多くのB判定の方は悪性ではなかったということです。でも、B判定のお知らせを受け取られた方は、もう「悪性に決まっている」と思い込んで、二次検査を受けに来られるんです。
たとえば、小学生が診察室に入ったとたんに「うわーっ」と泣き崩れることがありました。私の当時の仕事は、そういった場合に、泣いている子どもを検査室から連れ出して、とにかく落ち着けるような部屋に行って、今その子が感じている不安や恐怖など、なんでも話せるような時間をつくることでした。今は看護師さんたちがなさっている、甲状腺検査の「こころのケア・サポート」に近い役割かもしれません。
早野 2014年の医事新報では検査のあり方に言及され、また2016年3月に福島県立医科大学で開かれたシンポジウムでは「子どもたち自身が甲状腺検査を受ける理由を知らない」というところまで踏み込んでお話しになりましたね。県から委託を受けて検査をされているというお立場上、なかなか勇気の要ることだったろうと思います。こういったことをおっしゃるようになった背景には、長い間、子どもたちやお母さんたちのさまざまな思いと向き合ってこられたということも関係しているのでしょうか。
緑川 はい、子どもたちやお母さんたちと過ごす時間を積み重ねていくにつれ、やはりこの検査による子どもたちの心や体への負担が心配になっていきました。たとえば、二次検査では、超音波検査のほかに血液や尿の検査をします。もっと詳細な検査が必要な場合は、細胞診(穿刺吸引細胞診)をすることもあります。本来、この細胞診という検査は、なんらかの症状が出た方や、手術が必要になるかもしれない兆候があった場合に行われるものです。それも、受診者にとってのメリットとデメリットを緻密に考え抜いた上で、非常に慎重に行われるべきだと言われている検査です。
ところが、福島県ではスクリーニングの結果、無症状の方にもこの細胞診を行っています。しかも、対象は子どもです。細胞を採取するためとはいえ、子どもにとっては、首に針を刺されるということは大人以上に怖いことでしょう。
子どもたちを対象にした説明会(出前授業)で、「甲状腺はどこにあるかということを知っている?」という質問をすると、子どもたちの多くは「ここ!」と言いながら正しく自分の甲状腺のある場所を触ります。でも、「じゃあ、どうしてその甲状腺の検査をするのかわかる人はいる?」という質問をすると、これはいないんです。「わかるよって言う人に『説明して』って言わないから、わかる人は手だけ挙げてみて」と質問のしかたを変えてみても、やはり滅多に手は挙がりません。
この検査が始まって6年が経ちましたが、今もって子どもたちは、なぜ自分たちが甲状腺検査を受けているのかを知らないんです。
緑川氏
「一生気づかずに過ごしたかもしれない」
甲状腺がんの中には、小さいまま一生症状が出ないタイプのものも少なくない。また、がんを切除する手術には一定のリスクがともなう。場合によっては、関連学会が定めた診断や治療の基準に照らして、経過観察(手術をせずに、長期間甲状腺の状態を定期的に観察し続ける)を選択するのが望ましいとされることもある。
しかし、長期にわたって定期的に通院しながら、普段の生活の中でがんについて気にしてしまうことは、患者やその家族にとっては大きな心理的負担となりえる。実際、福島の甲状腺検査でがんと診断された場合に、経過観察を選択する例はこれまでも多くない。2017年11月の甲状腺検査評価部会でも、「子どもが甲状腺がんの診断を受けた場合に、実質半世紀以上もの間経過観察するという選択は現実的ではない」という委員からの指摘もあった。
早野 先生は子どもたちやそのお母さんたちに、普段どのような説明をなさっておられるのでしょうか。とりわけ、「福島の子どもがそもそもそれほど多くの放射線に被曝していないようだ」ということであれば、これほど多くの甲状腺がんが診断されている理由についての説明を求められた場合、どのようにお答えになっているのでしょうか。
緑川 そもそも甲状腺がんの特徴として、剖検(他の要因で亡くなった人の死後解剖検査)をしたらとてもたくさん見つかるということがあります。これはつまり、「生涯にわたって、自分の甲状腺にがんがあることを知らないまま、普通に生活を送っている人が、とてもたくさんいる」ということです。ですから、無症状で検査をしたら、その「一生気づかなかったかもしれない甲状腺がん」が見つかることはあるんですよ、と、お母さんたちには説明しています。そして、最近はこのことについて、子どもたちに対する出前授業でも、少し触れています。苦しいことですけれど。
早野 そうですか。それはとても苦しいでしょう。
緑川 個別の対話であれば言えることは多いですから、お母さんと1対1で向き合って説明するときには以前からご説明することはありました。ですが、たくさんのお母さんたちに向けての説明会でこのような説明をするようになったのは、1年ほど前からです。そして今年(2017年)の4月からは、たくさんの子どもたちに向けての出前授業の中で、「検査で見つかることのある甲状腺がんは、もしかしたら検査をしなければ一生気づかずに過ごしたものかもしれません」というお話はしています。【次ページにつづく】
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