西山雅都
「写真はときには物を言う」――水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡
12/26(火) 8:31 配信
生誕100年 報道写真家ユージン・スミス
日米が激戦を繰り広げたサイパンやレイテ、硫黄島、沖縄を撮影、戦後は水俣病を世界に伝えた米国の報道写真家ユージン・スミス(1918-78)が生誕100年を迎える。これを機に、東京・恵比寿の東京都写真美術館で大規模な回顧展が催されている(クレヴィス主催、2018年1月28日まで)。日本と深くかかわり、社会の不平等を訴える一方で、人間の日々の営みや気高さに目を向けた。写真の力を最大限に引き出したといえる作品群は心を揺さぶる。ユージンの最高傑作のひとつで、水俣病を象徴する写真「入浴する智子と母」は、宣伝塔のようにさらされつづけたくないとする家族の意向で封印された(以下、敬称略)。(徳山喜雄/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「大学に戻ったら、私は死ぬ」と口説かれて
ユージンは1970年8月、水俣をともに取材することになるアイリーン・スプレイグ(のちのアイリーン・美緒子・スミス)とニューヨーク・マンハッタンにあるロフトで出会った。アイリーンは富士フイルムのCMでインタビューされたユージンの通訳を務めた。
日本人の母とアメリカ人の父をもつアイリーンは、カリフォルニアにあるスタンフォード大学の学生で20歳。ユージンは51歳だった。ユージンはアイリーンと出会った1週間後に「ニューヨークでアシスタントになり、一緒に暮らしてほしい」と頼む。
父親よりも年上のユージンからの申し出に戸惑うアイリーンに対し、こうもいった。「君が大学に戻ったら、私は死ぬ。君が乗った飛行機がカリフォルニアに着くまでに死んでしまうだろう」
2017年12月、筆者は東京・渋谷の日本料理店で、フォト・ジャーナリストを経て市民グループ「グリーン・アクション」の代表を務めるアイリーン(京都市在住)から、この話を聞いた。「あんなに繊細な作品をつくるユージンにしては、ベタな口説き方をしたものだ」と思った。
結局、アイリーンは大学には戻らなかった。「わずか1週間でユージンに変えられてしまった。こんなに人に欲されたのは初めてだった」と振り返る。
水俣に「ふたりで行くんだ。写真を撮ろう」
出会いから2カ月たったスミスとアイリーンに、のちに出版社をつくってユージンのポートフォリオを手掛けることになる故・元村和彦が「公害によって人が死んでいっている水俣を撮ってみないか」とニューヨークで提案。「その瞬間、『ふたりで行くんだ。写真を撮ろう。そこに行かなくてはならない』とユージンと私は思った」
当時のユージンは沖縄戦で負傷した古傷の痛みや、それを和らげるための薬、紛らわすためのアルコール依存などで、肉体的にも精神的にもボロボロだった。ユージンにとっては最後の大きな仕事、日本人の血が流れるアイリーンにとっては「ふるさと日本の今」を問う最初の仕事の始まりになった。
2人は出会って1年後、1971年8月16日に来日。同月28日に婚姻届を出し、東京都内のホテルで披露宴をした。そして、患者多発地域の熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、71年9月から74年10月まで、3年におよぶ水俣取材を開始した。
高度成長期に患者が多発した「公害の原点」
水俣市は熊本県の最南部に位置し、穏やかな内海の不知火海(しらぬいかい)に面した漁村であった。
化学物質の製造会社チッソの水俣工場は、工業廃水を海に流していた。これに含まれていた有機水銀が魚介類の食物連鎖によって濃縮され、水俣病を引き起こした。公式には水俣病の発生は1956年5月1日、水俣保健所が新日窒付属病院から脳症状を主とする「原因不明の奇病発生」と報告を受けたときとされる。
実際は40年代から発病が始まっており、飛んでいる鳥が突然落下する変死、ネコが踊りながら狂い死にする「ネコ踊り病」が報告されていた。日本の高度成長期に患者が多発し、「公害の原点」ともいわれる。
傑作写真「入浴する智子と母」が誕生
ユージンとアイリーンは、水俣病の患者やその家族と丁寧に関係を築きながら、精力的に取材、撮影をしていった。そのなかの1人が、胎児性水俣病患者の上村智子だった。智子は母親の胎盤を通して有機水銀に汚染され、肢体不自由で、目が見えず、口も利けなかった。
ユージンは、母親の良子に智子を入浴させるシーンを撮影したいと申し出る。1971年12月、上村宅をユージンとアイリーンが訪れ、良子が当時15歳の智子を抱いて浴槽に入るシーンを撮った。
ほの暗い浴室の湯が輝き、湯船に浮かぶように浸かる智子。その光る目は天空を射るかのようで、それを見つめる母親の眼差しは慈愛にあふれていた。水俣病を象徴する傑作写真「入浴する智子と母」が誕生した。
「智子はわが家の宝子ですたい」
母親の良子さんは「智子はわが家の宝子(たからご)ですたい」と語っている。
「智子がわたしの食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人でからって(背負う)くれたでしょうが。そのためにわたしも、後から生まれたきょうだいたちもみんな元気です。……ほんに智子はわが家の宝子ですたい」(原田正純『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』)
「入浴する智子と母」はLIFE誌72年6月2日号に掲載。世界に衝撃を与え、新聞や雑誌、国内外の写真集、ポスター、学校の教科書などにも使われた。撮影から6年後の1977年12月5日。家族の深い愛情に包まれた智子は、21歳の若さで亡くなった。ただ、父母の名を一度も呼ぶことはなかった。
五井事件での暴行で失明の危機に
ユージンは名作を残すも体調はすぐれなかった。LIFE誌の仕事で米軍に従軍し、沖縄戦を取材していた1945年5月22日、日本軍の迫撃弾が炸裂、左腕をひどく損傷し、顔面の口蓋を砕いた。26歳のときだった。歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなった。
「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養の補給源だった。それとサントリーレッドの中瓶を1日1本、ストレートでチビリチビリ飲んでいた」とアイリーンは話す。
1972年1月7日、千葉県市原市のチッソ五井工場で、水俣病患者やその支援者らとチッソ労働組合の組合員らが激しく衝突。取材していたユージンも巻き込まれ、ひどく殴られ、コンクリートに頭を叩きつけられた。
この暴行で、ユージンは失明の危機にさらされる。後遺症で頭痛が激しいとき、「五右衛門風呂の薪を割る斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに懇願することもあった。しかし、水俣での取材、撮影はユージンの強靭な意志をもって進めていった。
写真集『MINAMATA』が世界各国で大反響を呼ぶ
ユージンらが水俣を訪れたときは、患者側からチッソに対して損害賠償請求の裁判が起こされた時期と重なった。全国の関心が集まるなか、水俣病患者の救済運動が盛り上がっていた。
73年4月に東京の西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生――その神聖と冒瀆」を開催。75年5月には、念願の写真集『MINAMATA』の英語版をアイリーンとの共著で出版(日本語版『写真集 水俣』は1980年出版)、世界各国で大反響を呼んだ。
写真集にはユージンの写真への愛情と信念を伝える、味わい深い言葉が記されている。
「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま――ほんのときたま――一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる。……私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私――そしてアイリーン――が水俣で写真をとる理由である」
だが、当時の2人の関係は必ずしも良くはなかった。「もう、限界だった」というアイリーンは、ユージンとの生活に精根尽き果てていた。写真集(英語版)の出版後間もなく二人は別れることになった。
「入浴する智子と母」が封印されることに
ユージンの代表作となった写真「入浴する智子と母」は、智子の死後も脚光を浴び続けた。1997年7月、「20世紀の100枚の写真」という番組を企画したフランスのテレビ局から、水俣病の悲劇を象徴するこの1枚を提供してほしいという依頼が上村夫妻にあった。しかし、夫妻は「公害を世界に伝える」との、それまでの意思とは打って変わり、写真の使用とインタビューのいずれも断った。
「亡き智子をゆっくりと休ませてあげたい」というのが夫妻の写真掲載を断る理由だった。その前年の96年9月、東京・品川で大規模な水俣展が開催され、会場は熱気に包まれていた。入浴する母子像を載せた大きなポスターが品川駅から会場までの至るところに貼られ、チラシやチケットにも使われた。
しかし、雨が降っており、濡れたポスターが剥げ落ち、ポスターやチラシが歩行者に踏みつけられた。上村夫妻はこの光景に心を痛めた。「あの写真でだいぶもうかったでしょう」という心ない声が周囲から聞こえてきたこともあった。
それから2年近く後の98年6月にアイリーンは上村夫妻と話し合い、母子像の新たな展示や出版を行わないことを約束した。このような経緯で現在、水俣病のアイコンである「入浴する智子と母」は封印されている。開催されている写真展「生誕100年 ユージン・スミス」においてもこの母子像は展示されていない。
母子像の扱いをめぐって激論に
2017年12月3日、アイリーンが参加した東京都写真美術館でのシンポジウム「ユージン・スミスを語る」が終わった後の打ち上げの席で、母子像の扱いをめぐって激論になった。写真展のためにユージンの写真を提供したアリゾナ大学クリエイティブ写真センター(CCP)のチーフキュレーターのレベッカ・センフは、「W.ユージン・スミス・アーカイブのあるCCPは、アイリーンと上村夫妻の意思を認め、『入浴する智子と母』の写真は展示していない。貸し出しもしない」と説明した。
母子像が封印されて20年になる。水俣でユージンのアシスタントを務めた写真家、石川武志(67)は「封印されたことが、すごく残念だ。普遍性をもつこの母子像は人類にとって失ってはならない芸術作品だ。ユージンが生きていたら、展示や掲載を望むと思う」と反対意見を言った。
これに対し、アイリーンは「写真家には二つの責任がある。一つは被写体に対するもので、もう一つは見る側に対するものだ」という生前に繰り返されたユージンの言葉を引き合いにだし、石川の意見に反論した。
憲法21条は表現や報道の自由を保障し、憲法13条は人にはプライバシーや肖像権があるとしている。この二つが衝突するときは、どちらが優先されるのか、公共性や社会性の有無が問われる。アイリーンは今回、写真展の主催者から「公害の理不尽さを世界に訴えた歴史的遺産ともいえる母子像を展示したい」と再三にわたって要請されたが、頑として認めなかった。
2度にわたって太平洋戦争に従軍
ユージンは1918年12月30日、カンザス州ウィチタに生まれる。父親は36年4月、事業に失敗し猟銃で自殺。父が亡くなったころには、既に盛んに写真を撮っており、37年9月、18歳でNewsweek誌の仕事を始めた。
43年以降は2度にわたって太平洋戦争に従軍。サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄で日米の激戦を取材し、45年5月、沖縄戦で負傷。約2年間のリハビリ期間を要した。
フォト・エッセイの黄金時代
戦後はLIFE誌と契約し、約50本の仕事をこなす。社会問題などを複数の写真を組んでルポルタージュするフォト・エッセイといわれるスタイルを確立、読者からの圧倒的な支持を得た。
いずれも陰翳に富むモノクロ写真で、生きるとは何か、人と人との関係は何かという根源的な問いかけに答えるかのような濃密な作品群だ。LIFE誌の影響力は強く、フォト・エッセイの黄金時代を築いた。
「声のない人たちの声」を伝える
ユージンは常に最前線で被写体となる人と同じ目線に立って接し、「声のない人たちの声」を伝えた。妥協せず、命を削るように仕事をするのがユージンのスタイルだった。苦労して撮影したフィルムを「出来の悪いデッサン」といい、暗室に何日も徹夜でこもりプリントを完成させていった。
その生涯は、困窮、闘い、苦痛の連続だった。しかし、残された作品は報道写真の域を出た芸術作品といっていいものだ。アリゾナ州ツーソンで晩年を過ごしていたユージンは1977年12月、脳梗塞で倒れ、78年に永遠の眠りについた。
2017年12月、アイリーンとともに初めて水俣を訪れたユージンの次男ケビン・スミス(63)は、次のように語った。
「父は日本をこよなく愛していました。アメリカにいるときよりも、くつろいでいるようでした。それはどこに行っても温かく迎えられたからでしょう。第2次世界大戦の曙から水俣の黄昏までの父の写真家としてのキャリアは、日本に始まり日本で終わりました。彼にふさわしいものでした」
※写真展「生誕100年 ユージン・スミス」は東京・恵比寿の東京都写真美術館で開催中。2018年1月28日まで。http://topmuseum.jp/
徳山喜雄(とくやま・よしお)
ジャーナリスト、立正大学文学部教授(ジャーナリズム論、写真論)。
1958年兵庫県生まれ。84年朝日新聞社入社。東欧革命や旧ソ連邦の崩壊、中国、北朝鮮など旧共産圏を数多く取材。写真部次長、AERAフォトディレクター、ジャーナリスト学校主任研究員などを経て、2016年に退社。著書に『新聞の嘘を見抜く』『フォト・ジャーナリズム』(いずれも平凡社新書)、『「朝日新聞」問題』『安倍官邸と新聞』(いずれも集英社新書)、『原爆と写真』(御茶の水書房)、共著に『新聞と戦争』(朝日新聞出版)など。
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