目撃!にっぽん「ただぬくもりが欲しかった〜戦争孤児たちの戦後史〜」[字][再] 2017.12.26

2612月 - による admin - 0 - 未分類

こういうとこへ疎開したんだもんねぇ。
この夏一人の男性がかつて疎開した場所を訪ねました。
疎開先に届いた両親からの手紙です。
「頑張れ喜太郎元気で」。
「元気敵米英をやっつけるまで頑張れ」って書いてあんだよ。
こんなのさあ。
「敵米英」だって。
それで死んじゃったんだからさ。
うん…。
男性は11歳の時疎開中に両親を亡くし孤児になりました。
戦争孤児です。
(玉音放送)「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」。
戦争に負けた日本。
親を失った戦争孤児は12万人に上りました。
路上で暮らす孤児たちの姿は各地で目撃されました。
しかし彼らがその後どうなったのかよく分かっていませんでした。
孤児たちの戦後を記録に残したい。
今初の全国規模の調査が始まっています。
高齢となった孤児たち。
ずっと封印してきた記憶を語り始めています。
見えてきたのは戦争の犠牲者なのに社会からさげすまれた孤児たちの姿でした。
埋もれてきた孤児たちの記憶。
その証言が浮き彫りにするもう一つの戦後史です。
戦争孤児の全国調査を進める研究会です。
今年3月一人の戦争孤児が終戦後路上で生活した事を証言しました。
なぜ過酷な暮らしをする事になったのか。
証言した男性を訪ねました。
どうぞお上がり。
はい失礼します。
路上生活をしている時に緑内障を患い視力をほとんど失いました。
その後マッサージ師として生計を立ててきました。
小倉さんは昭和20年7月福井県敦賀市で空襲に遭いました。
女手一つで小倉さんを育ててくれた母親は焼け跡から遺体で見つかりました。
母を亡くしたあと何があったのか。
ふるさとの敦賀市で話を聞かせてもらう事にしました。
ちょうど今頃でしょうね。
小倉さんが空襲に遭い孤児になったのは13歳の時でした。
町なかに建てられた犠牲者を悼む石碑です。
母まつさんの名前も刻まれています。
(小倉)試験100点取るとね鍋焼きうどんをね僕に食べさせてくれましたね。
いや〜おいしかったですよ。
母を亡くした小倉さんは親しかった親戚の家で暮らすようになりました。
しかし…。
どこの家も食べていくだけで精いっぱいだった終戦直後。
親戚の態度が変わりました。
耐えかねた小倉さんは家を飛び出しこの浜にやって来ました。
家出を決意した小倉さん。
食べ物や寝る場所を探して各地を転々とします。
小倉さんのように戦争で親を失った戦争孤児は12万3,000人に上りました。
行き場を失った孤児が全国から集まってきたのが上野でした。
駅が焼けずに残り闇市もあったためです。
小倉さんも無賃乗車を繰り返し福井から上野にやって来ます。
しかし食べるものはなく盗みを働くようになりました。
次第に周囲から嫌われるようになった孤児たち。
小倉さんが頼りにしたのは路上生活で出会った同世代の仲間でした。
目を患っていた小倉さんを支えてくれたといいます。
しかし…。
路上生活を始めて1年。
思いがけない事が起こります。
孤児の仲間の一人が突然列車に飛び込んだのです。
仲間の自殺。
周囲からの冷たい視線。
そして深まる孤独感。
小倉さんは社会に対する敵意を強めていきました。
孤児たちが社会から孤立し餓死していくのをそばで見たという人が取材に応じました。
15歳の時山形の空襲で親を亡くし孤児となり幼い弟と妹を連れ上野にたどりつきました。
きょうだいが夜を過ごした上野駅の地下道。
実際に寝ていたという場所を案内してもらいました。
こうやる時もありますけど大抵は…涙を流し始めた金子さん。
周りの子どもたちが栄養失調で死んでいく姿が今も頭から離れないといいます。
金子さんは持っていた僅かなお金で一日1本のサツマイモを買いきょうだい3人で分け合いました。
国は終戦直後行き場をなくした孤児たちを施設で保護しようとしましたが数が足りませんでした。
食糧も不足する中路上で暮らす子どもには支援が届きませんでした。
金子さんはその後所持金が無くなり親戚を頼ります。
しかし長くはいられずきょうだいは別々の家に引き取られていきました。
路上生活の経験はみじめな記憶として金子さんを苦しめてきました。
これおとうさんです。
45年間連れ添った夫にも上野駅で過ごした事は最後まで打ち明ける事ができませんでした。
言えなかったですね。
重い口を開き始めた孤児たち。
取材を進めると12万人もの孤児が生まれたのには大きな理由がある事が分かりました。
国は空襲に備えて子どもたちを親元から離し地方に疎開させました。
その結果いずれ再会できると思っていたのに親が空襲で命を落とし突然孤児となる子どもが多く出たのです。
疎開中に孤児となった人の話を聞く事ができました。
東京・深川に住んでいた渡辺さんは小学5年生の時新潟県の寺に疎開しました。
最初は旅行気分でしたが厳しい生活が待っていました。
疎開先で一緒に学んでいたという地元の同級生が今も近くに住んでいました。
同級生は渡辺さんの母親が疎開先を訪ねてきた時の事を覚えていました。
教師が許した面会は僅か5分。
これが最後の別れとなりました。
両親はその3か月後東京大空襲で命を落としたのです。
疎開中に両親から届いた手紙。
ずっと大切にしてきました。
「東京は爆撃なんぞありませんよ」だって。
「父母の心配はしなくてもいいですよ」。
「喜太郎頑張れ頑張れ頑張れ。
喜太郎元気で元気敵米英をやっつけるまで頑張れ」って書いてあんだよ。
こんなのさあ。
「敵米英」だって。
両親が亡くなった事を知らされた渡辺さん。
もう二度と親に会う事はできない。
毎日泣き続けました。
孤児となり自分の力だけで生きていくしかなかった子どもたち。
その過酷さが伝わる資料が東京の児童養護施設に残されていました。
この施設では孤児の保護に熱心に取り組んできました。
終戦直後に保護された子どもの記録です。
各地を転々とする中で子どもたちの多くが病気を患っていた事が分かります。
この「疥癬」っていうのありますね。
これはすごいですよ。
体中皮膚病で…。
もうかゆくてかゆくてどうしようもないという…。
(取材者)結構当時のお子さんで多かった…?多かったですね。
10代前半の女の子の記録には「バイ毒第三期」と書かれています。
路上生活の中で性病を患っていました。
「これも冷酷な社会の罪」。
当時の職員が記していました。
つらい経験をした子どもたち。
施設を出たあとも親がいないからと就職などで苦労する事がありました。
路上生活をした孤児の中には犯罪を繰り返し闇社会へ転落していった人もいたといいます。
路上生活の中で社会への敵意を強めていった小倉さんです。
仲間が自殺したあと自暴自棄になっていました。
そんな小倉さんに大きな転機が訪れます。
放浪の末京都駅で保護され送られた一時保護施設。
ここで出会った施設の先生が反抗的だった小倉さんを見かねて銭湯に連れていってくれたのです。
銭湯は当時と変わらずに残されていました。
先生は疥癬を患っていた小倉さんの背中を流してくれました。
背中を流してくれたのは…その後も度々小倉さんに声をかけてくれました。
小倉さんは黒羽先生のアドバイスをもとに盲学校に進学マッサージ師となりました。
人生を変えた出会いでした。
社会に背を向けてきた小倉さん。
母を亡くしてから初めて触れたぬくもりに救われました。
疎開中に孤児になった…その後奉公に出されがむしゃらに働きました。
昭和31年東京・麻布で自動車販売会社を設立します。
自動車販売を足掛かりに不動産やホテル経営などに事業を拡大。
資産は一時7,000億円を超えました。
その後バブル崩壊で資産を失い逮捕もされましたが今も事業を続けています。
孤児になってから激動の人生を送ってきた渡辺さん。
両親がいつもそばで見守ってくれていると感じてきました。
自分のすぐそばで孤児たちが死んでいく姿を目撃した…路上生活を抜け出したあと懸命に働き結婚。
2人の子どもを育てました。
87歳となった今も週に3回掃除のアルバイトをしています。
ある活動を支える足しにするためです。
国に対して空襲の被害者へ謝罪と補償を求める活動です。
10年ほど前から定期的に寄付をしています。
子どもたちに救いの手が差し伸べられなかった事実を決して忘れさせてはならないと考えています。
7月中旬小倉さんは母の72回目の命日に墓参りに行きました。
墓地の一角の小さなお墓。
空襲で亡くなった母が眠っています。
母を一番感じる事ができる場所です。

(泣き声)何度も傷つけられ時に社会に背を向けながらもぬくもりを求めた戦争孤児。
私たちが忘れてはならないもう一つの戦後史です。
2017/12/26(火) 03:35〜04:10
NHK総合1・神戸
目撃!にっぽん「ただぬくもりが欲しかった〜戦争孤児たちの戦後史〜」[字][再]

太平洋戦争で親を失った戦争孤児は12万人。路上で暮らす孤児の姿は各地で目撃されたが、詳しいことはよくわかっていない。彼らは戦後をどう生きたのか、当事者が証言。

詳細情報
番組内容
過去を知られたくない、つらい記憶を思い出したくないと、路上生活を送った戦争孤児たちは、その経験をほとんど語ってこなかった。そんな中、孤児たちの戦後を記録しようと、全国規模の調査が始まっている。高齢となった孤児たちは、辛い記憶をようやく語り始めた。餓死する仲間たち、生きるために働いた盗み、周囲の冷たい目、そして差別…見えてきたのは、戦争の犠牲者なのに社会からさげすまれた孤児たちの姿だった。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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サンプリングレート : 48kHz

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