誰かを好きになること、そういう感じを、創作物ではなく自分自身のものとして認識するのって、いつぐらいぶりだろう?
同じ今のこの時間を生きているということに、妙な安心感と切なさを感じるような。
……まあアイドルの話なんですが。
アイドルを好きになるということ
人間は何かをずっと見ていると好きになってしまう傾向があるらしい。だからテレビに出て知名度がある人って基本的にはモテるし好かれる。(参考:「処理流暢性」ってなに?)
アイドルのミュージックビデオにしても、メンバーのことを知らないで見るのと知ってから見るのとでは、感じるものが全然違う。
好きだから見る、見てるから好き。ハマるとかファンになるというのはそういうループだ。
その入口の「卵が先か鶏が先か」みたいなジレンマを、いつのまにか乗り越えてしまっている。きっかけは、メンバーのビジュアルとか、楽曲とか、テレビ番組とか、人によって様々だろうけど、気づいたら好きになってる。
意図せずに足をとられて抜け出せなくなるから、何かにハマることはよく「○○沼」と言われたりするよね。
乃木坂のようなアイドルグループにおいて、「グループは好きじゃないけどメンバーの○○は好き」という層は少数派なのではないかと思う。
やっぱりグループに所属しているメンバーとしてそれぞれを見るし、グループ全体を好きになる。
大人数アイドルグループという表現
趣味や関心が細分化したと言われる。
秋元康はAKB設立初期から、最大公約数を電波にのせてももう立ち行かないので、最小公倍数を狙えと言っていた。広く見られるのではなく、個人に深く刺さることが重要だと。
「刺さった」ものであれば、視聴者が少なくても、少数がたくさんお金を出してくれるので産業が成り立つ。
これは零細コンテンツ産業では当然のことだったのだけど、テレビの人である秋元康がそれを言い出し、実際にそのようなグループが紅白などのイベントを席巻するようになったのは、ひとつの転換点ではあるだろう。
メンバーをたくさん並べれば、誰かに刺さるかもしれない。実際、人気グループのメンバーはそれぞれ力強いファンを抱えている。
そして、その彼女たちが全員で踊るというところが要な気がする。
(乃木坂46「逃げ水」より引用)
MVで言えば、引きで全員が映るシーンとか特に好き。
散らばった後の共通項をもういちど掻き集めたような、今の大人数アイドルグループだからこその表現があるように思う。
パフォーマンス自体は陳腐でも、あるいは陳腐だからこそ、卓越というものをみんなが認めなくなった時代の最大公約数を感じる。
「推しメン」という概念、例えば「乃木坂というグループの中の一人のメンバーが特に好き」というのも、よく考えてみると不思議ではある。(参考:推しがアイドルを卒業しても、ファンとして応援し続けられるか問題)
そういう感覚も、みんなで歌って踊るというところに担保されているのかもしれない。
ハマってみないとわからないことがある
素直に「しゅき♡」とは言わないにしても、今はわりとすごくアイドルが好き。
もともと、アイドルが嫌いだったわけではない。ただある種の偏見みたいなものは持っていたかもしれない。
「諦めた後の信仰」がアイドルだと思ってた。でも僕はいま別に何も諦めてはいない。
アイドル産業が人間の弱い部分に入り込む形で成り立っているのはそうだと思う。華やかさの周囲に不均衡で残酷なものが積み上がっているのもたぶん事実。
でも、どんな手順でそれが作られたか検討がつくとして、裏の意図のようなものが見えたとして、それを指摘して何かを達成したような気分になるのは、おそらく間違っている。
「勇気をくれる」みたいな考え方を嗤ってきた。まともな人間でいるためにはいつも不敵な笑みを浮かべていなければならないと思っていた。(まさに厨二病!)
誰かを好きになると世界は少しずつ変わっていく。だからどうしたというわけでもないのだけど。