一故人

2017年とはどんな年だったか—この1年に亡くなった人たち

松方弘樹、大田昌秀、劉暁波、ノリエガ、小林麻央、日野原重明……2017年も多くの方が世を去りました。年内最後の「一故人」では、亡くなった方たちの足跡を駆け足でたどり、哀悼の意を表します。

東芝解体の衝撃—西田厚聰、西室泰三

2017年、電機メーカーの名門・東芝が債務超過に陥った。その直接の原因は、同社のアメリカの原発子会社であるウェスチングハウス・エレクトリック(WH)が3月に巨額損失を出して経営破綻したことだ。

東芝は、日本が原子力発電を導入した頃より、その開発に深くかかわってきた。しかし、2005年に社長に就任した西田厚聰(12/8・73歳。以下、カッコ内の日付は命日、年齢は享年を示す)は、国内の原発にのみ頼っていては将来的に先細りになるとの予測から、新たな市場を海外に求めた。そのためにWHを6000億円超の巨費を投じて買収する。WH買収に際しては、東芝の元社長で当時会長職にあった西室泰三(10/14・81歳)も、かつて東芝アメリカ在職中に築いた人脈を生かして動いている。そもそも西田を社長に推したのは、ほかならぬ西室であった。

だが、その後、2008年のリーマンショック、さらに11年の福島第一原子力発電所の事故により、収益環境は急激に悪化する。これを隠蔽するために各部門で行なわれていた不正な会計処理が15年に発覚、当時会長となっていた西田ら歴代社長3人を含む経営陣が辞任するという事態にまで発展した。

WH破綻は、そうした厳しい状況に追いうちをかけるように起こった。ここから東芝の経営陣は、半導体メモリー事業の売却を17年9月に決定。これによりどうにか命脈を保ったものの、唯一残った成長部門である半導体を手放した同社が今後どうなるのか、行く先はまだ見えていない。

政界再編のなかで—与謝野馨、羽田孜

通産相や財務相などを歴任した与謝野馨(5/21・78歳)は、東大卒業後、日本原子力発電に勤め、自民党所属の衆院議員となってからも物理学の本を愛読していたという。そうした読書を通じて与謝野は、19世紀には光は粒子か波かという議論があったが、その後の量子力学によって両方の性質を持つとわかったことを知る。ここから彼は、「政治の世界でも、無理に白か黒かという二項対立にする必要はなくて、もっと複合的な価値観が成立するのではないか」と考えるようになった。

しかし現実の日本政治は、与謝野の考えとは逆に、2大政党制をめざす方向へと進んでいく。1993年、自民党から、2大政党制の実現に向けて小選挙区制の導入をめざす羽田孜(8/28・82歳)ら30人あまりの議員が離党して新生党を旗揚げする。このあと総選挙を経て、新生党など非自民8党派の連立による細川護熙内閣が発足、翌94年に小選挙区比例代表並立制を柱とする政治改革関連法を成立させた。細川はその直後に辞任し、替わって羽田が首相に就任する。しかしその過程で、連立政権から新党さきがけと社会党が離脱、羽田内閣は少数与党内閣として出発を余儀なくされる。さきがけと社会党の離反には、細川政権運営の主導権が、新生党代表幹事・小沢一郎と公明党書記長・市川雄一(12/8・82歳)のいわゆる「一・一ライン」に握られており、その手法が強引だとする気分が重要な動機となっていた。

羽田内閣は結局、自民党が内閣不信任案を提出したのを受け、発足からわずか63日で総辞職する。羽田はその後も2大政党制の実現をめざし、1994年末の新進党、さらには98年の(新)民主党の結成に参加した。その目標は、2009年の自民党から民主党への政権交代により一応の達成を見たといえる。

民主党政権下、与謝野馨は2010年に自民党を離党し、「たちあがれ日本」の結党に参加したものの、翌11年1月には同党も離れ、菅直人第2次改造内閣に入閣するという数奇な運命をたどった。このあと与謝野も羽田も12年の総選挙には立候補せず、政界を引退する。自民党が政権に復帰したのは、この選挙のあとだ。17年の総選挙では、民主党の後身である民進党が事実上分裂した。2大政党制をめざした時代は終わり、今後、日本政界は与謝野の理想とした複合的な価値観の共存へと進んでいくのだろうか。

苦悩する沖縄—上原康助、大田昌秀

先述の細川連立内閣では、社会党から上原康助(8/6・84歳)が沖縄選出の議員としては初めて入閣した(国土庁長官および北海道・沖縄開発庁長官)。上原は1970年、戦後初めて沖縄で実施された国政選挙で衆院議員に当選した一人だった。

沖縄では1990年から2期にわたり、社会学者の大田昌秀(6/12・92歳)が県知事を務めた。その在任中には、米兵による少女暴行事件が起き(95年)、沖縄全域で米軍基地反対の声が高まる。大田は政府に対し問題解決を強く訴えた。これを受け日米両政府のあいだで沖縄の基地の整理・縮小が検討され、96年には普天間基地返還で合意した。だが、その直後、普天間基地の機能を県内の辺野古沖(名護市)に移設する案が浮上する。

大田は1998年の知事選を前に、辺野古への基地受け入れ拒否を表明した。そのため政府・自民党の関係は冷え込み、沖縄振興策も滞るようになる。結局、知事選で大田は、政府との協調関係の保持、基地問題の漸進的解決を主張する稲嶺恵一に敗れた。

辺野古移設問題はいまなお解決にはいたらず、むしろ年を追うごとに沖縄県民と米軍・日本政府の対立は深まっている。大田は晩年、政府が移設を強行することで「人々の怒りが爆発し、行政がコントロールできない事態に陥る可能性がある」と危惧していた。

圧政と民主化のはざまで—金正男、コール、ノリエガ、劉暁波

2017年9月末、安倍首相は「国難を突破するため国民の信を問う」として衆議院を解散、翌月、総選挙が行なわれる。ここで掲げられた「国難」とは、少子高齢化や緊迫する北朝鮮情勢であると説明された。

ミサイル発射で国際社会を挑発し続ける北朝鮮は、2017年2月13日には、現在の同国の最高指導者・金正恩の異母兄である金正男(45歳)を、マレーシアのクアラルンプール空港で暗殺して、世界を驚嘆させた。年末には、1965年に北朝鮮に入国し、のちに日本人拉致被害者の曽我ひとみと結婚した元米兵のチャールズ・ジェンキンス(12/11・77歳)、また拉致被害者の増元るみ子の母親・増元信子(12/12・90歳)が立て続けに亡くなっている。

第二次世界大戦後、東西冷戦の開始にともない、ドイツもまた北朝鮮・韓国と同じく民族・国家を分断された。だが、1989年のベルリンの壁の崩壊を機に、当時の西ドイツ首相ヘルムート・コール(6/16・87歳)は東西ドイツ統一に向け準備を進める。翌90年10月には、西ドイツが東ドイツを編入する形で統一が実現した。

ベルリンの壁が崩壊したのと同じ1989年、米軍がパナマに侵攻、翌90年には同国を独裁支配していた国防軍司令官のマヌエル・ノリエガ(5/29・83歳)を、麻薬取引の罪で逮捕する。ノリエガは冷戦時代、中南米の左翼勢力の伸長を食い止めようとしたCIA(米中央情報局)と関係を築いたこともあった。だが、パナマ国内での反政府運動の高まりから、アメリカは民主体制の回復を目的に軍事介入に踏み切ったのだ。このあとノリエガはアメリカとフランスで服役し、2011年にパナマに移送された。死亡時には、脳腫瘍の治療のため、収監から自宅軟禁に切り替えられていたという。

1989年といえば、中国政府が民主化運動を弾圧した天安門事件でも記憶される。運動のリーダーで作家の劉暁波(7/13・61歳)は同事件の際に逮捕され、2年間服役したあともなお運動を続けた。2008年末には、共産党の一党独裁を批判する「零八年憲章」を起草した中心人物として再び逮捕、懲役11年の判決を受ける。2010年に自分がノーベル平和賞に選ばれたことを獄中で妻から伝えられたとき、劉は、天安門事件で亡くなったすべての人々の魂にこの賞を捧げると、涙ながらに語ったという。中国当局は彼が末期がんと診断されるまで投獄を続け、病院移送後も本人の求める海外での治療を認めなかった。当局に拘束されながらノーベル平和賞を受け、自由を奪われたまま死去したのは、ナチス支配下のドイツの反戦ジャーナリスト、カール・フォン・オシエツキ以来であった。

恐怖映画の旗手たち—ロメロ、フーパー、デミ

「ゾンビ映画の父」と呼ばれたアメリカの映画監督ジョージ・A・ロメロ(7/16・77歳)は亡くなる直前、北朝鮮やトランプ米政権の動向など、世界がこの先どうなるのかが気になり、自分の死後に起きたことを墓前に報告するよう夫人に言い残していたという。

ロメロの映画では死者たちがゾンビとなって蘇り生者を襲う。彼の関心は、人間が危機に陥ったときの行動にあり、ゾンビはその象徴だった。それゆえその作品には常に、現実社会の危機が投影されていた。たとえば、ロメロのゾンビ映画の第1作で、黒人の主人公がゾンビの群れに立ち向かう『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/ゾンビの誕生』(1968年)には、このころアメリカで巻き起こっていた黒人差別の撤廃を求める公民権運動が反映された。

ゾンビ以外にも、映画ではさまざまな恐怖が描かれてきた。アメリカの作家ウィリアム・ピーター・ブラッティ(1/12・89歳)の原作・脚本による『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督、1973年)は、少女に取り憑いた悪魔と神父の闘いを描いた。同作の大ヒットをきっかけにオカルトブームが起こる。翌74年には、同じくアメリカのトビー・フーパー(8/26・74歳)が監督した、覆面男が電動のこぎりで人々を襲う猟奇映画『悪魔のいけにえ』が公開され、残酷な殺人描写を売り物とした映画が量産される口火を切った。フーパーはオカルト物の『ポルターガイスト』(1982年)でもヒットを飛ばした。

『エイリアン』(リドリー・スコット監督、1979年)では異星人に襲われる宇宙船の乗組員を、『エレファント・マン』(デビッド・リンチ監督、1980年)では生まれつきの奇形から差別を受ける青年を、それぞれイギリスの俳優ジョン・ハート(1/27・77歳)が好演した。アメリカのジョナサン・デミ(4/26・73歳)監督の『羊たちの沈黙』(1991年)は、天才心理学者レクター博士による連続猟奇殺人を描き、サイコパス物の傑作として、アカデミー賞を受賞するなど高い評価を受ける。

悪魔憑きを題材とした映画『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)で知られるポーランドの映画監督ロマン・ポランスキーは、1969年、アメリカ人女優の妻シャロン・テートを殺害される。犯人は、狂信的なヒッピー、チャールズ・マンソン(11/19・83歳)と彼に率いられた「マンソン・ファミリー」と呼ばれるカルト集団だった。マンソンはカリフォルニア州で死刑判決を受けたが、その後同州で一時死刑が廃止されたため、終身刑に減刑。受刑者のまま搬送先の病院で病死した。

闘う女性たち—ミレット、マコービー、ジャンヌ・モロー、野際陽子

2017年10月、米ハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが、長年にわたり女性たちにセクシャルハラスメントを繰り返していた疑惑が表面化した。これを機に、政界など各方面で、セクハラや性暴力の告発があいつぐ。日本でもジャーナリストの伊藤詩織が、自らの体験を通して、性暴力の被害者に対する救済策の整備を訴えた。他方で、ネットCMなどでの、家庭や社会における男女の役割の描き方、あるいはセクシャリティの表現をめぐる議論もたびたび起こった。

性暴力や、生殖をめぐる女性の自己決定権、あるいは家庭での男女関係のあり方などが、本格的に議論され始めたのは、1970年前後のことである。アメリカの芸術家で女性解放運動家のケイト・ミレット(9/6・82歳)は、1970年に『性の政治学』を著した。同書は男性作家の作品の分析を通じて、女性を差別する構造は伝統的な家父長制に内在することを追及し、「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる運動の理論的支えとなる。

生殖をめぐる女性の自己決定権の問題に関しては、人工妊娠中絶の是非が欧米諸国で盛んに議論された。キリスト教的な倫理観から反対も根強かったが、フランスでは、ジスカール・デスタン大統領のもとで厚生相を務めたシモーヌ・アニー・ヴェイユ(6/30・89歳)の尽力により、1975年に人工妊娠中絶が法制化される。アメリカではこれより前、64年に連邦最高裁が、人工妊娠中絶を女性の権利と認める画期的な「ロウ対ウェイド判決」を下し、これが73年の中絶合法化へとつながった。ノーマ・マコービー(2/18・69歳)はこの裁判の原告で、夫の暴力から切実に中絶を望んでいた。裁判後もプロチョイス派(中絶権利擁護派)の運動家として闘いを続けたマコービーだが、90年代には中絶反対派に転じている。

ヒュー・ヘフナー(9/27・91歳)が1953年に創刊したアメリカの男性誌『プレイボーイ』は、毎号、若い女性のヌード写真が誌面を飾り、性の解放に大きく貢献した。しかし一方で、女性の裸を商品化する姿勢は、フェミニストの批判の対象にもなった。これを受けて同誌では60年代より、ウーマン・リブ(女性解放運動)の指導者のインタビューを掲載し、人工中絶の合法化にもいち早く支持を表明した。

フランスの国民的女優ジャンヌ・モロー(7/31・89歳)が、映画『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー監督、1962年)で演じた自由奔放なヒロインは、婦人解放運動の活発だったイギリスなどで女性たちから熱烈に支持された。ただ、モロー自身はこれに戸惑いを感じたという。このことについて彼女は後年、「わたしは女が男と同じ権利を要求するのはおかしいと思っています。たとえば、映画監督はずっと男の職業でしたが、女が映画監督になるためには男性的な能力が必要でしょうか……そんな必要はないことは、わたし自身の体験で知っています」と語った。女性映画監督の先駆けでもあった彼女独特の考え方といえる。

フランス留学経験もある女優の野際陽子(6/13・81歳)は、出産して初めて女性の本質的な強さに気づき、以後、女の本当の姿とはどういうものか考えながら演技をするようになったという。

多様化するロック—チャック・ベリー、かまやつひろし、遠藤賢司

1988年、忌野清志郎らによるロックバンド、RCサクセションが反原発のメッセージを込めた曲を含むアルバム『カバーズ』を制作、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)から発売を予定していた。だが、親会社の東芝は先述のとおり原発の建設に深くかかわっていたため、発売は直前になって中止となる。このとき、同作を何としてでも世に出すため、別のレコード会社から発売できるよう奔走したのが、音楽ディレクターで、当時東芝EMIの邦楽統括本部長だった石坂敬一(2016年12/31・71歳)であった。

ミュージシャンのかまやつひろし(ムッシュかまやつ。3/1・78歳)は、日本におけるロック第1世代に属する。だが、もともとはカントリー歌手としてデビューした。父親のティーブ釜萢はジャズミュージシャンで、戦後まもなくには、渡辺弘とスターダスターズでボーカルを務めた。このバンドには、のちにシャンソン歌手となる石井好子のほか、ティーブの開いた「日本ジャズ学校」の生徒で、デビューまもないペギー葉山(4/13・83歳)もボーカルとして参加している。

ペギー葉山が「南国土佐を後にして」を歌って人気歌手となった1958年、かまやつは有楽町のビデオ・ホールで開かれた「ウエスタンカーニバル」で、共演した水原弘と井上ひろしとともに「三人ひろし」として紹介された。このネーミングは、先に日本劇場での「日劇ウエスタンカーニバル」で大人気となっていた山下敬二郎、ミッキー・カーチス、それから、のちに作曲家に転身する平尾昌晃(当時の表記は昌章。7/21・79歳)の「ロカビリー三人男」にあやかったものだ。なお、平尾もミッキーもティーブ釜萢の教え子であった。

ロカビリーとは、アメリカ東南部の民謡であるヒルビリー(カントリーミュージックの別称)と、ロックンロールの合成語で、カントリー出身の歌手エルヴィス・プレスリーの初期のスタイルに始まったとされる。ロックンロールは、アメリカの黒人の歌うリズム&ブルース(R&B)を一つの源流として生まれた。チャック・ベリー(3/18・90歳)やファッツ・ドミノ(10/24・89歳)はR&Bの世界から現れ、ロックンロールをつくりあげた代表的なミュージシャンである。彼らの楽曲は、白人ミュージシャンにもカバーされてヒットした。60年代にはグループサウンズ(GS)のバンド、ザ・スパイダースで活躍したかまやつひろしも、ビートルズをはじめイギリスのバンドの影響から、「ジョニー・B・グッド」などチャック・ベリーの曲をよくライブでカバーしていたという。

スパイダースの解散後、フォークソングも歌うようになったかまやつは、1971年に開かれた野外コンサート「中津川フォークジャンボリー」に出演している。このコンサートには、この年、「カレーライス」がヒットした遠藤賢司(10/25・70歳)や、「花嫁」でやはりヒットを飛ばしたはしだのりひことクライマックスなども出演した。だが、まだフォークやロックを反体制の音楽とする考え方も根強かった当時、はしだのりひこ(12/2・72歳)たちの曲は商業的だとして、観客がステージに乱入するというハプニングも起こる。

70年代から80年代にかけては、パンクやテクノ、ニューウェーブなど新たなムーブメントが次々に生まれ、日本のロックも多様化していく。ロンドン・パンクの影響を受け、逸見泰成(6/4・57歳)らが1978年に結成したバンド、アナーキーは、政治体制や軽佻浮薄な風潮への批判を曲に込めた。フォークから出発した遠藤賢司も、パンクなどに影響されながらも独自のスタイルを築いていく。一方で、作詞家の山川啓介(7/24・72歳)の作詞による矢沢永吉の「時間よ止まれ」(1978年)がCMで使われ大ヒットとなるなど、ロックは一般にも浸透していった。

再起を期したスターたち—松方弘樹、渡瀬恒彦、根津甚八

かまやつひろしは、70年代以降、テレビドラマや映画にもたびたび出演している。80年代に放送されたドラマ『ビートたけしの学問ノススメ』では、演歌界の大御所であった作曲家の船村徹(2/16・84歳)と共演した。2016年に作曲家では山田耕筰以来となる文化勲章も受章した船村は、北島三郎をはじめ多くの歌手の育ての親としても知られる。

北島三郎の代表曲の一つ、北原じゅん(5/6・87歳)作曲の「兄弟仁義」は、レコードが発売された翌年、1966年には東映の同名の任侠映画(山下耕作監督)の主題歌にもなった。この映画では北島と鶴田浩二とともに、まだ若手俳優だった松方弘樹(1/21・74歳)がメインキャストを務めている。

松方は、70年代には『仁義なき戦い』に始まる東映の実録やくざ映画に数多く出演した。『仁義なき戦い』シリーズではずっと脇役だったが、菅原文太ら先輩俳優にはできない役柄を追究した末、『北陸代理戦争』(深作欣二監督、1977年)に主演、徹底して無慈悲な男を演じ切った。だが、この映画の公開直後、モデルとなった暴力団組長が殺されるという事件が起き、実録やくざ映画路線は一気に終息に向かう。このあとも松方は、俳優としての原点である大作時代劇映画、また2000年代以降の活躍の場だったVシネマと、それぞれの隆盛期の終焉を見届ける役を担うことになった。この間、ほとんど映画に出演しなかった80年代には、バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のレギュラーとして明るい一面を見せた。

『北陸代理戦争』のロケ中には、出演者の一人だった渡瀬恒彦(3/14・72歳)が自動車事故で大けがを負って降板するというアクシデントもあった。渡瀬は、日活所属のスターであった兄の渡哲也とは違う道を歩み、血気盛んなアウトローを体当たりで演じることが多かった。80年代以降は、『セーラー服と機関銃』『南極物語』などのヒット映画に出演して役の幅を広げ、テレビでも数々の人気刑事ドラマシリーズで長らく主演を務め、存在感を示した。

80年代、映画界から遠のいた松方弘樹とは反対に、鈴木清順(2/13・93歳)や松本俊夫(4/12・85歳)といった監督が復活した。鈴木は日活で独特の映像感覚によるアクション映画などを撮り、一部ファンから熱狂的な支持を集める。だが、『殺しの烙印』撮影後の1967年、当時の日活社長から「わからん映画ばかり撮る監督」と見なされ、不当解雇された。それでも1980年の『ツィゴイネルワイゼン』で見事にカムバックし、以後も新作を発表し続ける。テレビにもよく出演し、白髭の好々爺的キャラクターで親しまれた。

記録映画出身の松本による初の劇映画『薔薇の葬列』(1969年)は、日本で最初にゲイとジェンダー、近親相姦の問題を正面切って扱った作品とも評される。その後71年の『修羅』以降、しばらく劇映画の製作からは遠ざかったが、夢野久作の小説を原作にした『ドグラ・マグラ』(1988年)で復活した。ただし、松本はこの間にも、実験映画やビデオインスタレーションなどを多数手がけている。

鈴木清順の古巣・日活は、映画業界の斜陽化にともない、撮影所の売却や人員整理を余儀なくされた。しかし1971年にロマンポルノ路線に転じて再起を果たす。すでにベテラン監督だった西村昭五郎(8/1・87歳)は日活ロマンポルノの第1作『団地妻 昼下がりの情事』をはじめ、この路線で作品を量産した。

俳優の根津甚八(2016年12/29・69歳)は、1969年に入った劇団「状況劇場」(唐十郎主宰)で看板役者となり、70年代にはテレビや映画に進出、世をすねたアウトロー的な人物から、のちには朝ドラでヒロインの父親役まで演じて人気を集める。だが、後年、病気に加え、自動車運転中に起こした人身事故が重なり活動を休止。ファンからは再起を期待する声も上がったが、かなわなかった。

若齢の死と老齢の死—小林麻央、日野原重明、三浦朱門

根津甚八や鈴木清順も出演したテレビドラマ『不連続爆破事件』(1991年)では、多数の死傷者を出した三菱重工爆破(1974年)を彷彿とさせる事件が題材となっていた。この事件をはじめ、70年代に起こった一連の企業爆破事件は、東アジア反日武装戦線というグループの犯行である。そのリーダーの大道寺将司(5/24・68歳)ら2名は、政治活動家では戦後初めて死刑判決を受けた。大道寺は後年闘病を続け、結局、死刑は執行されないまま東京拘置所で病死する。

連続企業爆破事件の前から、新左翼集団によるテロ事件はたびたび起こっていた。1970年には共産主義者同盟赤軍派のメンバーが日航機よど号を乗っ取り、北朝鮮に渡った。赤軍派議長の塩見孝也(11/14・76歳)はその直前に逮捕されていたが、事件に関与したとして獄中で再逮捕され、のちに懲役18年の判決を受けた。刑期満了で出所したのは、冷戦が終わった1989年12月であった。

赤軍派にハイジャックされたよど号には、このころ東京の聖路加国際病院の内科医長だった医師の日野原重明(7/18・105歳)も乗り合わせていた。日野原は九死に一生を得たこの体験から、今後の人生は自分以外のことのために捧げようと誓ったという。事実、このあと彼は、予防医療の普及や、終末医療のためのホスピスの実現などに尽力している。

日野原は、新人時代に初めて患者として受け持った16歳の少女を看取って以来、老若男女、多くの人の臨終に立ち会ってきた。こうした経験から「私の所感をひと言でいうと、人間の死は若ければ若いほど悲惨であり、生木を裂く感じが強い。それに対して老齢の死は自然の死に近づくことが多いと言える」とのちに記している。

「人間の死は若ければ若いほど悲惨で、生木を裂く感じが強い」とは、アイドルグループの私立恵比寿中学のメンバーだった松野莉奈(2/8・18歳)や、がんで闘病を続けていたフリーアナウンサーで、歌舞伎役者の市川海老蔵の夫人・小林麻央(6/22・34歳)ら、あまりに早すぎる訃報と接するたびに痛感させられる。

日野原は、患者や家族の思いを無視した延命治療には否定的であった。作家の曽野綾子も、彼と対談した際、延命治療のなかでもとくに気管支切開は、最後に家族と語る機能を失わせるので絶対にしてはいけないと言われたという。曽野はこの教えを守り、夫で同じく作家の三浦朱門(2/3・91歳)が最期を迎えようとしたとき、女房の悪口を言うのを好んだ彼のため、声が出せるようにしておいた。

曽野は自らも80代半ばであったが、三浦が亡くなるまで1年あまり、自宅で介護してきた。こうした老老介護はいまや珍しいことではない。俳優の砂川啓介(7/11・80歳)も、声優の妻・大山のぶ代が認知症になって以来、ずっと介護を続けていた。

超高齢社会を迎え、老後のあり方も変わりつつある。三浦朱門と同じく保守派の論客として知られた渡部昇一(4/17・86歳)は、ベストセラーとなった『知的生活の方法』(1976年)から30年あまりを経て、2008年に『知的余生の方法』という本を著している。

詩人・評論家の大岡信(4/5・86歳)は、三浦朱門と並び長らく日本芸術院会員に名を連ねた。その最初の詩集『記憶と現在』(1956年)と前後して評論集『現代詩試論』(1955年)を上梓するなど、大岡にとって詩作と批評は不可分のものであった。彼はまた美術評論も手がけるなど、ほかの芸術や学問の動向にも目を配り続ける。1984年には、作家の大江健三郎、文化人類学者の山口昌男、建築家の磯崎新、作曲家の武満徹、哲学者の中村雄二郎(8/26・91歳)とともに編集同人として『へるめす』という学術雑誌を創刊、97年まで続いた。

難病と闘った人々—篠沢秀夫、木之本興三

テレビ番組『クイズダービー』の回答者として知られたフランス文学者の篠沢秀夫(10/26・84歳)は、2009年に難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された。闘病中には京大iPS細胞研究所所長の山中伸弥に手紙を送り、「症状がこれ以上進むことなく、執筆活動に取り組みたい」と伝えていたという。山中は篠沢の思いを受けとめながら、ALSに効く薬の開発に着手した。iPS細胞については現在、創薬のほか再生医療への応用が期待されているが、その開発までには、発生生物学者の岡田節人(1/17・89歳)など多くの研究者による基礎研究の積み重ねがあった。

日本サッカーリーグの古河電工の選手だった木之本興三(1/15・68歳)は、26歳にして難病により腎臓を全摘出し、引退を余儀なくされた。医者からは「持って5年」と宣告されるもくじけず、人工透析を続けながら1983年には日本リーグ事務局長に就任。Jリーグの創設・発展に力を注いだ。

スポーツ界ではこのほか、日本サッカー協会会長や国際オリンピック委員会(IOC)委員などを歴任した岡野俊一郎(2/2・85歳)、1959年に競泳の200メートル・400メートル自由形で世界記録を出し、64年の東京を含めオリンピックにも3度出場した山中毅(2/10・78歳)、プロ野球・阪急ブレーブス(現オリックス)で活躍し、同球団の初優勝(1967年)に貢献したダリル・スペンサー(1/2・88歳)、その阪急を1975年から3年連続の日本一に導いた名監督・上田利治(7/1・80歳)などが2017年に亡くなっている。元プロ野球監督の野村克也は、現役時代に本塁打王を争ったスペンサーを、精神至上主義のきらいが強かった日本野球を変えたと高く評価した。その野村の夫人で、タレントとしてもさまざまな話題をふりまいた野村沙知代も年末に急逝した(12/8・85歳)。

上田利治といえば、ヤクルトスワローズと対戦した1978年の日本シリーズが語り草だ。その第4戦の最終回で上田は、先発の今井雄太郎に疲れが出ていたにもかかわらず交代させなかったために、デイヴ・ヒルトン(9/17・67歳)にホームランを打たれて逆転を許す。これで阪急優勢だった流れが変わったともいわれる。このあと、ヤクルトが初のシリーズ制覇を決めた第7戦では、6回裏の大杉勝男のホームランに対し、上田がファウルだと猛抗議して試合が1時間19分中断した。ちなみにヒルトンは、この78年シーズンの開幕戦・1打席目(彼にとって来日初打席)で2塁打を放ち、それを球場で観ていた村上春樹が小説を書こうと思い立ったというエピソードでも知られる。

現代史の証言者たち—林京子、犬養道子、渡辺和子

2017年のノーベル文学賞には、ここ毎年下馬評の高い村上春樹ではなく、長崎出身のイギリス人作家カズオ・イシグロが選ばれた。その受賞記念講演でイシグロは、母親が戦時中に長崎で被爆していることを明言した。

小説家の林京子(2/19・86歳)は長崎での被爆体験から、『祭りの場』(1975年)や『やすらかに今はねむり給え』(1990年)など多くの作品を残した。脚本家の早坂暁(12/16・88歳)も、広島で胎内被爆した芸者を吉永小百合が演じた『夢千代日記』(1981年)や、自身の生まれ育った愛媛の商家を舞台に、大正から昭和の戦前・戦後にかけての庶民の暮らしぶりを描いた『花へんろ』(1985~88年)など、テレビドラマで何度となく戦争を題材にした。歴史小説を数多く著した小説家の杉本苑子(5/31・91歳)もまた、1964年の東京オリンピック開会式に際して、その21年前に同じく神宮外苑の地で行なわれた学徒出陣式の記憶をエッセイにつづり、通信社に寄稿している。

評論家で難民救済活動にも尽力した犬養道子(7/24・96歳)は、祖父の犬養毅首相が1932年の5・15事件で青年将校に射殺されたとき、現場となった首相官邸に居合わせた。一方、エッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』(2012年)で知られるカトリック修道女の渡辺和子(2016年12/30・89歳)は、陸軍大将だった父・渡辺錠太郎が2・26事件(1936年)でやはり青年将校に射殺されたとき、父と同じ部屋におり、九死に一生を得た。

犬養も渡辺も、少女時代にテロで肉親を失った体験を晩年にいたるまで語り続けた。事件当時は、凶行におよんだ青年将校たちに対し同情的な空気が強くあり、犬養は「テロにあった私たちのほうが肩をすくめて生きていく時代だった」とも証言している。

「弱者」へのまなざし—毛利子来、阿部進

政府の旗振りのもと「働き方改革」が盛んに唱えられた2017年だが、そこには各企業であいついだ過労死の問題も影響していることは間違いない。「過労死」の語は、医師の上畑鉄之丞(11/13・77歳)らが1978年、過重労働と脳・心臓疾患との関連性を示す研究結果のなかで初めて用いたのが最初とされる。

病名の名付け親といえば、前出の日野原重明も予防医学を啓発するなかで、それまで「成人病」と呼ばれていた各種の疾患を「生活習慣病」と改めることを提唱し、定着させた。しかし、病は日頃の不摂生に起因するという考えは、ややもすると、病気についての責任をすべて個人に押しつけてしまう危うさもはらんではいないだろうか。

小児科医の毛利子来(10/26・87歳)は、著書『甘えのすすめ』(1995年)のなかで、人間は誰しも「持ちつ持たれつ」の暮らしをしており、一人で何もかもやっていけるものではないと強調した。その上で、こうした相互の依存関係を意識すれば、子供や高齢者、障害者など「弱者」と呼ばれる人々に対しても、誰もが同格の付き合いをしようとすると説いた。

出産や育児について母親たちの相談に熱心に応じた毛利は、名前の「たねき」をもじって「タヌキ先生」と親しまれた。これに対して教育評論家の阿部進(8/10・87歳)は「カバゴン」の愛称で、70年代初めには人気マンガの実写版ドラマである『ハレンチ学園』に出演するなど、子供たちからも支持を集めた(ちなみにこのドラマには、俳優・タレントの藤村俊二[1/25・82歳]も教師のヒゲゴジラ役で出演している)。阿部は小学校の教員時代に著した『現代子ども気質』(1961年)で、テレビの登場以降、鋭い感性を持つ新しい型の子供が現れたと主張、そうした子供たちが将来どのように育っていくか楽しみでこそあれ、非難するべきではないと論じていた。

こうして2017年の物故者たちを振り返ると、性別や人種などでマイノリティに属したり、病気を抱えていたりと、いわゆる弱者の立場にありながら、それぞれの形で闘いを続けた人たちが目立つ。そんな彼や彼女らが遺したものをいかに次代に継承していくかは、いまを生きる私たちの課題だろう。最後にあらためて、ここまであげた人々に哀悼の意を表したい。

(イラスト:たかやまふゆこ)

ケイクス

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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GonGoose |近藤正高 @donkou |一故人 毎年この時期は色々なことを考える。 https://t.co/PnAyC3caXQ 約13時間前 replyretweetfavorite

donkou 年末恒例、1年間の物故者を振り返る企画、今年も掲載されました。 約15時間前 replyretweetfavorite