『童貞いじり』をする者は、犯罪者にも等しい
童貞というのは、思春期の男子が持ち合わせる最上のコンプレックス
つまるところ、究極の急所であり、そこを狙い撃ちにする『童貞いじり』という行為は、黒人を見て「黒くてキモいねw」とか、義足の人を見て「右足がない分、体重軽くて羨ましいねw」とか、死刑囚を見て「あの世行き、おめでとうw」とか、そんな見下しや差別の感情をぶつけているのと大差がない。
『童貞という寄生虫』を飼う男子たちは、とても傷つきやすい
童貞――それは、人格というか生命そのものにも等しい、重大なるアイデンティティーなのだ。
その点を執拗にいじられ続けるのは、人生のすべてを否定されるも同一であり、まったくもって自信を形成出来なくなる可能性がある。
下手すると、男子の一生における幸せを、悪ノリ一発で息絶えさせてしまうかもしれない。
であるがゆえ、『童貞いじり』は心の殺人事件にも等しい行為なのだ。
『童貞いじり』セクハラが原因で、大学を退学させられた
僕は10年以上前、【丘の上の遊郭(仮名)】と2chで噂されていたF欄大学に入学した。
育ちが悪く、柄も悪く、頭も悪く、人の痛みに鈍感なる、浅はかな男女が集う――極限の底辺空間であった。
そこで僕は、『童貞いじり』というセクハラ被害に遭い、退学に追い込まれた。
同期の学生たちから好奇の目を向けられ、あざ笑われ続けたのだ。
でもきっと、彼ら彼女らの胸中には、明確な悪意などなかった。
そこに存在したのは、笑い狂いたいという遊び心のみ。
「童貞か、一人で生きてて人生楽しいの?」
「見るからに童貞だもんな、そんなんだから童貞なんだよ」
「童貞……ははは」「うふふふふ」「きゃはははは」「あっははははは」
悪意の展覧会が催されていた。
そして、弱冠18歳だった僕の心は……、鮮やかなほどに砕け散った。
『童貞いじり』をされるようになったキッカケ
あの当時、赤面症だったのもあって、女子に挨拶をされるだけで、全身の毛が一本残らず抜けてしまうのではないか、っていうくらい、ぞわっと燃えるように真っ赤っかになった。
そんな症状があまりにも頻繁に現出するものだから、周囲の学生たちは、僕を格好のネタとして弄んだのだ。
しかも不幸なことに、思春期ニキビにも悩まされていた。
そのようなコンプレックスのかたまりであった僕を、奴らは、『妖怪童貞・ボツボツ魚肉マン』というあだ名で呼び始める。
自宅のパソコンで、【魚類 赤】と検索すると、狼狽中の僕と似た魚が、こちらへ泳いで向かってくるように表示された。
苦しみのあまりPCを強制終了すると、真っ暗な画面に、死んだ魚のような目をした僕がいた。
なんて醜悪なツラなんだ……、マジかよマジかよマジかよ……、一回しかない人生なのに……、一回きりの命なのに……、なんで僕だけ……、なぜ僕だけがこんな穢らわしい顔面をひっさげて生きなくちゃならないんだ……、終わりだ終わりだ終わりだ……。
憂鬱な言葉の群れが遊泳をスタートし、僕は完全なる『視線恐怖症』患者の一人になってしまった。
僕の汚らしい顔面を見て、どいつもこいつもが腹の内で、せせら笑っているのではないか、という自問自答をやめられなくなった――
『童貞いじり』をされたせいで人格が崩壊した
次第に僕は……、イジメられることが快感と思えるようになってきた。
なぜあの頃、より激しい『童貞いじり』を渇望しなかったのかと、後悔が押し寄せてくる。
これは決してギャグで書き記しているのではない。
おそらく、生存本能というか心の防衛機制が働いたことにより、無意識かつ強制的に『童貞いじり』対応者へと変化したのである。
欲を言えば、『童貞いじり』専用車両の導入を検討して欲しいくらいに思っている。
でも悲しいかな、僕はすでに非童貞へと落ちぶれてしまった。
腹の底から、『童貞いじり』被害に遭っているリアルタイム童貞たちが羨ましい――などと、この僕自身も『童貞いじり』に興じてしまうくらいには、人格が崩壊してしまった。
これはある種、虐待は連鎖する、というDV研究の結果を体現しており、まことに興味深い。
強い者にやられたら弱い者にやり返す、という共存共栄に背くバッドなシステム。
しかしながら、本来生物というのは、弱肉強食の中でずっと生きてきたゆえ、そうした本能にあらがうことは難しいのかもしれない。
いじり芸は積み重なる過程で、愛が途切れゆく
僕はなんやかんや批判しつつも、『童貞いじり』をしてしまうような、A級戦犯まがいの男女が心から好きだ。
つい最近、読み込んだ【週刊文春 編集長の仕事術】の中に、
やはり人間はおもしろい。愚かだし醜いけど、かわいらしいし美しくもある。立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を遺したが、週刊文春も全く同じ。「週刊文春も人間の業の肯定」なのである。
スクープを負う場合も、表の顔、裏の顔も含めて人間を愛し、とことん付き合うことから情報がもたらされる。
という、人間愛に基づいた名文があった。
僕が尊敬してやまない島田紳助も、「いじり芸を成り立たせるには愛が必要」などと語っていた。
とはいえ、深い愛情が土台になっていたとしても、それがイジメ――心の殺人に帰結しやすくはある。
なぜなれば、いじりは積み重なりやすい性質を持っているため、途中で愛が消失しがちという危険性を内包しているからだ。
いじりは、基本的に複数人が集まったところで行われる。
最初の一人目が、愛でこしらえた『童貞いじり』をしたところで、その次、また次といじりを重ねてゆく者たちは、その愛をスムーズにリレー出来るとは限らない。
そうやって人間は、悪意なく悪事の共同作業を行ってしまう。
『笑いと嘲り ユーモアのダークサイド』という書籍の中で、
人間は自分の笑いについての自己認識を避け、自分の感情を自覚することを抑圧せずにはいられない、自分は最善の者であると信じたいがために、笑うのは客観的におかしい何かがあるからであって、残酷なものや卑猥なものを喜んでいるからではないと主張する
と書き込まれているように、僕たち人類は、己が披露したネタを徹底的に正当化する。
今現在、そんな心の動きが至るところで見受けられる。
というのも、『童貞いじり』という概念がちょうど今、世間的に多少、「笑って良いもの」から「笑ってならないもの」へと転換する、過渡期にあるからだ。
この微妙なる時期に、「自分の童貞いじりは、悪の試みだったのか……反省」と、己の笑いを悔い改められるような、出来た人間はほとんど存在しない。
上記で挙げた書の中で、精神分析学者のジークムント・フロイトが、「人は自分の笑いを良いものと考えるように動機づけられていて」と語った一節が紹介されていた。
かいつまんで言えば、人間は人間を舐め腐っている
自己を守るためならば、正義でも悪でも武器として振り回す。
みんな、みんな自身のことが愛しくてたまらないのだ。
でも時折、ふと思い出したように誰かのことも心から愛する。
そんな自分勝手な生物でありながら、文春が書き記したように――愚かだし醜いけど、かわいらしいし美しい、という性質も持っている。
人間の業に愛を。