2013年11月21日

雨の日は木の皿で


今朝、八ヶ岳南麓には霧雨が降っていた。
宮城教区の生長の家講習会が翌日にあるため、私たちは早く自宅を出て、東京から新幹線で仙台まで移動する。こんな日の朝食はサンドイッチが定番になった。しかも、食器洗いをできるだけ簡単にするために、一皿料理である。

新居を建てるとき、食洗機も入れた。ただし、私たちの目的である“炭素ゼロ”の生活を実現するためには、電気製品はよく考えて使わなければならない。晴天時の食洗機使用はほとんど問題ない。電力使用量が発電量よりだいぶ少ないからだ。しかし、今日のような雨天や曇天の場合、食洗機を動かすと、モニターには「買電中」を示す橙色のランプが点る。これは、東京電力から電気を買っているという意味で、“炭素ゼロ”でなくなってしまう。だから、雨天や曇天時の食事には、食器数をできるだけ減らしつつ、見栄えも悪くならない工夫が必要だ。料理は口から食べるだけでなく、目からも、鼻からもいただくからだ。

ということで、雨の日のわが家の朝食には、木目も鮮やかなケヤキの皿が登場することになった。この皿は、日本の森林の重要性を訴えてきたオークヴィレッジ製の漆器で、高級品だ。いつか贈り物としていただいたものを押入れから出してきて、私たちの“森の生活”で活躍することになった。漆器だからナイフやフォークを突き立てて食べるわけにいかない。だから、それに載せる料理は、あらかじめ口に入る大きさに切り分けておくか、傷がつきにくい木製のフォーク、あるいは箸を使う。漆器はもちろん食洗機で洗えないので、手洗いすることになる。

私は、こういう細やかな配慮をしながら食事をすることに、“新しい文化”を感じるのだ。大量生産、大量消費の時代には、朝食は効率よく作って、マヨネーズなどで濃い味をつけ、頑丈な食器に載せてガチャガチャと出し、テレビを見たり新聞を読みながら、会話もなく、ロクに味わわずに短時間で掻き込む人が多かったのではないか? 食後はもちろん食洗機に頼り、前夜の食器がその中に残っていれば、別の食器を出して使う……こんな食事の仕方では、資源やエネルギーの浪費は進んでも、季節の移り変わりを感じながら食材を味わい、その根源である自然の恵みに感謝の気持を起こすことなどないに違いない。つまり、自然と人間とは分離していたのだ。

しかし、自然と共に生きようとする時、人間は自然を常に意識し、自分の行動が自然に与える影響について配慮するだろう。その気持を抽象的なレベルに留まらせず、具体的に、五感をもって確認するための最良の機会が、「食事」の場なのではないだろうか。朝起きて空を仰いで天候を知ったならば、それに合わせてエネルギーの利用法を考え、食器を選び、メニューを考える。これはもう「人間のため」だけの食事ではない。木目の美しい食器に地元の食材を載せ、器の柔らかさを感じながら、ていねいに、ゆっくりと味わいながら食べる。それが雨の日の朝だということが、私にはなぜかピッタリ来るのである。

谷口 雅宣

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2011年9月19日

新ブログはじめました

 9月14日に本欄の“内的事情”のようなものを書き、読者からのフィードバックをお願いしたが、たくさんの貴重なご意見をいただき心から感謝します。その中に本欄、もしくは本欄に近いものを今後も継続してほしいとの意見が多かったことが、大いに励みになっている。しかし、“十年一日”はやはり私の性格に合わないので、新しい名前のもと、新しい考え方で、別のブログをはじめることにした。
 
 新ブログは「唐松模様」である。左のブログ名をクリックしてください。
 
 読者諸賢には、今後はどうか新ブログを本欄と変わらずご愛顧お願い申し上げます。なお、簡単な近況報告や“雑感”“雑談”のたぐいはフェイスブック「生長の家総裁」で継続するつもりである。こちらの方も、よろしく。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月15日

フェイスブックへの招待

 本欄で私はこれまで何回か、このアメリカのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を読者に紹介してきた。また、英語でよければ、ここに開設している私のページに登録してほしいとのお願いもした。そのおかげで現在、世界中で1200人以上の人が登録してくれている。しかし、英語でのコミュニケーションが苦手の人も多いだろうということで、このほど日本語専用の「生長の家総裁」のページを開設した。ここでは、本欄に書くような難しい議論はできるだけ避けて、私の妻のブログのような気軽な近況報告や、スナップ写真等を主体にした情報交換を行おうと思っている。本欄の継続は、前回書いたように一種の“暗礁”に乗り上げているから、その船が救出されるまででも、こちらの私のページをご愛顧いただけると有り難い。

 ただし、本欄に比べて、フェイスブックへの登録は少しだけ煩雑である点を、お赦しねがいたい。というのは、フェイスブックは“個人”を大切にするアメリカのサービスであり、そのために「実名登録」が原則であるからだ。また、SNSは個人相互のコミュニケーションのためのものだから、単に「他人の情報を読む」だけというのは基本的にできない。フェイスブックへの登録は、まず自分個人のページを作成したあと、そのページを一種の“自己紹介”の情報として示すことで、他人との関係を結ぶ。「私はこういう者ですが、あなたとお話ししたい」という感じである。この要望を「友達申請」とか「友人申請」といい、この申請を相手が承認して初めて、相互の情報交換がフルにできることになる。ただし、例外的に、この手続きを踏まないでも読み書きができるページがある。
 
 それは、有名人とか企業などの名の通った登録者が、コミュニケーションや市場調査目的で開設するページで、このページの情報を読んだり、そこへ何かを書き込みたい場合は、「いいね!」(英語モードでは「Like!」)というボタン(通常、画面の最上段左寄りにある)をクリックするだけでいい。私の「生長の家総裁」というページは、この特別の場合のものとして作ってある。しかし、その場合でも、自分のページは事前にきちんと作成しておかねばならない。その方法をすべてここでは説明できないが、まずは自分の「メールアドレス」と「パスワード」を入力し、次に出てくる画面の要求にしたがって、自分自身の情報を入力していけばいい。また、自分の顔写真をケータイやデジカメで撮り、パソコン内に取り込んでおいてほしい。これを登録することが、フェイスブック(顔の本)の特徴であり、本人確認の有力手段となる。入力情報は、必須のものと任意のものがあるから、すべてを入力する必要はない。メッセージは、ほとんどすべてが日本語で表示されるから心配ない。
 
 このようにして自分のページを作成し終わったら、上記の私のページへ進み、画面上方の「いいね!」をクリックすれば、私とのコミュニケ-ションが可能になる。それだけでなく、私のページに登録したすべての人とのコミュニケーションも可能となる。それでは皆さん、フェイスブックでお会いしましょう。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月14日

本欄が抱える問題について

 9月2日に本欄を書いたまま2週間ほど更新していないので、私の健康状態を心配してくださっている人がいるかもしれない。が、私は健康なのでご安心願いたい。11日に函館の生長の家講習会から帰って以来、少し疲れが出たことは告白するが、もう回復している。私の本欄への“筆無精”は、だから健康状態によるよりも、別の理由による。実は最近、本欄のような形式の文章に制約と限界を感じるようになったのである。だから、この形式を今後ずっと続けていくべきか、あるいは別の形式のものに変えるべきかを迷っている。そこで今日は、本欄を愛顧してくださってきた読者諸賢のご意見を聞くためにキーボードを叩いている。
 
 函館の講習会の日は、アメリカの同時多発テロ事件の10周年に当たることは、読者もご存知だろう。本欄は、この9・11に先立つ2001年1月13日からスタートした。ということは、本欄も“満10歳”に達したということだ。世の中には「十年一日」という言葉があって、10年も同じことをしていては評価されないのである。もちろん私が本欄に書く内容は、10年前とは相当異なってきているし、書き方や書くジャンルについても“連載モノ”や“祈りの言葉”“短編小説”など多様なものを盛り込んできた。しかし、それにしてもこの「ブログ」という日記的な表現形式は日々の現象を追っていくことが主になるから、どうしても限界があり、例えば沈思黙考した文章というのは書けない。そんな時間がないからである。すると、読者から不満の声が寄せられる。私にとっても不満が残る文章も多いから、そういう読者の気持もよくわかる。だから、反論はしない。
 
 はっきり言わせていただけば、私は一種の“下書き”のつもりで本欄を書くことが多い。あとから月刊誌に掲載したり、単行本に収録するさいに、内容をもっと吟味しなければ……と考えながらも、ブログだから発表することになるのである。実際、そういうブログの内容を編集、編纂して単行本の『日時計主義とは何か?』(2007年)『日々の祈り』(同年)『太陽はいつも輝いている』(2008年)『衝撃から理解へ』(2008年)『目覚むる心地』(2009年)『“森の中”へ行く』(2010年)などは出版された。しかし、本欄の読者は、そんな事情などに関心がない場合がほとんどだから、自分の求めるレベルの文章がないと、不満を漏らすのである。中には、「生長の家総裁には一分のスキも許されない」と言わんばかりの厳しいご意見を述べる人もいる。現象に完全性を求めるのである。
 
 私はもちろん反論することもできるが、この程度のものにいちいち反論することは本欄の程度を下げるし、私の時間を浪費するし、多くの読者の気分を害することにもなりかねない。だから、黙って次の日のブログを書くのである。初めから悪意をもってするコメントもあるが、そういう低レベルのコメントはブログの機能で自動的にシャットアウトできるから、問題ない。いちばん困るのは、こちらの事情をよく理解しないまま、まったくの善意から忠告をくださる読者である。そういう人には、本当の事情を知ってほしいのだが、それを本欄に書いたり、メールで直接本人に伝えるところまでは、私にはできないのである。それほどの時間的余裕はない。私は本欄を継続するだけで、相当のエネルギーを使ってきた。そういう事情もご本人はまったく知らないだろう。私はそれに文句を言わない。一般の信徒は、生長の家総裁の仕事がどういうレベルで、どの程度多忙であるかを知る必要は、まったくない。だから、これまでの本欄のような表現形式を改める以外に方法はない、と私は考えるのである。
 
 読者からのフィードバックをお願いする。
 
 谷口 雅宣

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2011年9月 2日

台風に先駆けて広島入り

 大型の台風12号が接近しているため、4日に開催される広島市での生長の家講習会へ行けなくなるリスクを考えて、2日前の今日、広島入りをはたした。急遽変更した午前9時45分羽田発のJAL1605便に妻とスタッフ一行が乗り込んだ際、中国地方はすでに暴風に見舞われていたため、同機は「着陸できない場合は羽田に引き返す」という条件づきで離陸した。講習会へ行くための旅では、1年にだいたい1回、こういう“非常事態”に遭遇する。それでも、過去からずっと「行けなかった」という例はなかったから、今回もそれほど心配していなかった。が、搭乗機が広島上空にさしかかると、機体がククッと吊り上がったり、グッと落ちたりするような上下動がひんぱんに起こり、機体が左右に揺れ動く。機長は出発時のアナウンスで「着陸をやり直すこともある」と言っていたから、さすがに緊張した。そして、広島空港に無事着陸したときは、妻と2人で遠慮がちに拍手をしたのだった。
 
 今回の台風は、大型であるだけでなく、進行速度が遅いから、一箇所に大量の雨をもたらす“雨台風”である。大型なのは、風速15m以上の強風域が半径500km以上の広範囲にわたるからだ。また、いわゆる“台風の目”が中心から100km付近まであって、ドーナツ型をしているのが特徴らしい。私たちは昼ごろに広島市内のホテルに到着したが、雨はまだ小降りの状態だった。しかし、熱気のある強風が吹き荒れていて、「なるほど台風が来ている」という実感がした。が、本当はこのときは、台風の大きなドーナツ型の雲の北側の端が広島市に触れている程度の段階で、夜から翌日にかけてが荒天のピークになる、とテレビの天気情報は伝えていた。
 
Hiroshimamuse  昼食後の午後の時間、私たちはホテルのすぐ向かい側にある「ひろしま美術館」へ出かけ、絵画の鑑賞をした。講習会の旅先で美術館へ行くことは珍しくないが、その際は、講習会後、帰途につくまでのわずかな空き時間に、駆け足状態で鑑賞することになる。が、今回は時間の心配をしないで鑑賞できた。「フランスを中心とするヨーロッパ美術」の展覧会をしていて、マネ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ロートレック、ピカソ、マティス、ローランサン、シャガールなどの作品を堪能できた。今回の台風では洪水の被害などが多く出ているが、私は台風に感謝したい気持になった。しかし、講習会の推進や準備に取り組んでいる当地の人々は、さぞ大変なことだと思う。皆さんが、無事に講習会当日を迎えられることをお祈りする。

 谷口 雅宣

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2011年9月 1日

人間の“死”の意味

 私は生長の家講習会で「神は悪をつくりたまわず」という話をするとき、「死も悪ではない」ことを例として使うことがある。これはもちろん“肉体の死”のことで、その前提として「人間は肉体ではない」という教えが説かれなければならない。つまり、肉体の死は必ずしも“悪”ではないということだ。すると、驚いたような顔をする人がいる。しかし、私がそう言ったあと、肉体が死ななくなったときの社会を想像してほしいといって、超高齢化社会の到来、人口爆発の問題、社会や企業・団体・家庭における世代交替の必要性、医療費の負担問題などを挙げると、納得してくれたような顔になる。肉体の死は、このように現象世界の秩序維持のためには必要なのである。
 
 が、もちろん、人間が自分や近親者の死を感情的に受け入れることはなかなか難しい。それは、自分が最も大切だと考えかつ信じてきたものが、肉体の死によって永遠に失われると考えるからである。が、ほとんどの宗教が、「肉体の死は人間の終わりではない」と説いている。生長の家の場合、「死はナイ」という端的で強烈な表現によって、多くの人々を死の不安や悩みから救ってきたのである。

 この“肉体の死”は文明にとって必要だと訴える意見が、30日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙の論説面に載っていたので、興味深く読んだ。書き手は哲学者であり、外交官でもあったスティーブン・ケイヴ(Stephen Cave)というイギリス人だ。ケイヴ氏は、哲学のみならず心理学、脳科学、宗教の分野の知識を駆使して、人間の文明を動かしている根源を探求した『Immortality(不死)』という本を書き、これが来年春の発売前から話題になっているらしい。この論説は、その著書の主旨をまとめたものという。

 それをひと言で表現すれば、「人間は“死ぬ”という意識を克服するために文明をつくり出してきた」ということだろうか。別の言い方をすれば、もし“肉体の死”がなくなってしまえば、それは“文明の死”でもあるというのだ。イギリスではBBCテレビが『トーチウッド:奇蹟の日』という連続ドラマを夏休みの期間にやっていて、これが9月で終わるらしい。このドラマの中で「奇蹟」と読んでいるのは、死がなくなることだという。ケイヴ氏によると、大方の予想とは異なり、人類は死の消滅による人口過剰の問題を物質的には克服することができるが、心理的にはそれができないという。その理由は、人類の文明は「不死」を実現しようとする情熱によって形成されてきたからだという。

 この“不死への情熱”が宗教を生み出し、詩を書かせ、都市を建設させるなど、我々の行為と信念の方向性を決定している、とケイヴ氏は言う。このことは、昔から哲学者や詩人によって言われてきたが、科学的な検証は、最近の心理学の発達によって初めて可能になってきたらしい。この論説には、その初期の実験の1つが紹介されている。
 
 それは1989年に始まったアメリカの社会心理学者たちの研究で、これによって「自分は死ぬ」という事実を思い出すだけで、人間は政治的、宗教的考え方を大きく変えることが分かったという。この研究は、アメリカのアリゾナ州ツーソン市の裁判官たちの協力のもとに行われた。この裁判官のグループのうち半数には、心理テストを行いながら「自分は死ぬ」ということを思い出させ、残りの半数にはそうしなかった。その後、彼らがよく扱うような売春をめぐる仮想の事件を判断させたという。すると、死について思い出した裁判官たちは、そうでない裁判官たちよりも重い--平均で9倍もの--罰金を科す判断を下したという。

 この結果をどう解釈するかが、興味深い。ケイヴ氏によると、この実験の背後にある仮説は、「我々人間は、死は避けられるとの感覚を得るために文化や世界観をつくり出す」というものだ。しかし、死はいずれやってくるから、それを思い出した人間は、自分の信念に以前より強固にしがみつき、それを脅かすものに対して、より否定的な態度をとる、と考えるのである。だから、これまでにも売春を罪として裁いてきた裁判官は、自分の死を思い出すと、その科料を引き上げることで、裁判官としての信念や世界観を守り通そうとするわけだ。
 
 「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」として知られるこの仮説は、シェルドン・ソロモン(Sheldon Solomon)、ジェフ・グリーンバーグ(Jeff Greenberg)、トム・シジンスキー(Tom Pyszczynski)という3人の心理学者によって提唱され、これまで400例を超える検証が行われてきたという。その分野も宗教から愛国心にいたるまで幅広く、検証の結果は一貫して正しいことが認められているという。つまり、我々の考え方のある要素は、死への恐怖を和らげる必要から生まれる--言い換えれば、我々の文化や哲学、宗教などの様々な心理体系は、我々が「死なない」ことを約束するために存在するというのだ。
 
 こういう観点から世の中を見てみると、なるほどとうなずけることが多い。ケイヴ氏は、エジプトのピラミッドやヨーロッパ各地の大聖堂、現代都市にそびえる超高層ビル群などを例として挙げているが、これらの物理的な構築物が“死を超えた世界”を描いているだけでなく、そういう建物の中で説かれる教えや、そこに設置される施設、そこで提唱されるライフスタイルも、「死後も生きる」ことや「死の到来を延期させる」希望によって彩られている、と考えることができるのである。
 
 このように見ていくと、今後、再生医療やアンチエージング医療が急速に進歩し、もし本当に “肉体の死”がなくなる日が来たとしたら、人間は死の恐怖から解放されるから、これらすべての文化的、宗教的、社会的な営みの原因も消滅し、人類の文明は崩壊することになる。だから、人類がこれまで“不死の薬”の開発に成功しなかったことに我々は感謝すべきなのだ--これがケイヴ氏の結論である。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月30日

山林の価値を認めてほしい

 ヨーロッパの人々は樹木を大切にするという話を書いたが、「いや待てよ……」と疑いたくなるような話が新聞に載っていた。今日付の『朝日新聞』によると、オーストリアとイタリアの国境にあるグローセ・キニガット(標高約2,689m)とロスコップ(同約2,603m)の2つの山の山頂付近を、オーストリア政府が売りに出したというのである。前者は山頂と周辺の2つの峰を含む約92万平方メートル、後者は山頂を含む約29万平方メートルで、値段はそれぞれ約9万2千ユーロ(約1千万円)と、約2万9千ユーロ(約330万円)という。もちろん、そこに生えている森林もすべて一緒に売り払う話だ。しかし、国民から猛反対されたため、方針転換を余儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかというと、自然物に対する経済的評価の低さである。2千メートル級の山の山頂付近を「330万円から1千万円」と評価する考え方は、相当程度の低い人間中心主義だと思った。記事によると、この値段をはじき出したのは、オーストリア政府から国有不動産の管理・売買を委託されている公営企業体だというから、いいかげんな会社ではないだろう。その会社の36歳の報道官は、今回の話に関連して、「公営企業だから納税者に責任がある。2つの峰のような価値の低い物件は徐々に処分していく」と説明したという。また、政府当局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っていてもあまり利益がない。外国企業などが高値で買いたいといえば、売る人が出てくるかもしれない」と話したとも書いてある。

 こういうことを政府や公営企業の上層部にいる人々が平気で言うとしたら、その国の人々は樹木などの自然物を大切にすると本当に言えるだろうか、という疑問が湧き上がったのである。しかし、国民がその話を聞いて一斉に反発したのだから、一般のオーストリア人には良識があると考えるべきだろう。問題はやはり、現在の経済学の考え方の中に潜む人間中心主義なのだろう。言い換えれば、山や森林がもつ“生態系サービス”と呼ばれる数々の貴重な機能の評価が、今の経済統計の中からごっそりと抜け落ちていることが問題なのだ。そこから、「金銭的評価=価値」という短絡的思考によって、今回のような愚かなことが真面目に検討される。上記の値段は決して高くはないから、この峰を買おうとしてドイツのソフトウェア会社が名乗りを上げたという。「ぜひ購入して山頂に会社名をつけたい」のだそうだ。また、中東やロシアの投資家からも問い合わせがあったという。

 こういう話を聞くと、日本でもかつて北海道の原野や森林などを外国人や外国企業が購入して問題になったのを思い出す。山林は、飲料水の生産地であることを忘れてはいけない。今、世界中で水不足--特に、飲料水の不足が深刻化している。だから、「飲料水を生産する」という機能だけでもきちんと経済的に評価すれば、山林の値段は上がり、地方の活性化や林業の振興につながるはずだ。これに加えて、「二酸化炭素を吸収する」という山林の機能をきちんと評価すれば、都会偏重のいびつな経済は修正されて、よりバランスのとれた自然尊重の社会に移行すると思うのだ。そういう抜本的な制度改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月28日

樹木の大切さを思う

 今日は山形駅前の山形テルサで生長の家講習会が開催され、647人の受講者が集まってくださった。2年前の前回より受講者数は89人(12.1%)減少したが、今回の講習会の推進期間が、ちょうど東日本大震災後の東北地方全体の混乱期に当たったという、やむをえない事情がある。例えば、受講券奉戴式は当初、震災3日後の3月14日に予定されていたが、この日は会場の教化部には数人しか集まらなかったため、行事は事実上延期しなければならなかったという。また、震災後の数カ月、ガソリンの供給が減少したことで、教化部での会合などが予定通りに行えないなど活動の停滞があった。それでも、東北人の粘り強さと教区一丸となった熱心な推進で前回の8割以上を結集したことはありがたく、喜ばしいことだと思う。
 
 講習会後、帰京の列車出発までのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山形城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやイチョウなどの大木が何本も残っているのが目立った。私はこの日、午後の講話でドイツとイギリスでの講演会などの報告をさせてもらったが、その時、訪れた街々の写真を示して、両国の人々が樹木を大切にしているという印象を強くもったことを話した。私の住んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など一部の緑地を除けば、街路樹や公園の木を簡単に切り倒してしまうのを苦々しく思っていたが、霞城公園にはまだ多くの大木が残っているのを見て、「日本人もまだ捨てたものではない」と胸をなで下ろしたのである。
 
 樹木の価値とありがたさは、強調しても強調しすぎることはない、と最近よく思う。大きな木が1本あるということは、木陰ができることで土地の乾燥を防ぎ、有害な紫外線から土地が護られ、下草が生えて虫や微生物が繁殖する。それだけでなく、その木には何千種類もの昆虫が棲みついているから、それを食べに鳥類が飛来し、巣作りをする。果実ができればさらに多くの動物がやってくるし、落葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。樹木は枝葉に水を溜めるから、大雨が降っても土壌の流失はなく、土中に広がった根は水を浄化しながら、土砂崩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに樹木があるのとないのとでは、大きな違いが出る。
 
 地球温暖化問題が脚光を浴びるようになったことで、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出してくれることは、多くの人々が知ることになった。しかし、地球を取り囲む大気の構成が、植物の活動なくして現在の状態になりえないということは、あまり知られていないだろう。この大気があることと、その外側にオゾン層があることで、宇宙空間を飛び交っている大量の放射線が、地球の表面にあまり届かないようになっていることは、重要な事実だ。つまり、植物が存在するおかげで、私たち動物は酸素呼吸ができるだけでなく、放射線による遺伝子破壊の危険からも常に護られているのだ。この放射線防護機能は、人間が考え出したどんな方式の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな津波が押し寄せようが、この放射線防護機能はびくともしない。が、愚かな人間がそんな植物を大量に伐採し、燃やし、それでも足りずに、大昔の植物であった石炭を地下から掘り出して燃やし、また、生物の死骸だった石油を燃やし続けることで、地球の大気の構成を変えようとしているのである。

 こういう観点から考えてみても、原子力エネルギーを人類が利用し続けることが、地球全体の生命にとってどんなに不合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民主党の総裁選挙が行われているが、原発からの脱却を明確に訴える候補者がいないのは、誠に残念なことである。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月25日

ドイツでの国際教修会について (5)

 前回の本欄では、マルカス・フォクト氏の“人間中心主義”について若干の疑問を呈したが、私は彼の神学者としての立場を理解しないわけではない。神学者は、聖書の記述にもとづいて教義の解釈をしなければならないのは、当然だからだ。そして、『創世記』には確かに人間中心主義的な解釈ができる聖句がいくつも含まれている。また、生長の家でも「人間は神の自己実現である」と説いていて、我々人間が動植物とまったく同等の関係で「神の御徳を表現している」とは考えない。生長の家では、人間が他の生物に優れているのは「自由を許されている」という点で、それによって初めてこの世界に「善」を実現することが可能になる、と考える。なぜなら、自由意思のないロボットのような存在は、どのような行動をしても「善悪」の責任を問われることはないからだ。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値は人間によって創られる」と言ったとき、それはある意味では正しい。その「ある意味」とは、経済学における需要と供給の関係のように狭義で短期的な視点から離れて、生態学で扱われるような広域にわたり長期的な視点から評価した場合の価値である。私たちの日常生活の中でも、あるものをどちらの視点から見るかによって、その価値の評価は変わることがある。
 
 簡単な例を挙げれば、レストランに入ったときのメニュー選びである。我々は一般に安くて、豪華で、良質なものを好むと思われるが、それを「空腹である」という個人的で、短期的な視点--空腹なのは自分であり、空腹の状態は短期的である--だけから見れば、高蛋白、高カロリーで見栄えがよく、比較的安価なメニューを選ぶ人が多いかもしれない。しかし、生長の家の教えを知っていて、地球温暖化や食糧問題に我々の食生活が大いに関係していることを学んでいる人は、より広く、長期的な視点から自分の食生活を考えるだろうから、多少ボリュームは少なくても、肉食を避け、野菜や海産物を主体としたメニューを選ぶようになる。その場合、メニューの中では比較的値段の高いものを選ぶことも十分ありえるだろう。

 こういう例などは、社会が決めた価値と個人の決めた価値とが食い違う場合で、個人が自由意思を行使したのである。そして、高蛋白で肉主体のボリュームのあるメニューは捨てられ、それより値段は高くても、地球環境や世界の食糧供給に害の少ないメニューが選ばれた。だから、ものの価値は人間によって決まるというキリスト教の価値論は当たっている。が、この場合、このレストランでの、この個人の選択が、社会全体の価値観を変えたとは言えない。一個人の一回の食事の選択だけでは、社会全体の価値観は変わらない。では、同じ1つのメニューに対して“複数の価値”があると考えるべきだろうか。となると、その同じメニューを選択する人の数は事実上“無数”だと考えられるから、世界には無数の価値がバラバラに存在するということか。しかし、そう考えてしまうと、世の中で起こるあらゆる出来事の価値は相対的だということになり、「善悪」を評価すること自体が無意味になってくるる。そして、法律や倫理・道徳、宗教の存在価値はなくなってしまう。
 
 だから、神学者が「ものの価値は人間によって創られる」と言うときは、人それぞれがバラバラの価値基準をもっているという意味ではなく、人間には共通する価値基準があり、それがものの“本当の”価値を決めるという意味でなければならない。我々が使っている例にしたがって言えば、安価でボリュームたっぷりのハンバーグ定食を選ぶ人(Aさん)にも、高価だがより低カロリーで、野菜も比較的多いカツオのたたき定食を選ぶ人(Bさん)も、この人類共通の価値基準にしたがって行動したのではないが、食品をめぐる知識をより多く得て、さらに地球環境や食糧・人口問題などの知識も豊富に得たうえで、倫理的判断をせよと言われたならば、AさんもBさんも同様な--本当の--判断をする、ということではないだろうか。これは、実際に今そうなるという話ではなく、そうなる可能性が将来予見できるという話である。つまり、現実には存在していないが、条件が整えばそのようになるはずだという想定された状況である。

 こうなってくると、「ものの価値は人間によって創られる」というのと「ものの(本当の)価値は神によって与えられている」というのと、内容的には違いがなくなってくるのである。とりわけ、人間を“神の似姿”としてとらえるキリスト教においては、そうならざるを得ないのではないかと私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年8月21日

ドイツでの国際教修会について (4)

 このテーマで前回書いたときから、しばらく日がたってしまった。ドイツのカトリック神学者、マルカス・フォクト氏によるキリスト教の世界観を学んでいる途中だった。それによると、キリスト教には神・人・自然を3つの主体として明確に区別する“三者分立”の考えが強く、さらにそれらの間に「神」「人」「自然」の順に序列がついているのだった。その根拠は、神は創造主であり、すべて原因者だから第1に価値があり、人は、その神を経験できる被造物として2番目に価値を有し、自然はそれができない被造物であるがために3番目の地位に置かれるということだった。ここまでは、論理的にはわかりやすい。が、現代の科学的研究の結果と合致させようとすると、無理が生じる部分がある。特に人間と自然とを截然と分離する考え方は、近年の生物学の発見とは相当矛盾してくるだろう。
 
 ところで、フォクト氏が「ものの価値」について語るとき、私の脳裏には疑問符がいくつも浮かぶ。同氏によると、ディープ・エコロジーでは自然界の価値は自然そのものの中にあるとするが、キリスト教的世界観では、ものの価値は人間が決めるというのである。私は、これには大いに異論がある。確かに資本主義経済の中では、ものの価値は人間によって決められる。簡単に言えば、需要と供給が一致する点でものの値段は決まる。しかし、それはあくまでも経済学であり、宗教ではない。しかし、フォクト氏は、キリスト教的視点では、ものの価値は予め与えられているもの、あるいは自然によって前もって決まっているものではないという。そうではなく、人間同士の検討によって創られるものだという。そして、「これが真に存在論的な意味での“人間中心主義”である」と言うのである。その意味は定かでないが、人間中心主義を否定していないことは確かである。が、その一方で、これは人間だけを問題にすることではないという。この重要な発言についての説明は非常に短くて、難解だ。「これは知識と倫理的判断についての存在論的な前提条件であり、自然の内在的価値を無視しているのではない」というだけである。

 この説明だけでは、同氏の真意を確かめることはできない。が、あえて想像してみるならば、こういうことだろうか--すなわち、キリスト教的見方によれば、人間が他の自然よりも価値があるのは「神を体験する」という理性があるからだ。逆に言えば、自然には理性がない。ということは、価値の存在や高下を判断するのはこの理性によるのだから、自然自体には価値判断の能力がない。だから、自然界には弱肉強食の生存競争が存在している。これをトマス・アクィナスは「自然悪(natural evil)」と呼んだ。もちろん、人間社会にも弱肉強食の現象は存在する。しかし、人間はその状態を見て「悪いことだ」と判断する能力がある。これがつまり「神を体験する」という意味だろう。別の表現を使えば、自分の良心の内に神の声を聴くということだ。そういう“神の似姿”として創られた人間が自然界の出来事の価値判断をせずに、自然自体に--自然のすべての部分に--価値があると考えることは、人間存在自体の意味を否定することになる--これが、同氏のいう「存在論的な前提条件」の意味なのだろう。簡単に言えば、人間の存在の意味を肯定するならば、人間中心主義にならざるを得ないということだろう。

 しかし、この考え方では、「自然から学ぶ」とか「自然の中に神を見出す」ということが可能であるかどうかの疑問が残る。フォクト氏は「自然の中に神性を見出す」というディープ・エコロジーの考え方を否定しているから、論理的一貫性は保たれている。しかし、このような一貫性に固執する態度は、あまりにも左脳偏重ではないかという気がする。人間は誰でも、虚心になって自然現象に相対するとき、神秘性、偉大性、壮大性など、自分を超えた価値の存在を心の中に感じるものである。その感覚は、論理によって説明し尽くせるものではない。そういう感情を“偶像崇拝への誘惑”として否定することが人間らしい生き方であり、しかも神への忠誠を誓うことになるとキリスト教では考えるのだろうか。このへんの疑問は、いつかぜひ同氏に聞いて説明を受けたいと感じる。なぜなら、氏はドイツ人であるだけでなく、フライブルグ市の出身だというからだ。ドイツ人は昔から“森”を愛することで有名であり、ドイツ国内でその“森”と人間との調和的発展が実現している町が、フライブルグ市だからだ。
 
 谷口 雅宣

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