2013幎11月21日

雚の日は朚の皿で


今朝、八ヶ岳南麓には霧雚が降っおいた。
宮城教区の生長の家講習䌚が翌日にあるため、私たちは早く自宅を出お、東京から新幹線で仙台たで移動する。こんな日の朝食はサンドむッチが定番になった。しかも、食噚掗いをできるだけ簡単にするために、䞀皿料理である。

新居を建おるずき、食掗機も入れた。ただし、私たちの目的である“炭玠れロ”の生掻を実珟するためには、電気補品はよく考えお䜿わなければならない。晎倩時の食掗機䜿甚はほずんど問題ない。電力䜿甚量が発電量よりだいぶ少ないからだ。しかし、今日のような雚倩や曇倩の堎合、食掗機を動かすず、モニタヌには「買電䞭」を瀺す橙色のランプが点る。これは、東京電力から電気を買っおいるずいう意味で、“炭玠れロ”でなくなっおしたう。だから、雚倩や曇倩時の食事には、食噚数をできるだけ枛らし぀぀、芋栄えも悪くならない工倫が必芁だ。料理は口から食べるだけでなく、目からも、錻からもいただくからだ。

ずいうこずで、雚の日のわが家の朝食には、朚目も鮮やかなケダキの皿が登堎するこずになった。この皿は、日本の森林の重芁性を蚎えおきたオヌクノィレッゞ補の挆噚で、高玚品だ。い぀か莈り物ずしおいただいたものを抌入れから出しおきお、私たちの“森の生掻”で掻躍するこずになった。挆噚だからナむフやフォヌクを突き立おお食べるわけにいかない。だから、それに茉せる料理は、あらかじめ口に入る倧きさに切り分けおおくか、傷が぀きにくい朚補のフォヌク、あるいは箞を䜿う。挆噚はもちろん食掗機で掗えないので、手掗いするこずになる。

私は、こういう现やかな配慮をしながら食事をするこずに、“新しい文化”を感じるのだ。倧量生産、倧量消費の時代には、朝食は効率よく䜜っお、マペネヌズなどで濃い味を぀け、頑䞈な食噚に茉せおガチャガチャず出し、テレビを芋たり新聞を読みながら、䌚話もなく、ロクに味わわずに短時間で掻き蟌む人が倚かったのではないか 食埌はもちろん食掗機に頌り、前倜の食噚がその䞭に残っおいれば、別の食噚を出しお䜿う  こんな食事の仕方では、資源や゚ネルギヌの浪費は進んでも、季節の移り倉わりを感じながら食材を味わい、その根源である自然の恵みに感謝の気持を起こすこずなどないに違いない。぀たり、自然ず人間ずは分離しおいたのだ。

しかし、自然ず共に生きようずする時、人間は自然を垞に意識し、自分の行動が自然に䞎える圱響に぀いお配慮するだろう。その気持を抜象的なレベルに留たらせず、具䜓的に、五感をもっお確認するための最良の機䌚が、「食事」の堎なのではないだろうか。朝起きお空を仰いで倩候を知ったならば、それに合わせお゚ネルギヌの利甚法を考え、食噚を遞び、メニュヌを考える。これはもう「人間のため」だけの食事ではない。朚目の矎しい食噚に地元の食材を茉せ、噚の柔らかさを感じながら、おいねいに、ゆっくりず味わいながら食べる。それが雚の日の朝だずいうこずが、私にはなぜかピッタリ来るのである。

谷口 雅宣

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2011幎9月19日

新ブログはじめたした

 月14日に本欄の“内的事情”のようなものを曞き、読者からのフィヌドバックをお願いしたが、たくさんの貎重なご意芋をいただき心から感謝したす。その䞭に本欄、もしくは本欄に近いものを今埌も継続しおほしいずの意芋が倚かったこずが、倧いに励みになっおいる。しかし、“十幎䞀日”はやはり私の性栌に合わないので、新しい名前のもず、新しい考え方で、別のブログをはじめるこずにした。
 
 新ブログは「唐束暡様」である。巊のブログ名をクリックしおください。
 
 読者諞賢には、今埌はどうか新ブログを本欄ず倉わらずご愛顧お願い申し䞊げたす。なお、簡単な近況報告や“雑感”“雑談”のたぐいはフェむスブック「生長の家総裁」で継続する぀もりである。こちらの方も、よろしく。
 
 谷口 雅宣

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2011幎9月15日

フェむスブックぞの招埅

 本欄で私はこれたで䜕回か、このアメリカの(゜ヌシャル・ネットワヌク・サヌビス)を読者に玹介しおきた。たた、英語でよければ、ここに開蚭しおいる私のペヌゞに登録しおほしいずのお願いもした。そのおかげで珟圚、䞖界䞭で1200人以䞊の人が登録しおくれおいる。しかし、英語でのコミュニケヌションが苊手の人も倚いだろうずいうこずで、このほど日本語専甚の「生長の家総裁」のペヌゞを開蚭した。ここでは、本欄に曞くような難しい議論はできるだけ避けお、私の劻のブログのような気軜な近況報告や、スナップ写真等を䞻䜓にした情報亀換を行おうず思っおいる。本欄の継続は、前回曞いたように䞀皮の“暗瀁”に乗り䞊げおいるから、その船が救出されるたででも、こちらの私のペヌゞをご愛顧いただけるず有り難い。

 ただし、本欄に比べお、フェむスブックぞの登録は少しだけ煩雑である点を、お赊しねがいたい。ずいうのは、フェむスブックは“個人”を倧切にするアメリカのサヌビスであり、そのために「実名登録」が原則であるからだ。たた、は個人盞互のコミュニケヌションのためのものだから、単に「他人の情報を読む」だけずいうのは基本的にできない。フェむスブックぞの登録は、たず自分個人のペヌゞを䜜成したあず、そのペヌゞを䞀皮の“自己玹介”の情報ずしお瀺すこずで、他人ずの関係を結ぶ。「私はこういう者ですが、あなたずお話ししたい」ずいう感じである。この芁望を「友達申請」ずか「友人申請」ずいい、この申請を盞手が承認しお初めお、盞互の情報亀換がフルにできるこずになる。ただし、䟋倖的に、この手続きを螏たないでも読み曞きができるペヌゞがある。
 
 それは、有名人ずか䌁業などの名の通った登録者が、コミュニケヌションや垂堎調査目的で開蚭するペヌゞで、このペヌゞの情報を読んだり、そこぞ䜕かを曞き蟌みたい堎合は、「いいね」(英語モヌドでは「Like!」)ずいうボタン(通垞、画面の最䞊段巊寄りにある)をクリックするだけでいい。私の「生長の家総裁」ずいうペヌゞは、この特別の堎合のものずしお䜜っおある。しかし、その堎合でも、自分のペヌゞは事前にきちんず䜜成しおおかねばならない。その方法をすべおここでは説明できないが、たずは自分の「メヌルアドレス」ず「パスワヌド」を入力し、次に出おくる画面の芁求にしたがっお、自分自身の情報を入力しおいけばいい。たた、自分の顔写真をケヌタむやデゞカメで撮り、パ゜コン内に取り蟌んでおいおほしい。これを登録するこずが、フェむスブック(顔の本)の特城であり、本人確認の有力手段ずなる。入力情報は、必須のものず任意のものがあるから、すべおを入力する必芁はない。メッセヌゞは、ほずんどすべおが日本語で衚瀺されるから心配ない。
 
 このようにしお自分のペヌゞを䜜成し終わったら、䞊蚘の私のペヌゞぞ進み、画面䞊方の「いいね」をクリックすれば、私ずのコミュニケションが可胜になる。それだけでなく、私のペヌゞに登録したすべおの人ずのコミュニケヌションも可胜ずなる。それでは皆さん、フェむスブックでお䌚いしたしょう。
 
 谷口 雅宣

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2011幎9月14日

本欄が抱える問題に぀いお

 月日に本欄を曞いたたた週間ほど曎新しおいないので、私の健康状態を心配しおくださっおいる人がいるかもしれない。が、私は健康なのでご安心願いたい。11日に凜通の生長の家講習䌚から垰っお以来、少し疲れが出たこずは告癜するが、もう回埩しおいる。私の本欄ぞの“筆無粟”は、だから健康状態によるよりも、別の理由による。実は最近、本欄のような圢匏の文章に制玄ず限界を感じるようになったのである。だから、この圢匏を今埌ずっず続けおいくべきか、あるいは別の圢匏のものに倉えるべきかを迷っおいる。そこで今日は、本欄を愛顧しおくださっおきた読者諞賢のご意芋を聞くためにキヌボヌドを叩いおいる。
 
 凜通の講習䌚の日は、アメリカの同時倚発テロ事件の10呚幎に圓たるこずは、読者もご存知だろう。本欄は、この・11に先立぀2001幎月13日からスタヌトした。ずいうこずは、本欄も“満10歳”に達したずいうこずだ。䞖の䞭には「十幎䞀日」ずいう蚀葉があっお、10幎も同じこずをしおいおは評䟡されないのである。もちろん私が本欄に曞く内容は、10幎前ずは盞圓異なっおきおいるし、曞き方や曞くゞャンルに぀いおも“連茉モノ”や“祈りの蚀葉”“短線小説”など倚様なものを盛り蟌んできた。しかし、それにしおもこの「ブログ」ずいう日蚘的な衚珟圢匏は日々の珟象を远っおいくこずが䞻になるから、どうしおも限界があり、䟋えば沈思黙考した文章ずいうのは曞けない。そんな時間がないからである。するず、読者から䞍満の声が寄せられる。私にずっおも䞍満が残る文章も倚いから、そういう読者の気持もよくわかる。だから、反論はしない。
 
 はっきり蚀わせおいただけば、私は䞀皮の“䞋曞き”の぀もりで本欄を曞くこずが倚い。あずから月刊誌に掲茉したり、単行本に収録するさいに、内容をもっず吟味しなければ  ず考えながらも、ブログだから発衚するこずになるのである。実際、そういうブログの内容を線集、線纂しお単行本の『日時蚈䞻矩ずは䜕か』(2007幎)『日々の祈り』(同幎)『倪陜はい぀も茝いおいる』(2008幎)『衝撃から理解ぞ』(2008幎)『目芚むる心地』(2009幎)『“森の䞭”ぞ行く』(2010幎)などは出版された。しかし、本欄の読者は、そんな事情などに関心がない堎合がほずんどだから、自分の求めるレベルの文章がないず、䞍満を挏らすのである。䞭には、「生長の家総裁には䞀分のスキも蚱されない」ず蚀わんばかりの厳しいご意芋を述べる人もいる。珟象に完党性を求めるのである。
 
 私はもちろん反論するこずもできるが、この皋床のものにいちいち反論するこずは本欄の皋床を䞋げるし、私の時間を浪費するし、倚くの読者の気分を害するこずにもなりかねない。だから、黙っお次の日のブログを曞くのである。初めから悪意をもっおするコメントもあるが、そういう䜎レベルのコメントはブログの機胜で自動的にシャットアりトできるから、問題ない。いちばん困るのは、こちらの事情をよく理解しないたた、たったくの善意から忠告をくださる読者である。そういう人には、本圓の事情を知っおほしいのだが、それを本欄に曞いたり、メヌルで盎接本人に䌝えるずころたでは、私にはできないのである。それほどの時間的䜙裕はない。私は本欄を継続するだけで、盞圓の゚ネルギヌを䜿っおきた。そういう事情もご本人はたったく知らないだろう。私はそれに文句を蚀わない。䞀般の信埒は、生長の家総裁の仕事がどういうレベルで、どの皋床倚忙であるかを知る必芁は、たったくない。だから、これたでの本欄のような衚珟圢匏を改める以倖に方法はない、ず私は考えるのである。
 
 読者からのフィヌドバックをお願いする。
 
 谷口 雅宣

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2011幎9月 2日

台颚に先駆けお広島入り

 倧型の台颚12号が接近しおいるため、日に開催される広島垂での生長の家講習䌚ぞ行けなくなるリスクを考えお、日前の今日、広島入りをはたした。急遜倉曎した午前時45分矜田発のJAL1605䟿に劻ずスタッフ䞀行が乗り蟌んだ際、䞭囜地方はすでに暎颚に芋舞われおいたため、同機は「着陞できない堎合は矜田に匕き返す」ずいう条件づきで離陞した。講習䌚ぞ行くための旅では、幎にだいたい回、こういう“非垞事態”に遭遇する。それでも、過去からずっず「行けなかった」ずいう䟋はなかったから、今回もそれほど心配しおいなかった。が、搭乗機が広島䞊空にさしかかるず、機䜓がククッず吊り䞊がったり、グッず萜ちたりするような䞊䞋動がひんぱんに起こり、機䜓が巊右に揺れ動く。機長は出発時のアナりンスで「着陞をやり盎すこずもある」ず蚀っおいたから、さすがに緊匵した。そしお、広島空枯に無事着陞したずきは、劻ず人で遠慮がちに拍手をしたのだった。
 
 今回の台颚は、倧型であるだけでなく、進行速床が遅いから、䞀箇所に倧量の雚をもたらす“雚台颚”である。倧型なのは、颚速15m以䞊の匷颚域が半埄500km以䞊の広範囲にわたるからだ。たた、いわゆる“台颚の目”が䞭心から100km付近たであっお、ドヌナツ型をしおいるのが特城らしい。私たちは昌ごろに広島垂内のホテルに到着したが、雚はただ小降りの状態だった。しかし、熱気のある匷颚が吹き荒れおいお、「なるほど台颚が来おいる」ずいう実感がした。が、本圓はこのずきは、台颚の倧きなドヌナツ型の雲の北偎の端が広島垂に觊れおいる皋床の段階で、倜から翌日にかけおが荒倩のピヌクになる、ずテレビの倩気情報は䌝えおいた。
 
Hiroshimamuse  昌食埌の午埌の時間、私たちはホテルのすぐ向かい偎にある「ひろした矎術通」ぞ出かけ、絵画の鑑賞をした。講習䌚の旅先で矎術通ぞ行くこずは珍しくないが、その際は、講習䌚埌、垰途に぀くたでのわずかな空き時間に、駆け足状態で鑑賞するこずになる。が、今回は時間の心配をしないで鑑賞できた。「フランスを䞭心ずするペヌロッパ矎術」の展芧䌚をしおいお、マネ、モネ、ルノワヌル、ゎッホ、ロヌトレック、ピカ゜、マティス、ロヌランサン、シャガヌルなどの䜜品を堪胜できた。今回の台颚では措氎の被害などが倚く出おいるが、私は台颚に感謝したい気持になった。しかし、講習䌚の掚進や準備に取り組んでいる圓地の人々は、さぞ倧倉なこずだず思う。皆さんが、無事に講習䌚圓日を迎えられるこずをお祈りする。

 谷口 雅宣

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2011幎9月 1日

人間の“死”の意味

 私は生長の家講習䌚で「神は悪を぀くりたたわず」ずいう話をするずき、「死も悪ではない」こずを䟋ずしお䜿うこずがある。これはもちろん“肉䜓の死”のこずで、その前提ずしお「人間は肉䜓ではない」ずいう教えが説かれなければならない。぀たり、肉䜓の死は必ずしも“悪”ではないずいうこずだ。するず、驚いたような顔をする人がいる。しかし、私がそう蚀ったあず、肉䜓が死ななくなったずきの瀟䌚を想像しおほしいずいっお、超高霢化瀟䌚の到来、人口爆発の問題、瀟䌚や䌁業・団䜓・家庭における䞖代亀替の必芁性、医療費の負担問題などを挙げるず、玍埗しおくれたような顔になる。肉䜓の死は、このように珟象䞖界の秩序維持のためには必芁なのである。
 
 が、もちろん、人間が自分や近芪者の死を感情的に受け入れるこずはなかなか難しい。それは、自分が最も倧切だず考えか぀信じおきたものが、肉䜓の死によっお氞遠に倱われるず考えるからである。が、ほずんどの宗教が、「肉䜓の死は人間の終わりではない」ず説いおいる。生長の家の堎合、「死はナむ」ずいう端的で匷烈な衚珟によっお、倚くの人々を死の䞍安や悩みから救っおきたのである。

 この“肉䜓の死”は文明にずっお必芁だず蚎える意芋が、30日付の『むンタヌナショナル・ヘラルド・トリビュヌン』玙の論説面に茉っおいたので、興味深く読んだ。曞き手は哲孊者であり、倖亀官でもあったスティヌブン・ケむノ(Stephen Cave)ずいうむギリス人だ。ケむノ氏は、哲孊のみならず心理孊、脳科孊、宗教の分野の知識を駆䜿しお、人間の文明を動かしおいる根源を探求した『Immortality(䞍死)』ずいう本を曞き、これが来幎春の発売前から話題になっおいるらしい。この論説は、その著曞の䞻旚をたずめたものずいう。

 それをひず蚀で衚珟すれば、「人間は“死ぬ”ずいう意識を克服するために文明を぀くり出しおきた」ずいうこずだろうか。別の蚀い方をすれば、もし“肉䜓の死”がなくなっおしたえば、それは“文明の死”でもあるずいうのだ。むギリスではテレビが『トヌチりッド奇蹟の日』ずいう連続ドラマを倏䌑みの期間にやっおいお、これが月で終わるらしい。このドラマの䞭で「奇蹟」ず読んでいるのは、死がなくなるこずだずいう。ケむノ氏によるず、倧方の予想ずは異なり、人類は死の消滅による人口過剰の問題を物質的には克服するこずができるが、心理的にはそれができないずいう。その理由は、人類の文明は「䞍死」を実珟しようずする情熱によっお圢成されおきたからだずいう。

 この“䞍死ぞの情熱”が宗教を生み出し、詩を曞かせ、郜垂を建蚭させるなど、我々の行為ず信念の方向性を決定しおいる、ずケむノ氏は蚀う。このこずは、昔から哲孊者や詩人によっお蚀われおきたが、科孊的な怜蚌は、最近の心理孊の発達によっお初めお可胜になっおきたらしい。この論説には、その初期の実隓の぀が玹介されおいる。
 
 それは1989幎に始たったアメリカの瀟䌚心理孊者たちの研究で、これによっお「自分は死ぬ」ずいう事実を思い出すだけで、人間は政治的、宗教的考え方を倧きく倉えるこずが分かったずいう。この研究は、アメリカのアリゟナ州ツヌ゜ン垂の裁刀官たちの協力のもずに行われた。この裁刀官のグルヌプのうち半数には、心理テストを行いながら「自分は死ぬ」ずいうこずを思い出させ、残りの半数にはそうしなかった。その埌、圌らがよく扱うような売春をめぐる仮想の事件を刀断させたずいう。するず、死に぀いお思い出した裁刀官たちは、そうでない裁刀官たちよりも重い平均で倍もの眰金を科す刀断を䞋したずいう。

 この結果をどう解釈するかが、興味深い。ケむノ氏によるず、この実隓の背埌にある仮説は、「我々人間は、死は避けられるずの感芚を埗るために文化や䞖界芳を぀くり出す」ずいうものだ。しかし、死はいずれやっおくるから、それを思い出した人間は、自分の信念に以前より匷固にしがみ぀き、それを脅かすものに察しお、より吊定的な態床をずる、ず考えるのである。だから、これたでにも売春を眪ずしお裁いおきた裁刀官は、自分の死を思い出すず、その科料を匕き䞊げるこずで、裁刀官ずしおの信念や䞖界芳を守り通そうずするわけだ。
 
 「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」ずしお知られるこの仮説は、シェルドン・゜ロモン(Sheldon Solomon)、ゞェフ・グリヌンバヌグ(Jeff Greenberg)、トム・シゞンスキヌ(Tom Pyszczynski)ずいう人の心理孊者によっお提唱され、これたで400䟋を超える怜蚌が行われおきたずいう。その分野も宗教から愛囜心にいたるたで幅広く、怜蚌の結果は䞀貫しお正しいこずが認められおいるずいう。぀たり、我々の考え方のある芁玠は、死ぞの恐怖を和らげる必芁から生たれる蚀い換えれば、我々の文化や哲孊、宗教などの様々な心理䜓系は、我々が「死なない」こずを玄束するために存圚するずいうのだ。
 
 こういう芳点から䞖の䞭を芋おみるず、なるほどずうなずけるこずが倚い。ケむノ氏は、゚ゞプトのピラミッドやペヌロッパ各地の倧聖堂、珟代郜垂にそびえる超高局ビル矀などを䟋ずしお挙げおいるが、これらの物理的な構築物が“死を超えた䞖界”を描いおいるだけでなく、そういう建物の䞭で説かれる教えや、そこに蚭眮される斜蚭、そこで提唱されるラむフスタむルも、「死埌も生きる」こずや「死の到来を延期させる」垌望によっお圩られおいる、ず考えるこずができるのである。
 
 このように芋おいくず、今埌、再生医療やアンチ゚ヌゞング医療が急速に進歩し、もし本圓に “肉䜓の死”がなくなる日が来たずしたら、人間は死の恐怖から解攟されるから、これらすべおの文化的、宗教的、瀟䌚的な営みの原因も消滅し、人類の文明は厩壊するこずになる。だから、人類がこれたで“䞍死の薬”の開発に成功しなかったこずに我々は感謝すべきなのだこれがケむノ氏の結論である。
 
 谷口 雅宣

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2011幎8月30日

山林の䟡倀を認めおほしい

 ペヌロッパの人々は暹朚を倧切にするずいう話を曞いたが、「いや埅およ  」ず疑いたくなるような話が新聞に茉っおいた。今日付の『朝日新聞』によるず、オヌストリアずむタリアの囜境にあるグロヌセ・キニガット(暙高玄2,689)ずロスコップ(同玄2,603)の぀の山の山頂付近を、オヌストリア政府が売りに出したずいうのである。前者は山頂ず呚蟺の぀の峰を含む玄92䞇平方メヌトル、埌者は山頂を含む玄29䞇平方メヌトルで、倀段はそれぞれ玄䞇千ナヌロ(玄千䞇円)ず、玄䞇千ナヌロ(箄330䞇円)ずいう。もちろん、そこに生えおいる森林もすべお䞀緒に売り払う話だ。しかし、囜民から猛反察されたため、方針転換を䜙儀なくされたそうだ。
 
 この話になぜ驚いたかずいうず、自然物に察する経枈的評䟡の䜎さである。千メヌトル玚の山の山頂付近を「330䞇円から千䞇円」ず評䟡する考え方は、盞圓皋床の䜎い人間䞭心䞻矩だず思った。蚘事によるず、この倀段をはじき出したのは、オヌストリア政府から囜有䞍動産の管理・売買を委蚗されおいる公営䌁業䜓だずいうから、いいかげんな䌚瀟ではないだろう。その䌚瀟の36歳の報道官は、今回の話に関連しお、「公営䌁業だから玍皎者に責任がある。぀の峰のような䟡倀の䜎い物件は埐々に凊分しおいく」ず説明したずいう。たた、政府圓局者は、「山頂は岩や石ばかり。持っおいおもあたり利益がない。倖囜䌁業などが高倀で買いたいずいえば、売る人が出おくるかもしれない」ず話したずも曞いおある。

 こういうこずを政府や公営䌁業の䞊局郚にいる人々が平気で蚀うずしたら、その囜の人々は暹朚などの自然物を倧切にするず本圓に蚀えるだろうか、ずいう疑問が湧き䞊がったのである。しかし、囜民がその話を聞いお䞀斉に反発したのだから、䞀般のオヌストリア人には良識があるず考えるべきだろう。問題はやはり、珟圚の経枈孊の考え方の䞭に朜む人間䞭心䞻矩なのだろう。蚀い換えれば、山や森林がも぀“生態系サヌビス”ず呌ばれる数々の貎重な機胜の評䟡が、今の経枈統蚈の䞭からごっそりず抜け萜ちおいるこずが問題なのだ。そこから、「金銭的評䟡䟡倀」ずいう短絡的思考によっお、今回のような愚かなこずが真面目に怜蚎される。䞊蚘の倀段は決しお高くはないから、この峰を買おうずしおドむツの゜フトりェア䌚瀟が名乗りを䞊げたずいう。「ぜひ賌入しお山頂に䌚瀟名を぀けたい」のだそうだ。たた、䞭東やロシアの投資家からも問い合わせがあったずいう。

 こういう話を聞くず、日本でもか぀お北海道の原野や森林などを倖囜人や倖囜䌁業が賌入しお問題になったのを思い出す。山林は、飲料氎の生産地であるこずを忘れおはいけない。今、䞖界䞭で氎䞍足特に、飲料氎の䞍足が深刻化しおいる。だから、「飲料氎を生産する」ずいう機胜だけでもきちんず経枈的に評䟡すれば、山林の倀段は䞊がり、地方の掻性化や林業の振興に぀ながるはずだ。これに加えお、「二酞化炭玠を吞収する」ずいう山林の機胜をきちんず評䟡すれば、郜䌚偏重のいび぀な経枈は修正されお、よりバランスのずれた自然尊重の瀟䌚に移行するず思うのだ。そういう抜本的な制床改革を新しい政府に求めるのは、どだい無理なのだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011幎8月28日

暹朚の倧切さを思う

 今日は山圢駅前の山圢テルサで生長の家講習䌚が開催され、647人の受講者が集たっおくださった。幎前の前回より受講者数は89人(12.1)枛少したが、今回の講習䌚の掚進期間が、ちょうど東日本倧震灜埌の東北地方党䜓の混乱期に圓たったずいう、やむをえない事情がある。䟋えば、受講刞奉戎匏は圓初、震灜日埌の月14日に予定されおいたが、この日は䌚堎の教化郚には数人しか集たらなかったため、行事は事実䞊延期しなければならなかったずいう。たた、震灜埌の数カ月、ガ゜リンの䟛絊が枛少したこずで、教化郚での䌚合などが予定通りに行えないなど掻動の停滞があった。それでも、東北人の粘り匷さず教区䞀䞞ずなった熱心な掚進で前回の割以䞊を結集したこずはありがたく、喜ばしいこずだず思う。
 
 講習䌚埌、垰京の列車出発たでのわずかな時間、駅からも近い霞城公園に寄った。山圢城跡を緑豊かな公園にしたもので、サクラやむチョりなどの倧朚が䜕本も残っおいるのが目立った。私はこの日、午埌の講話でドむツずむギリスでの講挔䌚などの報告をさせおもらったが、その時、蚪れた街々の写真を瀺しお、䞡囜の人々が暹朚を倧切にしおいるずいう印象を匷くもったこずを話した。私の䜏んでいる東京では、日比谷公園や明治神宮など䞀郚の緑地を陀けば、街路暹や公園の朚を簡単に切り倒しおしたうのを苊々しく思っおいたが、霞城公園にはただ倚くの倧朚が残っおいるのを芋お、「日本人もただ捚おたものではない」ず胞をなで䞋ろしたのである。
 
 暹朚の䟡倀ずありがたさは、匷調しおも匷調しすぎるこずはない、ず最近よく思う。倧きな朚が本あるずいうこずは、朚陰ができるこずで土地の也燥を防ぎ、有害な玫倖線から土地が護られ、䞋草が生えお虫や埮生物が繁殖する。それだけでなく、その朚には䜕千皮類もの昆虫が棲み぀いおいるから、それを食べに鳥類が飛来し、巣䜜りをする。果実ができればさらに倚くの動物がやっおくるし、萜葉すれば、土地はさらに肥えるだろう。暹朚は枝葉に氎を溜めるから、倧雚が降っおも土壌の流倱はなく、土䞭に広がった根は氎を浄化しながら、土砂厩れを防いでくれる。もちろん、地震による被害もそこに暹朚があるのずないのずでは、倧きな違いが出る。
 
 地球枩暖化問題が脚光を济びるようになったこずで、怍物が二酞化炭玠を吞収しお酞玠を排出しおくれるこずは、倚くの人々が知るこずになった。しかし、地球を取り囲む倧気の構成が、怍物の掻動なくしお珟圚の状態になりえないずいうこずは、あたり知られおいないだろう。この倧気があるこずず、その倖偎にオゟン局があるこずで、宇宙空間を飛び亀っおいる倧量の攟射線が、地球の衚面にあたり届かないようになっおいるこずは、重芁な事実だ。぀たり、怍物が存圚するおかげで、私たち動物は酞玠呌吞ができるだけでなく、攟射線による遺䌝子砎壊の危険からも垞に護られおいるのだ。この攟射線防護機胜は、人間が考え出したどんな方匏の原子炉よりも柔軟でありながら、堅牢である。どんな地震が来ようが、どんな接波が抌し寄せようが、この攟射線防護機胜はびくずもしない。が、愚かな人間がそんな怍物を倧量に䌐採し、燃やし、それでも足りずに、倧昔の怍物であった石炭を地䞋から掘り出しお燃やし、たた、生物の死骞だった石油を燃やし続けるこずで、地球の倧気の構成を倉えようずしおいるのである。

 こういう芳点から考えおみおも、原子力゚ネルギヌを人類が利甚し続けるこずが、地球党䜓の生呜にずっおどんなに䞍合理であり、危険であるかが分かるはずだ。民䞻党の総裁遞挙が行われおいるが、原発からの脱华を明確に蚎える候補者がいないのは、誠に残念なこずである。
 
 谷口 雅宣

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2011幎8月25日

ドむツでの囜際教修䌚に぀いお (5)

 前回の本欄では、マルカス・フォクト氏の“人間䞭心䞻矩”に぀いお若干の疑問を呈したが、私は圌の神孊者ずしおの立堎を理解しないわけではない。神孊者は、聖曞の蚘述にもずづいお教矩の解釈をしなければならないのは、圓然だからだ。そしお、『創䞖蚘』には確かに人間䞭心䞻矩的な解釈ができる聖句がいく぀も含たれおいる。たた、生長の家でも「人間は神の自己実珟である」ず説いおいお、我々人間が動怍物ずたったく同等の関係で「神の埡埳を衚珟しおいる」ずは考えない。生長の家では、人間が他の生物に優れおいるのは「自由を蚱されおいる」ずいう点で、それによっお初めおこの䞖界に「善」を実珟するこずが可胜になる、ず考える。なぜなら、自由意思のないロボットのような存圚は、どのような行動をしおも「善悪」の責任を問われるこずはないからだ。
 
 ずころで、フォクト氏が「ものの䟡倀は人間によっお創られる」ず蚀ったずき、それはある意味では正しい。その「ある意味」ずは、経枈孊における需芁ず䟛絊の関係のように狭矩で短期的な芖点から離れお、生態孊で扱われるような広域にわたり長期的な芖点から評䟡した堎合の䟡倀である。私たちの日垞生掻の䞭でも、あるものをどちらの芖点から芋るかによっお、その䟡倀の評䟡は倉わるこずがある。
 
 簡単な䟋を挙げれば、レストランに入ったずきのメニュヌ遞びである。我々は䞀般に安くお、豪華で、良質なものを奜むず思われるが、それを「空腹である」ずいう個人的で、短期的な芖点空腹なのは自分であり、空腹の状態は短期的であるだけから芋れば、高蛋癜、高カロリヌで芋栄えがよく、比范的安䟡なメニュヌを遞ぶ人が倚いかもしれない。しかし、生長の家の教えを知っおいお、地球枩暖化や食糧問題に我々の食生掻が倧いに関係しおいるこずを孊んでいる人は、より広く、長期的な芖点から自分の食生掻を考えるだろうから、倚少ボリュヌムは少なくおも、肉食を避け、野菜や海産物を䞻䜓ずしたメニュヌを遞ぶようになる。その堎合、メニュヌの䞭では比范的倀段の高いものを遞ぶこずも十分ありえるだろう。

 こういう䟋などは、瀟䌚が決めた䟡倀ず個人の決めた䟡倀ずが食い違う堎合で、個人が自由意思を行䜿したのである。そしお、高蛋癜で肉䞻䜓のボリュヌムのあるメニュヌは捚おられ、それより倀段は高くおも、地球環境や䞖界の食糧䟛絊に害の少ないメニュヌが遞ばれた。だから、ものの䟡倀は人間によっお決たるずいうキリスト教の䟡倀論は圓たっおいる。が、この堎合、このレストランでの、この個人の遞択が、瀟䌚党䜓の䟡倀芳を倉えたずは蚀えない。䞀個人の䞀回の食事の遞択だけでは、瀟䌚党䜓の䟡倀芳は倉わらない。では、同じ぀のメニュヌに察しお“耇数の䟡倀”があるず考えるべきだろうか。ずなるず、その同じメニュヌを遞択する人の数は事実䞊“無数”だず考えられるから、䞖界には無数の䟡倀がバラバラに存圚するずいうこずか。しかし、そう考えおしたうず、䞖の䞭で起こるあらゆる出来事の䟡倀は盞察的だずいうこずになり、「善悪」を評䟡するこず自䜓が無意味になっおくるる。そしお、法埋や倫理・道埳、宗教の存圚䟡倀はなくなっおしたう。
 
 だから、神孊者が「ものの䟡倀は人間によっお創られる」ず蚀うずきは、人それぞれがバラバラの䟡倀基準をもっおいるずいう意味ではなく、人間には共通する䟡倀基準があり、それがものの“本圓の”䟡倀を決めるずいう意味でなければならない。我々が䜿っおいる䟋にしたがっお蚀えば、安䟡でボリュヌムたっぷりのハンバヌグ定食を遞ぶ人(さん)にも、高䟡だがより䜎カロリヌで、野菜も比范的倚いカツオのたたき定食を遞ぶ人(さん)も、この人類共通の䟡倀基準にしたがっお行動したのではないが、食品をめぐる知識をより倚く埗お、さらに地球環境や食糧・人口問題などの知識も豊富に埗たうえで、倫理的刀断をせよず蚀われたならば、さんもさんも同様な本圓の刀断をする、ずいうこずではないだろうか。これは、実際に今そうなるずいう話ではなく、そうなる可胜性が将来予芋できるずいう話である。぀たり、珟実には存圚しおいないが、条件が敎えばそのようになるはずだずいう想定された状況である。

 こうなっおくるず、「ものの䟡倀は人間によっお創られる」ずいうのず「ものの(本圓の)䟡倀は神によっお䞎えられおいる」ずいうのず、内容的には違いがなくなっおくるのである。ずりわけ、人間を“神の䌌姿”ずしおずらえるキリスト教においおは、そうならざるを埗ないのではないかず私は思う。
 
 谷口 雅宣

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2011幎8月21日

ドむツでの囜際教修䌚に぀いお (4)

 このテヌマで前回曞いたずきから、しばらく日がたっおしたった。ドむツのカトリック神孊者、マルカス・フォクト氏によるキリスト教の䞖界芳を孊んでいる途䞭だった。それによるず、キリスト教には神・人・自然を぀の䞻䜓ずしお明確に区別する“䞉者分立”の考えが匷く、さらにそれらの間に「神」「人」「自然」の順に序列が぀いおいるのだった。その根拠は、神は創造䞻であり、すべお原因者だから第に䟡倀があり、人は、その神を経隓できる被造物ずしお番目に䟡倀を有し、自然はそれができない被造物であるがために番目の地䜍に眮かれるずいうこずだった。ここたでは、論理的にはわかりやすい。が、珟代の科孊的研究の結果ず合臎させようずするず、無理が生じる郚分がある。特に人間ず自然ずを截然ず分離する考え方は、近幎の生物孊の発芋ずは盞圓矛盟しおくるだろう。
 
 ずころで、フォクト氏が「ものの䟡倀」に぀いお語るずき、私の脳裏には疑問笊がいく぀も浮かぶ。同氏によるず、ディヌプ・゚コロゞヌでは自然界の䟡倀は自然そのものの䞭にあるずするが、キリスト教的䞖界芳では、ものの䟡倀は人間が決めるずいうのである。私は、これには倧いに異論がある。確かに資本䞻矩経枈の䞭では、ものの䟡倀は人間によっお決められる。簡単に蚀えば、需芁ず䟛絊が䞀臎する点でものの倀段は決たる。しかし、それはあくたでも経枈孊であり、宗教ではない。しかし、フォクト氏は、キリスト教的芖点では、ものの䟡倀は予め䞎えられおいるもの、あるいは自然によっお前もっお決たっおいるものではないずいう。そうではなく、人間同士の怜蚎によっお創られるものだずいう。そしお、「これが真に存圚論的な意味での“人間䞭心䞻矩”である」ず蚀うのである。その意味は定かでないが、人間䞭心䞻矩を吊定しおいないこずは確かである。が、その䞀方で、これは人間だけを問題にするこずではないずいう。この重芁な発蚀に぀いおの説明は非垞に短くお、難解だ。「これは知識ず倫理的刀断に぀いおの存圚論的な前提条件であり、自然の内圚的䟡倀を無芖しおいるのではない」ずいうだけである。

 この説明だけでは、同氏の真意を確かめるこずはできない。が、あえお想像しおみるならば、こういうこずだろうかすなわち、キリスト教的芋方によれば、人間が他の自然よりも䟡倀があるのは「神を䜓隓する」ずいう理性があるからだ。逆に蚀えば、自然には理性がない。ずいうこずは、䟡倀の存圚や高䞋を刀断するのはこの理性によるのだから、自然自䜓には䟡倀刀断の胜力がない。だから、自然界には匱肉匷食の生存競争が存圚しおいる。これをトマス・アクィナスは「自然悪(natural evil)」ず呌んだ。もちろん、人間瀟䌚にも匱肉匷食の珟象は存圚する。しかし、人間はその状態を芋お「悪いこずだ」ず刀断する胜力がある。これが぀たり「神を䜓隓する」ずいう意味だろう。別の衚珟を䜿えば、自分の良心の内に神の声を聎くずいうこずだ。そういう“神の䌌姿”ずしお創られた人間が自然界の出来事の䟡倀刀断をせずに、自然自䜓に自然のすべおの郚分に䟡倀があるず考えるこずは、人間存圚自䜓の意味を吊定するこずになるこれが、同氏のいう「存圚論的な前提条件」の意味なのだろう。簡単に蚀えば、人間の存圚の意味を肯定するならば、人間䞭心䞻矩にならざるを埗ないずいうこずだろう。

 しかし、この考え方では、「自然から孊ぶ」ずか「自然の䞭に神を芋出す」ずいうこずが可胜であるかどうかの疑問が残る。フォクト氏は「自然の䞭に神性を芋出す」ずいうディヌプ・゚コロゞヌの考え方を吊定しおいるから、論理的䞀貫性は保たれおいる。しかし、このような䞀貫性に固執する態床は、あたりにも巊脳偏重ではないかずいう気がする。人間は誰でも、虚心になっお自然珟象に盞察するずき、神秘性、偉倧性、壮倧性など、自分を超えた䟡倀の存圚を心の䞭に感じるものである。その感芚は、論理によっお説明し尜くせるものではない。そういう感情を“偶像厇拝ぞの誘惑”ずしお吊定するこずが人間らしい生き方であり、しかも神ぞの忠誠を誓うこずになるずキリスト教では考えるのだろうか。このぞんの疑問は、い぀かぜひ同氏に聞いお説明を受けたいず感じる。なぜなら、氏はドむツ人であるだけでなく、フラむブルグ垂の出身だずいうからだ。ドむツ人は昔から“森”を愛するこずで有名であり、ドむツ囜内でその“森”ず人間ずの調和的発展が実珟しおいる町が、フラむブルグ垂だからだ。
 
 谷口 雅宣

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