オーストラリアで爆発的に繁殖したアナウサギ(Liz Poon, CSIRO) 人類の歴史は「失敗の歴史」ともいえる。国を統治した王や、戦いの先陣に立った英雄のたった一つの判断ミスが、国や民族の命運を分けた例は数知れない。一方で、通常なら歴史に名を残すことのないような一個人の過ちが、その後の世界を大きく変えてしまうこともある。
ナショナル ジオグラフィックの書籍『失敗だらけの人類史 英雄たちの残念な決断』は、そのような歴史的な「失敗」の数々を取り上げ、何を間違ったのか、その結果どうなったのかを解説する本だ。ここでは、オーストラリアにウサギを持ち込み、その生態系をがらりと変えてしまった一人の男の物語を紹介しよう。
■持ち込まれたウサギ
トーマス・オースティンの肖像 時は1859年、オーストラリアのビクトリア州でのこと。ビクトリア州順化協会に名を連ねるトーマス・オースティンは、ウィンチェルシーに所有する自らの土地で、クリスマスに狩りを行うことにした。本国イギリスの生活をうらやむ気持ちと、狩りをしたいという彼の願いが、やがて史上まれに見る生態学的災害を引き起こすこととなる。
彼は、世界中の多くの入植者や移住者と同様、好ましくない周囲の環境になじみの動植物を加えることで、故郷のような雰囲気にしたかったのだ。イングランドに兄を訪ねた際、彼はウサギ狩りを何よりも楽しんだ。あまりに楽しかったので、ウサギをオーストラリアに送ってほしいと兄に頼む。そして24匹のウサギを送ってもらい、所有地に放した。
乾燥したオーストラリアの環境に、ウサギは完璧に適応した。天敵の不在と暑さから守ってくれる巣穴のおかげである。持ち込まれたウサギは、殖えに殖え続けた。
1866年には、オースティンの地所だけで1万4000匹以上のウサギが射殺される。しかし彼は、タカ、ワシ、ネコといった捕食動物も射殺していたので、ウサギの生息範囲は広がった。1886年には、北はクイーンズランドにまで広がり、1900年には、砂漠を4800キロ越えて西オーストラリア州やノーザンテリトリーにまで達していた。
1859年に放たれたウサギは、40年もしないうちにシドニーやアリススプリングズへ。わずか100年でケアンズやパースへも到達した
オーストラリアでのウサギの移動は、世界中のどこの哺乳動物よりも速かった。南イングランドにノルマン人がウサギを持ち込んだのは1066年。それが800キロ北のスコットランドへたどり着いたのは、1950年になってからのことだった。それに比べると、オーストラリアでのウサギの増え方がいかに爆発的だったかわかる。
■ウサギとの戦い
オーストラリアでは、ウサギの数を抑制する初期の取り組みとして、射殺や毒殺、ウサギよけフェンスの設置などが行われた。1883年までには、ニューサウスウェールズ州でウサギを規制する法律が制定され、飼いならされたウサギを放した子どもを刑務所に6カ月間入れることも可能になっていた。西オーストラリア州政府は1907年、過去最長のウサギよけフェンスを完成させる。北部から南部に至る、全長1150キロのフェンスだ。その後、フェンスはさらに2カ所設置される。
1000キロ以上にわたり張り巡らされたウサギよけフェンス やがて、ウサギの殺し屋と皮剥ぎ人の一貫した取引が始まった。オーストラリア・ラグビーリーグの創設時から存在するクラブの一つは今も「ラビットーズ」という名前だが、これはウサギの皮剥ぎ人が街を行商して歩くときの呼び込みに由来する。
1940年代にはウサギの推定個体数が8億匹に達し、国はウサギ1匹あたり1豪ドルの損害をこうむっていた。ウサギは特に地元の動植物に壊滅的な影響を与えている。オーストラリアの南海岸の沖に浮かぶある島では、1906年から1936年にかけてウサギが生息したことにより、オウムの3つの種すべてと、この島の樹木26種類のうち23種類が消滅した。他の地域では、ウサギの出没の直接的な結果として、哺乳動物の在来種の66~75パーセントが姿を消したと推定されている。
■ウイルスを用いた駆除も
1950年代に、感染性の高い粘液腫(ミクソーマ)ウイルスを導入することでオーストラリアのウサギの約95パーセントを処分した話は有名だ。しかし、それでは十分でなかったことがのちに判明する。残りの5パーセントがその免疫を獲得したため、元の木阿弥となったのだ。
しかし1996年以来、物議をかもすカリシウイルスの導入により、個体数は再び減少に転じている。にもかかわらず、シドニーの北西の郊外はいまだにウサギの集団に悩まされており、相当な物的損害や、住民がウサギの巣穴に落ちて重傷を負うなどの被害が報じられている。
オースティンは立派な大邸宅を建て、繁殖させた競走馬は勝利を収めた。地元の事業への寄付も行い、メルボルンには今も彼の名前を冠した病院がある。しかし、オースティンは大豪邸の完成を待たずに亡くなった。皮肉なことに、かつての皇帝ネロと同様、自らがもたらした荒廃の上に、素晴らしい建物を作ったのだった。
[書籍『失敗だらけの人類史 英雄たちの残念な決断』を再構成]
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