おこしやす つらら庵 ♪
有名な画家なので、知っている方も多いかと思います。
皆さん、日本画と聞いてどんなイメージをお持ちでしょうか??
こんなん?
出典:http://www1.u-netsurf.ne.jp/~hi-yama/sesyuu.jpg
これは雪舟はんの有名な絵です。
日本画と言えばこんな感じの、いかにも和な絵をイメージする方も多いと思います。
ですが、”日本画”という定義は凄く曖昧なのです。
国名+画 なんて普通無いですからね(;^_^A
アメリカ画とかフランス画とか聞いたこと無いでしょう??
この日本画と言う厄介なネーミングこそが、日本画への理解を分かりにくくしてるんかなぁ。
前にも何回か言っていますが、現代において日本画を一応無理にでも定義付けてみると、岩絵の具を使って描かれている絵画を一般的に日本画と呼びます。
いや、呼ばせます。(笑)
だから一見洋画の様なものも、岩絵の具を使っていれば…
(作・杉山寧)
これも日本画ですし、
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(作・横山操)
これも日本画です。
少し話はズレましたが、本日ご紹介する東山魁夷も、一見日本画のイメージとは少し違う作風の日本画家です。
代表作が何作かあるのですが、う~ん、やっぱりこれかな。
出典:http://livedoor.blogimg.jp/yuki_snow1106/imgs/9/8/984a280a.jpg
(緑響く)
波一つ立たない鏡の様な湖面は林立する木々を正確に写し取る。
そこを横切る真っ白な馬は夢か現実か…。。
…何をかっこつけとんねん(笑)
どうですか?深い静けさ、色彩のハーモニー、そこはかとなく漂う清潔感。
なぜこの人がかの有名な横山大観を差し置いて日本の国民的画家と言われるのが分かりますよね。
…いや、大観ももちろん近代日本画を切り拓いた素晴らしい巨匠ですが・・・。
ごめんな大観さん。悪気はないのよ(笑)
東山魁夷の絵はどこか現代人の感覚にフィットしますよね。
この絵が描かれたのは魁夷がもう世に認められたのちの事。
それまでに魁夷は語るに尽くせぬほどの苦難を経験し、克己して見事巨匠になった珍しいタイプの画家です。
それでは、簡単にですが作品と共に魁夷の人生をご紹介しようと思います。
東山魁夷は明治41年、三人兄弟の次男として神戸に生まれました。
遊び好きの父と、ただただ苦痛に耐えるのみの母との険悪な夫婦仲もあってか、魁夷少年は内気に育ち、一人部屋に籠り、苦しみから逃れるように絵にのめり込みます。
大好きな絵本の模写をしたりする内に、漠然と絵の道を志すようになりました。
これは魁夷15才の時の自画像です。
油絵で描かれています。
真直ぐにこちらを見つめる眼差しは、この画家の純粋さと強い信念を如実に表していますね。
ここ、結構大事なポイントだと思うのですが、魁夷は絵を始めた当初、このように日本画に強い拘りを持っていなかったんです。
没後公開された芸大に入る前の絵も全て油彩か水彩です。
なぜ日本画を始めたのかと言うと、厳格な父が、絵の道に進みたいと言う魁夷に対して、「日本画科なら」という条件付きで入学を許したからです。これが運命だったと思うと不思議。
ですが、この時から降りかかる矢の如く不幸が次々と魁夷を襲う。
他国との不穏な空気に包まれていた当時の日本。
実家の生業も折からの不況で傾き始め、魁夷は挿絵のアルバイトをして家族に仕送りしながら画業を修めます。
魁夷が卒業の年の四年生の時、兄が結核のため命を落とします。
ここから、魁夷は肉親を次々と全て失います…
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出典:http://www.art-annual.jp/wp/wp-content/uploads/2015/10/e47ce44021717dc3c6d6e9c8426c945a.jpg
上2点は魁夷が在学中に描いた作品。
初期から風景画を好んだ魁夷ですが、この頃の画風にはまだ深く静かな、所謂、
”東山ブルー”は見られません。
南天も日本画の古典技法をしっかりと踏んだ手堅い表現になっています。
魁夷は卒業後、画風を模索する為にドイツに留学します。
出典:https://www.gooworld.jp/car_info/drive/KANTO/1111/img/21_l.jpg
上記2点はドイツの風景を描いた作品ですが、いずれも魁夷が画風を築き上げた、大分後の作品です。
ですが、このドイツ留学は確実に若かりし頃の魁夷の画嚢を肥やしました。
芸術の都パリではなく、ドイツを選ぶあたりに魁夷の性質が見て取れます。
しかし、留学期間を一年残したまま魁夷は帰国。父が倒れた為です。
帰国の十年間、魁夷は地を這います。
病で倒れた父、兄と同じ結核の病に冒された弟、脳梗塞で倒れた母、家業の行き詰まりで抱えた莫大な借金。
これらすべて魁夷の身の上に降りかかってきたのです。
画業の傍ら、挿絵のアルバイトをし家計を支えました。
父が他界し、借金を返し終わった頃、既に魁夷は鳴かず飛ばずのまま37歳になります。
ようやく実家を整理し、落ち着こうかと言うとき、折あしく日本は大東亜戦争。
魁夷に召集令状が届きます。
自分の身体に爆弾を巻き付け、敵の戦車の下に潜り込み自爆するという想定の元訓練をさせられます。
訓練が終わった時、眼前に開けた千葉県鹿野山の眺望。
淡く光を受け輝く山に魁夷は心を打たれます。
「生きてもう一度筆を握れるとはよもや思わないが、もしそれが叶ったなら、この感動を絵にしよう。」
魁夷はそう思った。
昭和20年、終戦。
出典:http://livedoor.blogimg.jp/masuzawa05/imgs/4/0/40b075ad.jpg
明日をも知れぬ中、訓練中眺めた鹿野山の風景。
その心象を基に、沈みゆく夕日が最後に投げかけた光を淡く映し出す連山の風景画を描きました。
この作品は見事特選に輝き、政府買い上げとなり、風景画家東山魁夷が誕生する契機となりました。魁夷37才。
しかし、訪れた人生の春を一緒に喜び、分かち合う肉親は既に皆この世を去っていました…
つづく
また、おこしやす つらら庵 ♪
〇水墨DE名人〇
「羽生善治」