(c)小池未樹
ケータイ小説の世界では一貫して、ここでしか描けない類の物語が繰り返し生産され続け、強い支持を集め続けてきた。一般的な少女マンガや少女小説で堂々ヒロインをはれるような少女たちだけではなく、そこからははじかれるような属性の少女・女性たち――「少女は清らかな存在であるべき」というコードから逸脱した存在も、ここでならば、救済や回復の物語の主役になれる。
この「はじかれる属性」のことを、ケータイ小説ブームの頃の大人たちは「ギャル」という言葉でくくっていた。特に批評の世界では、「ギャルが自分たちのための物語を紡ぎ始めた」という言い方がよくされた。だからこそ、ギャル文化が衰退していくとともに、ケータイ小説も消滅したとみなされたのである。
しかしケータイ小説は残った。ギャル文化とともに潰えはしなかった。なぜなら、既存の少女向けコンテンツからはじかれていたのは「ギャル」という自己表現スタイルではなく、「ギャル」に付随すると世間から見なされていた、「清らかでない」という一種のタグの方だったからである。「切ナイ実話」から「溺愛」へとケータイ小説のテイストが変わっていく中でも、この「清らかでない少女をも救う」という一種の方針は脈々と受け継がれた。
ただ前回の終わりに書いたように、私はこうしたケータイ小説物語の芯にある考え方、すなわち「いくら『汚れ』ようとも、『真実の愛』を見つければ救われるという希望」について、大きな危うさを感じてもきた。そして、そこから目をそむけるべきではないと、あくまで個人的にだが思っている。