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文禄・慶長の役で日本軍の先鋒だった加藤清正が1607年に建てた熊本城。 |
蔚山市中区役所が日本観光客の誘致などのために鶴城公園に10億ウォン(約1億508万円)の予算を投じて慶長の役当時の姿を再現する工事を行っている。特に、鶴城公園入口に当時朝鮮軍の都元帥・権慄(クォン・ユル)、明国将軍の楊鎬とともに武将・加藤清正の銅像を建てる。1.7メートルの加藤清正像は現在、考証を経て製作中だ。
蔚山市中区鶴城洞に位置した鶴城公園は「倭城」と呼ばれている。当初は新羅の戒辺城(貿易港)だったが、1597年の慶長の役当時、倭軍が朝鮮と明国連合軍である朝明連合軍に対抗するために新しく建てた。当時の日本の武将は加藤清正だった。彼は倭軍を率いてここで背水の陣をひき、朝明連合軍と激しい戦闘を行って守城に成功し、数多くの朝鮮軍を殺した。その後、1598年11月18日に豊臣秀吉の死によって撤収することになった日本軍は城に火を付けて城の裏側にある太和江(テファガン)下流で船に乗って離れた。
蔚山市中区役所は加藤清像の設置に対して「歴史的に意味のある鶴城公園がスラム化し、市民から遠ざかる現実を取り戻すためのもの」としながら「設置される銅像は権慄将軍と明の楊鎬将軍は騎馬像で蔚山市倭城に進撃する姿であり、加藤清正は島山(トサン)城戦闘で城内に孤立されて水と食糧不足で苦しめられている姿」と明らかにした。
だが、地域社会と政界は「日本がまだ謝罪をしたこともないのに日本の武将の像を建てるのは間違っている」として反発する雰囲気だ。民主党蔚山市党は20日、声明を出して「鶴城公園は加藤清正が数多くの朝鮮人の犠牲を通じて建てた公園であり、慶長の役当時最も激しい戦闘が起きたところで怨念がこもっている歴史的現場」としながら「市民の情緒上でも許されることができず、未来世代に対する正しい歴史観確立にも決して役に立たない。さらに、蔚山の象徴として代表される公園に観光活性化の名目で加藤清正像を建てるという発想こそ、歴史を正しく立て直す作業とはかけ離れている」と指摘した。
蔚山市中区役所関係者は「事業が完了すれば、解説士を配置して訪問客に当時の歴史的状況と意味を説明するだろう」とし「むしろ戦闘の惨状を写実的に伝えて愛国心を呼び覚まし、学習の場として活用される効果があるだろう」と明らかにした。
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