なぜはあちゅうが今さら創作の話を持ち出すのか、普通に生活していると理解できない。しかし、はあちゅうの立場に立ってみれば簡単にわかる。
端的にいうと、はあちゅうは『コンテンツ』でもあり『人格』でもあるという微妙な立場にある。そしてこの立場では絶妙な立ち回りが必要なことに気づいていない。
『コンテンツ』のコードはゆるい。セクハラするキャラであればセクハラ描写が許されるのがコンテンツの世界だ。セクハラキャラの芸能人がツイッターでセクハラツイートしてもよほどのことがなければ炎上することはない。
『人格』のコードは複雑な上に厳格だ。人格のコードに正解はほとんどないので「嫌われる」「好かれる」のラインを暫定的に採用するしかない。ポリコレは現代社会ではそれなりに無難な指針になる。
一般人の生活はコンテンツではないので人格のコードだけで生きていけるし、コンテンツとしてエッジを立たせる必要がない以上コードギリギリを攻める必要はない。
コンテンツとしてのはあちゅうからギリギリ感を捨ててしまうのはかなり難しい選択だ。全てのコンテンツがコードギリギリを攻める必要はないが、コードギリギリを攻めてきたコンテンツがいきなりその路線を棄てることは難しい芸当だからだ。
今回は事例の特殊性もある。
セクハラをされたりセクハラを告発したりするのは人格にしかできない。通常運転の彼女のツイートは(*1)コンテンツに徹しているのかも知れないが、セクハラ告発をしてしまったらそのアカウントは人格にしかみえない。現在ではツイートしてる本人も周囲もコンテンツとして理解すればいいのか人格として理解すればいいのかわからない。混乱した立場をぶつけ合っているからかみ合わない。
芸能人は仕事用の人格(コンテンツ)とプライベートな人格に明確な線を引いている。そこを混ぜてしまうと仕事のクオリティか生活のクオリティを犠牲にすることになる。
はあちゅうは一般人から芸能人化することなく現在の立ち位置に立ってしまった。ホリエモン化(*2)が今から彼女がとれる方向性の一つだろう。その他はまだ思いつかない。
(*2)芸能活動はしなくてもあくまでもコンテンツとしての人格しか見せないし、見えてしまった人格はコンテンツとして消費されることを受け入れる
ちょっと感心した。なるほどコンテンツと人格のコードか。
芸能界ですらその両者ははっきり分かれてないんだよな 特に若い女というのは殊更に、人格としての本人とコンテンツとしての本人がごっちゃになってる 若いだけでもてはやしてるから...