「ごめんなさい。皆さん、突然のことで混乱させてしまったみたいで」
平林さんは、思った以上に皆の反応が大きかったことに謝罪した。 実際、茶話会に参加しているメンバー全員(片山智恵子、猪子由美、湊エリカ、助川光子、田戸ふみ)は、呆気にとられていた。 これまで、各々が語ってきた百鳥悠次郎とのエピソードが一気にかすむくらいに平林さんの告白にはインパクトがあった。熱気を帯びていた会場に冷や水をかけるような告白は誰もが思いもよらないものだった。 (平林さんが、百鳥悠次郎の婚約者だったなんて……ということはあの写真の女性は……) 百鳥ユウカは、父の書斎で見つけた一枚の写真の中にいた女性の面影を平林さんの現在の姿に見つけた。どうして気づかなかったのだろう。
「ユウカさん。突然のことで驚かせてしまって、そして嘘をついていてごめんなさい。最初にあなたから電話があった時、私はすぐに当時のことを思い出していたのだけれど、電話で話すには、当時の私の気持ちがちゃんと伝わらない気がして、今日はわざわざあなたに来てもらったの」
「そうだったんですか。……でも、なぜ?」
「なぜって? それは、ここにいる参加者の人たちにも私は謝らないといけないと思ったからよ」
「どういう意味ですか……?」
「ここにいる人たちは全員、百鳥悠次郎さんと関係があった。それは当時から私も知っていました。もう30年も前の話だけれど、皆さんと悠次郎さんとの仲を引き裂いたのは私だから。当時は、あなたたちのことを恨んだりもしたけれど、皆さんも悠次郎さんと遊びではなく真剣に交際していたということを聞けてよかったと心から思う。私はこれまで、あなたたちから悠次郎さんを奪った埋め合わせとして、不動産投資に関するいろんなことをお教えしてきたの。皆さんが投資で成功されたことは自分のことのように嬉しいし、生活を安定させられて、すごくよかったと思う。でも、悠次郎さんのことを今でも昨日のことのように話すあなたたちをみると、悪いことをしたとも思うの」
年長の助川光子が全員の声を代弁するように口を開いた。 「平林さんにはもちろん感謝しているし、その……悠次郎さんが本当に平林さんの婚約者なら、悪いことをしたのは私たちの方だと思う。でも、婚約をしていたのに、悠次郎さんと結婚されなかったのは、私たちとの浮気が原因ですか?」
「ううん、それとは関係ないの。結婚しなかった理由は、今となってはどっちでもいいことかもしれないけれど、皆さんには時系列をおって、ちゃんとお話した方がいいと思う。ちょっと混乱している人もいるみたいだし」
百鳥ユウカは、混乱している人のひとりだ。 平林さんが婚約者ということは、父の話していた思い出の女性が平林さんということだけれど、これまで茶話会メンバーで暴露しあっていた秘密は、どの人とも真剣に交際していたような印象だった。そもそも、片山智恵子だって最初は婚約者だと名乗っていたじゃないか。
平林さんは、丁寧に当時を思い返すように私たちに事のあらましを説明してくれた。2時間後、公民館の一室は、涙ぐむ者もあり、平林さんに謝る人もあり、不思議な雰囲気に包まれた。誰も平林さんを恨む人はいなかった。一方の主人公である百鳥悠次郎については、複雑な存在ですぐには軽々しく口にできる人はいなかった。
以下は、平林さんが語ってくれた内容だ。
「あの頃から、さかのぼってさらに1年前、私と悠次郎さんは知り合いました。場所は大学のボランティアサークルでした。当時は、あまりボランティアって言葉も一般的じゃなかったんですけど、敬老院や孤児院なんかにいってレクリエーションをするようなサークルで悠次郎さんは、すでに4年生でした」
「へぇ、そんなサークルに所属してたんだ、意外」湊エリカが相槌を打つ。客商売をしてるだけあって、どんな話にも相槌を打つのが習慣になっているようだった。
「そう、意外ですよね。私は途中から参加するようになったんですけど、悠次郎さんは最初からそのサークルしか入らなかったみたいで、理由を尋ねたら『僕は人に迷惑をかけることが多いから、こうして時間がある時は、人の役にたっていた方がいいんだ。罪滅ぼしみたいなもんだよ』と言っていました。当時は、特に何か感じたわけじゃないですけど、後々、彼は大学卒業と同時に親の反対を押し切って整備士の学校に通い出したので、その言葉の意味も半分は、わかったような気になりました」
助川光子は元看護婦だけあって、奉仕精神は豊かな方だが、悠次郎にそんな一面があることには湊エリカ同様、意外な印象を持った。「あの頃、悠次郎さんが私に情けをたくさんかけてくれたのは、まさかボランティア精神?」という言葉が頭をよぎったが、すぐにそんな言葉は頭の片隅に押し込めた。
「私たちの付き合いは、大学卒業間際の就職するかしないかの時期から始まりました。周りは企業にサラリーマンとして就職するなか、飛行機の整備士になりたいという夢を諦めない悠次郎さんの姿に私は惚れたのです。実家から経済的援助が出ないということもあり、悠次郎さんは迷っていましたが、『お金のことなら私が面倒をみるから!』と言って、私は彼を整備士の学校に通わせたのです」
「すごいわね、平林さん。男のためにそんな事なかなか言えないわよ。本来なら男女逆でしょう」
片山智恵子らしい発言だった。彼女はどんなに好きな男であっても自分からお金を出そうとはしないだろう。男も潔くその申し出を断って欲しいと思う。しかし、悠次郎はその申し出を受けたそうだ。
「私と悠次郎さんは、将来を約束しあう恋人同士として結婚を誓い合いました。私と悠次郎さんとの間も口約束でしたし、片山さんや田戸さんとその点は変わらないかもしれません。でも、きっとその夢はいつか叶うはずだと信じていました。そして、私と悠次郎さんは私の両親に挨拶をすることになりました。ところが、です。うちの父は、大学まで出ているのに、まだ学校に通ってる悠次郎さんのことを信用できなかったらしく『そんなフータローに娘はやれん。別れてくれないか』と直接面と向かって言い放ったのでした」
「平林さんのご両親は厳しかったんですね。やっぱり資産家でいらっしゃるから、素性のしれない人間は近づけないということ?」
田戸ふみが口を挟む。田戸ふみにとっても悠次郎は憧れのお兄ちゃんで、当時、将来結婚の約束をしたつもりになっていたが、どうやら平林さんの方が何倍も本気だったようだ。
「そうですね。自分の家のことを言うのは恥ずかしいけれど、うちは調布に大きな土地と山林をもっていたでしょう。昔は大きな農家だったのだけれど、それを父の代でアパートや借家を建設して不動産賃貸業を営むようになったの。都心から近い調布は急速にベッドタウン化が進んで人口も増えていたから、父の目の付け所はさすがだった。そんな父から、フータロー扱いされてしまったから、私も正直どうしたらよいかわからなくて……。金銭的援助だって父のお金をあてにしてたようなところが私にはあったから。今考えると私は、まだ全然子どもだったのね。でも、私は大学を卒業したあとは、父の経営する不動産管理会社に就職することが決まっていたから、ここで一計を案じたの。父が経営するアパートのひとつにこっそり悠次郎さんを住まわせてしまえば、悠次郎さんは家賃もかからないし、負担も少なく学校に通えるかもしれない、と。それが私のできる精一杯の金銭的援助だと思ったの」
「それが、私たちの住む平林荘だったということですか? ひょっとして悠次郎さんは家賃を払ってなかったんですか?」
猪子由美は、平林さんに質問をした。悠次郎の部屋の隣に暮らしていた彼女は、ずっと悠次郎に片思いをしていたわけだが、部屋の音が隣に筒抜けになるほど安普請のアパートは、当時でもかなりの格安の賃料で貸し出されていた。
「そうね。彼は借りている家賃分は必ず将来払うと言ってくれたんだけど、私がいらないと言ったの。そのかわり、必ず夢を叶えてね、って彼に伝えてた。私は私がとっていた自分自身の行動に酔っていたのかもしれない。こういうように彼に尽くせば、きっと彼は私のことをもっと好きになってくれるかもしれない。そして、お互いがお互いを思い合えるような理想的な関係になり、いつしか夢を叶えた悠次郎さんに父も折れて、祝福されながら結婚できるかもしれない。そう思うようになっていった」
「ちょっと典型的な貢ぐ女の思考ですね。平林さんには失礼かもしれないけど」 湊エリカの言葉には嘘がない分、いつも直球だ。言ってしまった後に、あ、ごめんなさい。なんて表情を浮かべている。言葉でよく間違いを犯してしまう湊エリカはだから私は友達が少ないんだと少しだけ反省する。でもすぐ忘れる。
「いいのよ。湊さんの言う通りなんだから。私は百鳥悠次郎にかけていたの。まだ誰にも見つけられていない原石のような彼の魅力に。きっと将来は楽しい未来が描けるに違いないって」
「平林さんは、今と変わらないですね。投資家としての平林さんの基本姿勢と同じだわ。まだ誰にも見向きもされないものを見つけて投資する感じ」助川光子が感心するように言った。
「ふふ、でも、あの平林荘と隣の借家に住んでいた皆さんは、彼の魅力に気づいたじゃない。だから、褒めるなら皆さんも同じよ」
達観したように平林さんは、参加者全員の顔を見回した。 「彼には、周りの女性が放っておかないような魅力があった。それに気づいたのは、定期的に行なっていた管理物件の清掃からでした。平林荘にも定期的に出向いていた私は、郵便ポストの近くであるメモを拾ったのです。そのメモにはこう書いてありました。【悠次郎さんへ。昨日はありがとう。とても楽しかったわ。今度会えるのはいつになりそう?】」
「それは、たぶん私の……」 片山智恵子が肩をすくめるような姿勢をした。さっきまでの態度とは違う。平林さんがすでに婚約していたことを知って、申し訳ない思いを感じているようだ。
「そうね。でも、その時は相手が誰かわからなかった。名前も書いていないし。近くに住んでいる存在を最初は疑ったけど、まさか同じアパートに住んでいる人とは思いもしなかった」
「それはショックでしたね……」 百鳥ユウカが平林さんの心情を慮って、重い口を開いた。実の父のことだから他人事でもないユウカはさっきから、茶話会の参加者以上に肩身の狭い思いをずっとしている。
「ユウカさん、気遣ってくれてありがとう。私もまさか結婚を誓い合った悠次郎さんが浮気をするなんて想像もしていなかったし、悠次郎さんとはアパートの管理会社の人間として頻繁に会ってはいたから、とっさにはどうしたらいいかわからなかった。このメモを突きつけて、『このメモはどういうこと!?』なんて問い詰めることもできたけど、私はそれができなかった。私はまだ彼を信じていたかった」
平林さんは、いつのまにか乾いた喉を癒すために湯のみに入ったお茶をすすった。そして、すでにぬるくなっていることに気づき、茶話会開始からずいぶん時間がたっていることがわかった。
「皆さんは同意してくれるかわからないけれど、恋愛っていうのは、リソースを提供した側が縛られることになるの。『ここまでしたから、きっと報われるはず』、『ここまでした私の思いがいつか彼にちゃんと届くはず』、自己犠牲はいつしか離れられない執着心へと変わるの。そんな思いは、今ならわかるけれど、当時の私はまだ子どもだったから、ただ彼を信じていたいっていう盲目的なものに変わるのに時間はさしてかからなかった。浮気の証拠を発見して、その思いは逆に強くなったわ。ここで諦めてはダメ。きっとこれは何かの勘違い。これからも、きっと悠次郎さんはいつもの笑顔で、私を抱きしめてくれる。彼の笑顔を、私たちの関係を、こんなメモひとつで曇らせてはいけないって、そう考えたの」
明らかな浮気の証拠を見つけても、それを問い詰めるかどうかは、パートナー次第だ。それで別れを選択する人もいるかもしれないが、もし、これまでにつぎ込んだ時間や労力、お金のすべてが無駄になるとしたら、自分が全否定されるように感じて、それを勇気を持って断行できる人は少ないのかもしれない。
ユウカは、平林さんの気持ちがよくわかった。そしてこの時、あることを思い出していた。 1年前に、関西で出会ったアキのことだ。アキは北新地でキャバクラで働いていた名うてのママだった。彼女がこんなことを言っていた。
「ねえ、ユウカ、私が以前あなたのことをモテない美人って言ったことを覚えてる?」
「よく覚えていますよ。ショックだったけど、当てはまるところもあるから。でも、なんでそう思ったんですか?」
「それはね、あなたが恋愛に対して真面目で尽くすタイプと思ったからよ。たとえば、お客がお店に通ってくれるためには何をすればいいと思う?」
「うーん、お客さんに店に来てもらうためには……正直ちょっとわかりません」
「それはね、ガンガンお金を使わせることよ。普通に考えたら、あまりお金を使わせるとお客も嫌気がさして離れていってしまうと考えるでしょう。でも、実際は逆。お金を使えば使うほど、お客は女の子のことが好きになるの。そして、ますます通うようになる。これはね、嫌いなお客にすることでもないのよ。自分が通って欲しいと好意を持ってるお客に対しても同じことをするの。お客のことを思えば、お金を使わせない方が思いやりがあるように感じるかもしれないけど、こと恋愛に関してはまったく逆なのよ」
「マジですか、アキさん」ユウカは目を丸くして答えた。
「そう、だから彼に離れていって欲しくないと思って、自分がアレコレ世話を焼いてお金を貢いでっていう人間は大勢いるけど、これは全然間違い。なんだかんだわがままを言って、自分にお金を使わせた方が彼は離れていかなくなる。なんていうのかしらね、逆説の真理なのよ。あなたのことを『モテない美人』って言ったのはそういう意味よ。変なところで男を立てたり、尽くしたりするから、男に逃げられるのよ。立て時、尽くし時っていうのがあるの」
まさか、北新地で聞いたことを調布の公民館でも聞くと思っていなかったユウカは、世の中の恋愛の真理のシンプルさに得心した。
(イラスト:ハセガワシオリ)