不良の集まりだった伏見工は、わずか数年で京都の強豪と呼ばれるまでになった。“京都一のワル”と恐れられた山本清悟(57)が高校日本代表に選出されると、1978年(昭53)春には後に日本ラグビー界を支える存在になる平尾誠二(享年53)が入学してくる。全国大会出場を果たしたチームは、ついに日本一へ手をかける。

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■バンビの様な純粋な目

 あれから、40年もの歳月が流れた。

 「弥栄(やさか)の清悟」と呼ばれた山本が初めて高校日本代表に選出された77年の冬、山口はある中学生の自宅を訪ねた。

 毎年、10月10日に開かれていた京都ラグビー祭。伏見工-花園高の前座試合として行われた、陶化(とうか)中(現凌風中)-修学院中の試合で衝撃を受けていた。

 「あのスペースを突いたらチャンスになるやろうな」

 そう思いながら見ていると、きゃしゃな体つきの陶化中のスタンドオフ(SO)は、山口の理想通りにボールを動かした。

 名前を尋ねると、バンビのような純粋な目で「平尾誠二です」と答えた。

 その時、既に花園高へ特待生で進むことが決まりかけていた。断られることは覚悟の上で自宅を調べ、足を運んだ。寒い日だった。

 「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年間は勝てないやろうと思った。チームはようやく力を付けてきていたが、まだ学校はワルの集まり。親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。親を説得するのは難しかった。少しでも望みがあるのならと、必死で本人を口説いた。俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。必ず、日本代表に育ててやる、と」

 精いっぱい夢を訴えかけた。できる限りのことはしたつもりだった。帰り際、両親に深々と頭を下げ、ふと平尾の自宅を振り返る。そこまでしても山口は「無理やろうな…」と心の中で寂しい思いを抱いていた。

 年が明け、京都にも公立高校の入試の時期が迫っていた。職員室に次々と出願書類が届く。あのバンビの目をした陶化中のSOは、花園高に行くものだと信じて疑わなかった。だが、その1通に「平尾誠二」の願書は、あった。

 「平尾が伏見を受けてくれる! あの平尾が…」

 目から涙がこぼれた。それと同時に「これで、本気で全国を狙える」と熱いものがこみ上げてきた。

■川に投げたトロフィー

 オール京都(京都選抜)で平尾とハーフ団を組んでいた修学院中のスクラムハーフ(SH)高崎利明(55=現京都工学院教頭)も、両親の反対を押し切って伏見工に入学した。1学年上には後に日本代表として活躍する大八木淳史(56)がいた。わずか3年前に0-112で花園高に大敗したチームは、強豪へと生まれ変わりつつあった。高崎は40年前を振り返る。

 「母親の実家が学校から近い伏見稲荷にあったので、荒れているのは知っていた。親は大学に行かせたいから、普通科に行けと言われていたけど、建築の勉強がしたいと説得しました。僕らが入った時には、土台ができつつあった。1年ごとに確実に成長していて、いい時期だった」