20. 同年代と私の断絶

この記事は「再起する青年 Advent Calendar 2017」20日目の記事です。


自己紹介

ここまで19日書いておいて何なんですが、私とある程度親しくない人からしたらこの「再起する青年」ってなんだよ…ってなりますね。なので改めて自己紹介をします。

kdxu という名前で活動しています。25歳、趣味は水泳、読書、音楽、ゲーム(得意なのはぷよぷよ)で、自営業のソフトウェア技術者として就労しています。基本的にはサーバーサイドアプリケーションの開発をしています。

経歴: 1992年、島根県で生まれ。3歳のときに鳥取県に越してきて、小・中・高と米子市で過ごし、2010年の春に大学入学を機に上京してきました。お茶の水女子大学情報科学科・同大学院理学専攻(型推論器の定式化を研究していました)を経て、現在社会人2年目です。

なぜ再起する青年?

まず去年の話をします。

新卒で入った会社で色々あり、すぐに肉体精神共に壊れてしまい、入社2ヶ月後に休職しました。そのあと1ヶ月と少ししてから復職し、だましだまし3ヶ月は働いたものの、自分は休んだとはいえ、あまり元気のある状態ではなかったし休んでいるうちに適応力をつけたわけでもなかったし、特に職場の環境は変わっていなかったので、当然毎日辛いばかりで「ああ、自分はここにいると、早いうちに体ごと破滅してしまうな」と言う疑念が拭い去れず、結局退職しました。なので新卒の会社にいた期間は半年、さらに実働していた期間は4ヶ月もありませんでした。

たった半年の間の出来事とはいえ、自分はそこで多くのもの(健康、感情、お金、友人、社会的信用など)を失い、またいろいろな事ができなくなりました。なのでここで自分は「社会的な死」を経験したな、と思っています。この「社会的な死」から少しずつ快復していくまでの過程が「再起」で、なので私は今現在「再起する青年」なわけです。

そういった経験から分かった自分の個体値の歪み

こうして「社会的な死」を経験してわかった事が2つありました。それは自分は肉体、精神共にあまり強くないという事です。

大学の頃から頻繁に熱を出したり感染症にかかったりしてはいたので、なんとなく人よりは弱いんだな、とは思っていましたが、会社員になってからそれをさらに実感することになりました。多くの人は病欠で有給使い切らないし、月に2日以上動けない日があるわけではないことを知りました。(体力がある人が多い会社だったから余計そう思ったのかもしれないですが。)他にも、年上の方と話していて「20代はマリオで例えるとスター状態で無敵だけど30以降はそうもいかなくなるよ」と言われたりするのですが、とても自分にはスターが付いているようには思えず、平均との隔たりを実感しました。

体力がなくて頻繁に休んだり、早上がりを繰り返したりすると、場所によっては白い目で見られたり、陰口を叩かれることがあります。休職の相談を上司にしに行くときですら、「ヘイトを溜める奴」と言われていたことを覚えています。(自分が組織から疎外されていた事自体に関しては、もちろん他の要因もあったように思います)

今思えば、個人的な範囲の人間関係の悪化程度であれば無視しとけば良かったのですが、組織から疎外されたことにより仕事自体が非常にやりづらい状態になってしまいました。具体的には、チームにおいて自分の発言だけなんとなく無かったことにされたり、レビューをされなかったり、とかそういう話です。

そうなると「この会社に自分がいて得でもないし、自分にとってもこの組織にいて得はないな」という事を毎日実感させられます。

こういうとき、強い人はそれでもそこできちんと怒ったり、おかしいと言えたのかもしれません。ただ当時の自分は先に体が参っていたのもあり、判断力や発言の意欲が著しく低下していて、まずその観点に立つ事すら出来ませんでした。毎日曖昧に出社して、頭痛に耐えながら仕事と言えるかわからない仕事をして、帰る時間になったら帰り、家で泣きながら寝る、の繰り返しでした。毎日だんだん自分の頭が働かなくなっていく感覚があり非常に辛かったです。

このようなエピソードを経て、「自分は(特に対人関係において)精神的に強いわけではないんだな」という事がわかりました。

強くなりたい。

そうしている間に、出世コースを進んでいく同年代たち

得意なことは別にあるけど、少なくとも現段階では、体力的に辛くても理不尽なことがあっても無理して頑張る、ということがあまりできない自分。一方で多少の理不尽や過重労働に耐えつつも能力を発揮して、自分の地位を確立して行く同年代の人たち。そうやって他人と自分を比べて見て、勤労国家では体と心の強靭さがなによりも生きていくのに必要なものなのだなあ、自分はそうはなれなかったんだな、と少し寂しい気持ちになる事が増えました。

同年代から感じられる他者性のゆるやかな喪失

また、こうやって少し寂しい気持ちを抱えつつ、(ある意味同世代の中では特殊な飯の食い方をしながら)同年代の人々と関わっていると、彼らの一部から他者性の喪失を感じさせられることが度々起きるようになりました。

例えば、こんな事を言われることが増えました。「自分はこんな理不尽な就労に耐えてなんとか生きているのに、向いていないからってすぐ辞めたり、そういうお前の甘えが気に入らない」…こいつ、学生の時はそんなに他人に厳しかったっけ、いやそんな事はなかった。甘えとか言わないやつだったし。じゃあ、何がこいつに(職務に関係ない友人としての)他人に「甘え」と言わしめてしまっているのか…?うーん、なんか辛いぞこれは。

理不尽労働が断絶を生んでいるのか

こうした経験から、人は「理不尽労働」を通して「理不尽労働を承認し、美徳とみなす価値観」を持たずにはいられなくなる傾向を持つことがあり、その価値観によって「理不尽労働」に組み込まれていない他者(特に同年代)に対して「自分が辛い中一生懸命やっているのに、お前は耐えずに得をしている、ズルだ」と言わしめているのではないか、と思い始めるようになりました。(経済的な面で言えば実際はそんなことはないはずなのに)

そして、「理不尽労働」及び、「それを承認せざるを得ない環境」によって、自分と同年代の間に少しずつ「断絶」が生まれつつあるのではないか、と漠然と思うようになりました。

そして、そんなこんなでモヤモヤとしていた時、 ある人から「分断社会を終わらせる」という書籍を紹介されました。

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書) https://www.amazon.co.jp/dp/4480016333/

これはまさに悩んでいた部分に切り込んでいる本でした。この本ではたとえば、『勤労に対するイデオロギー的な美徳の価値観や自己責任論が蔓延することが、人間同士の関係や共存を困難たらしめていること』、『「弱者を救うための再分配」から「誰もが共存するための再分配」という理念への転換の必要性』などを様々な実例とモデルの組み立てを通して説明しています。

まとめ

「理不尽労働」と「その美徳」によって自分と他の同年代の一部の人々との繋がり・共存の可能性が少しずつ失われつつあるように感じています。これ誰かが悪いわけでもないし誰も得しないしつらい、というただの愚痴と、これいつかやめたいよね、という意思の表明でした。