なぜ「童貞」を笑いのネタにしてはいけないのか?

アメリカでセクハラが次々に告発されるムーブメント #MeToo、日本でも新しい動きにつながっています。そんな中で、童貞を笑うことも男性側へのセクハラであるという指摘があります。
アメリカ在住の作家・渡辺由佳里さんが、セクハラの構造について指摘します。

はあちゅうさんがBuzzFeedでセクハラとパワハラを告白された #MeToo は、これまで黙っていた日本の女性たちに勇気を与える勇敢な行動だと思う。

私も大学に入学した18歳の頃から数多くの性暴力とセクハラを体験してきたので、他人事とは思えず、フェイスブックなどで支持してきた。

だが、その後、はあちゅうさんの「童貞いじり(ご本人自身の表現)」に関する過去のツイートを見る機会があり、これは彼女の勇気ある #MeToo とは別に問題として指摘しておくべきではないかと感じた。

ツイッターでも誤解している人がいるようなので、ちゃんと書いておきたいが、はあちゅうさんの「童貞いじり」に問題があったとしても、彼女が受けたセクハラを訴える権利がなくなるわけではない。

「セクハラ的な発言をしている人には、セクハラの被害を訴える権利はない」という意見もあるようだが、それはちがう。ふたつのことは切り離して考えるべきである。

繰り返すが、セクハラとパワハラの被害を告白したはあちゅうさんの行動は勇敢だし、これをきっかけに日本の職場が変わってくれるのではないかと希望を抱いている。

この部分は、最初にはっきりさせておきたい。

また、このコラムの目的は個人攻撃ではない。

はあちゅうさんは謝罪文を書いているし、それも評価したい。

そのうえで、この異性間のハラスメントは、はあちゅうさんだけでなく、世間一般にまだまだ誤解があると思ったので、「なぜ童貞を笑いのネタにしてはならないのか」を説明してみたい。

なぜ童貞いじりがセクハラなのか

多くの「セクハラ」は認識不足から起こる。
やっているほうは、「なぜやってはいけないのか?」を理解していないから、非常に無邪気なのだ。

ゆえに、「ささやかな冗談なのに、それがわからないのはつまんない奴だな」という反応や、擁護が起こる。だから、何度も無邪気なセクハラが繰り返される。

やっているほうは無邪気でも、そのためにイヤな思いをする者にとっては、もしかすると一生の心の傷になるかもしれないのだ。


それを説明しよう。

「童貞」とは、まだ性交渉を体験していない男性のことである。

これが笑いのネタになるのは、社会一般のイメージとして、「性交渉」と「男らしさ」の間に密接な関係があるからだ。

多くの女性と性交渉をすればするほど「男らしい」。つまり、男としての価値が上がるという考え方も昔から存在する。
それが、男性の「初体験の年齢自慢」と「寝た女の数自慢」につながる。

私も若い頃には、「14歳からセックスしている」とか「100人を超えるから名前も覚えてないな」といった自慢話を(さほど親しくない)男性からけっこう聞かされた。

これは「セックスしたことのない男は一人前ではない。ふつうの男ではない」という見下げた視線が一般に存在するためだろう。特に、性体験が多い男性からの優越感が混じった蔑みの視線がある。

その視点なしには、「童貞いじり」は笑いのネタにはならない。そこをまず抑えておきたい。

少数の男尊女卑のパワーワードが大多数のノンポリに影響を与える

「童貞いじり」は、とくべつ性行為をしたくない男性や、まだその欲求がない若者にも「セックスをしていなければ男として認めてもらえない」というプレッシャーを与える。

特に、若いときには仲間から認めてもらうプレッシャーが大きい。それがアメリカの高校や大学でのレイプカルチャーに繋がっている。

「レイプカルチャーの背後にある『男らしさ』の重圧」に書いたテーマだが、「童貞いじり」の心理的な影響を理解してもらうために、一部を紹介しよう。

大学のレイプカルチャーの背後には、マッチョで男尊女卑のアスリートに代表される典型的な「男らしさ」のイメージがある。

アメリカの若い男性は、以下の3つのタイプに分けられる。

①女性を自分が利用する道具や物としか考えない男性
②女性の権利を強く信じるフェミニストの男性
③そのどちらでもない中間層

①と②は少数で、大多数は③の中間層だ。

だが、①の男尊女卑のマッチョなアスリートは、崇拝されやすく、強い影響力を持つ。だから、③の集団は、①につい引きこまれてしまう。現在のレイプカルチャーの問題はそこにある。

若いアメリカ人男性が洗脳されている「男らしさ」のイメージとは、「ヒーロー」、「自信満々」、「喧嘩に強い」、「女にモテる」といったものだ。そして、それらを象徴するのがプロのアメフト選手のようなアスリートだ。
男尊女卑の選手が女性への暴力事件をよく起こすが、それまでもが「強さ」の魅力のように捉えられている。

中学や高校の男子アスリートはプロを真似る。そして、普通の男子学生は、学校で人気者の男子アスリートを「男らしさ」の基準にする。

男子高校生や大学生が性交渉した女性の数を争うのは、このピア・プレッシャー(同じ立場の仲間からの監視によって生じる心理的圧迫感)が大きい。

女性が嫌がっても強制的にセックスをして、「●人と寝た」と自慢できるようなステレオタイプの男らしさを拒絶すると、①のグループに属するアスリートや、①に影響されて多数派についた③のグループから、「ホモ」、「ゲイ」と呼ばれ、いじめられ、のけ者にされる恐れがある。

アメリカの凄惨な現場

「性体験の豊富さ」を「男らしさ」に結びつける問題は、ソーシャルメディアでさらに悪化している。『ソーシャルメディアはアメリカの少女たちから何を奪ったか』で紹介したノンフィクションには、次のような心が寒くなる現状が書かれている。

男子生徒は、男同士の間での人気を高めるために、より多くの少女のヌード写真を集めようとする。そして、それをソーシャルメディアでシェアし、評価しあう。
リクエストされた少女は、断ると「お高くとまっている」とけなされ、送ると「あばずれ」の烙印を押されとわかっているので悩む。また、ボーイフレンド(だと思っていた相手)に説得され、「どうせ数秒で消えるのだから」とスナップチャット(SNS)でヌードを送ったところ、スクリーンショットで画像を保存され、学校中の男子生徒にシェアされてしまうというケースも少なくない。

もっとエスカレートすると、少年たちは酒やドラッグで意識を失った少女をレイプし、そのシーンをビデオに収録して回覧する。そういったビデオや写真が満載されているソーシャルメディアを作り出しているのも、男子大学生たちだ。こういった場では被害にあった少女たちは「あばずれ」と嘲笑の的になり、加害者の少年たちは英雄気取りだ。その結果、自殺する少女もいる。


ベストセラー作家のロクサーヌ・ゲイは、今年刊行した『Hunger』という回想録で12歳のときに体験した集団レイプとそれが彼女の人生に与えた破壊的な影響を告白した。

ロクサーヌ・ゲイをレイプしたのは、当時彼女が好きだった同級生の少年だった。その少年は、ゲイが自分のことを好きだと承知のうえで、彼女を離れた場所に呼び出し、友だちの前でレイプした後で、仲間に分け与えた。

この12歳の少年の動機がどうだったのか今となってはわからないが、仲間に「男らしさ」をアピールするためだったということは想像できる。

ここにも「男らしさ」の歪んだイメージの影響を感じる。

言葉には力がある

「童貞いじり」をネタにするほうは「でも、私は見下していない。かえって愛情を抱いている」という言い訳をするかもしれない。「そのくらい笑い飛ばせなくてどうする?」と言う人もいるだろう。

だけど、愛があれば、処女いじりやゲイいじりもOKだろうか。そうではないことは、置き換えればわかるはずだ。

言葉には力がある。

アメリカでは、「ホモ」や「ゲイ」が嘲りや笑いの言葉として使われる影響で同性愛の若者が自殺する。それは、LGBTQの活動家たちから何度も聞いている事実だ。

笑っているほうにとっては軽い冗談であっても、その影響はそこで止まらない。ソーシャルメディアの時代には、価値観やプレッシャーも広まりやすい。セクハラや性暴力も、そんな価値観やプレッシャーではびこりやすくなる。

その犠牲になる人々にとっては、笑い飛ばしてすまない貴重な人生であり生命なのだ。


実際に男性の「童貞」を笑うことと、人格があるひとりの女性を「セックスの対象」というモノにしてしまい、「●人と寝た」という数のひとつにしてしまう行為は程度が異なるように感じるかもしれない。しかし、根底にある認識の構造は同じようなものなのだ。

自分が軽蔑する対象と、同じような危険な認識が、自分自身の中にもすこしはあるということを。それを知るだけで、大きな一歩となるはずだ。

そのことを、今回勇気をもって告発してくれたはあちゅうさんの例をもって、私たちが学ぶ機会になるだろう。

いろんな人がいて、その人たちは脅かされるべきではない

おれ童貞こじらせたから! といった自虐ネタだったらどうか。
そういう男性が多いから、いいのではないか、自虐すらも許されないのか、という指摘もあるだろう。

しかし、そういう自虐ネタの根底にあるのは、自虐で笑いをとらないと自分を受け入れてもらえないような、社会からのプレッシャーがある。そのあたりは、女性による「私はブスだから」とか「ブスでごめんね」という自虐ネタとの共通性もある。

自虐でも、同じ立場の人を「踏みつけてもいい」とほかの人に許可を与えていることになる。
人を踏みつける笑いがあまりおもしろい笑いではないと思うのは、私だけではないだろう。

誰かがそういう自虐ネタで笑いを取らなければならない状況を作ったり、それに加担してしまうことに、私たちは少し敏感になったほうがいいと思うのだ。


繰り返すが、「愛情をもって処女をネタにしています。処女を尊敬しています」というのが男性による女性へのセクハラの言い訳にならないように、「愛情をもって童貞をネタにしています」も女性による男性へのセクハラの言い訳にはならない。

そもそも、生まれつき性行為に関心がない人もいる。

キスや抱擁のほうがセックスより好きな人もいる。

男性として生まれたけれど心は生まれつき女性の人もいる。

女性を愛する女性のトランスジェンダーもいる。

トランスジェンダーだが、性行為にまったく興味はない人もいる。

相手の性に関係なく愛する人もいる。

それらの人々すべてにプライバシーを守る権利があり、他人から「判定」「評価」されない権利がある。それを侵害したり笑いの対象にしたりするのは、誰が誰に対してもセクハラの範疇だ。

だから、「童貞」も笑いのネタにしてはいけないと私は思うのだ。

この連載について

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アメリカはいつも夢見ている

渡辺由佳里

「アメリカンドリーム」という言葉、最近聞かなくなったと感じる人も多いのではないでしょうか。本連載では、アメリカ在住で幅広い分野で活動されている渡辺由佳里さんが、そんなアメリカンドリームが現在どんなかたちで実現しているのか、を始めとした...もっと読む

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コメント

Shu_KG https://t.co/x12EYtg3H6 7分前 replyretweetfavorite

lotushouse あれ?昨日読んだ時にすぐシェアしたつもりが出来てなく時間差シェア。怖いんだよなあこのレイプカルチャー的感度。わてかてやはり男性社会にいたからここまで酷くないながらなんかしら見聞きしてなくもなく端的に下衆なアホなんであるが今なお... https://t.co/ynHfZJaFLR 7分前 replyretweetfavorite

kanchi_206xtp 良記事 > 7分前 replyretweetfavorite

umino_tori 良記事。自虐ネタだから、笑いに昇華してるから許されるとか人間ができているなんていうことはない。それはハラスメントや差別と同じ土壌から生まれるものである。 https://t.co/fi07cWUXSu 16分前 replyretweetfavorite